第8話 煙の中でさようなら
喜世世は驚いた。一日置いて再会した鉄寺は、すっかりリフレッシュした自分と違って妙に疲れているらしかった。顔色も悪く、唇は薄紫、冷や汗をかいて、時々目をとろっとさせてはびくりと身を震わせて。髪も油を垂らしたみたいにイヤに艶々として、まさか風呂に入っていないどころか眠ってさえいないのではないだろうか。
この男が相当愛情深い事は行動を共にする内になんとなく分かっていたが、休憩をしたほうがいいという合理的な判断を失うまでのものだったのだろうか。
「俺に黙って一人でなんか調べてた?そんなのずるいぜ相棒、奥さんの死の謎を一緒に追うって約束したろ?俺は興味本位だけどさ」
「……まあ、掛ける想いが違うのでね。許してください」
「別にいいよん」
男たちは煙草屋の前に居た。煙草屋と言いながらも他の商品を売っていた様で、開け放たれた玄関・粗末で小さ目の引き戸の先には大きな木製の棚が数個並んでいた。レジの近くにある煙草什器はもちろん、商品棚には何も残っていない。レジはとっくの昔に破壊され、埃が詰まっている。男たちはゴホゴホと咳をした。どうにも、あの現場に行ってから体調が芳しくない。
莉華の話によると、店の奥が自宅になっている形式をとっており、ハンティングに出かける以外の趣味がなかった位登は常に店か奥の自宅に居たとのことだ。自宅への扉には大きな南京錠がかけられていたが、肝試しに来た乱暴者がご丁寧に開錠してくれていた。扉の近くにはマスターキーとして使われた鉄パイプが転がっている。足跡だらけのその先へ、まずは鉄寺が土足で乗り込み、靴を脱いでスリッパに履き替えた喜世世が続く。
小さな家だが、二部屋ある。窓が全くなく、店側の狭い玄関を開け放っていても異様に暗いので、男たちはスマートフォンに備え付けられたライト機能を駆使するハメになった。一つは手前に和室、テレビやローテーブル、クッションがあることからここがリビングだったのだろうと判断出来た。奥にはダイニングキッチンがあり、手入れのされていないフローリングはすっかりささくれている。家の中は全体的にアンモニア臭に近い嫌な臭気が薄く漂っている。そして、そのどちらの部屋にも共通点がある。
壁一杯に生き物の首が飾られているのだ。その首を貼り付けている土台は一般的な壁飾りのそれではなく、バネを外されたトラバサミだ。この家に窓がない理由はこれだ。「いっぱい殺していっぱい飾りたい、だから窓はいらない」という事なのだろう。
全てが、素人である位登が作った悪趣味極まりないハンティングトロフィーだ。本来標本が生存時に有していた外見的特徴を損なわない様注意を払って造られる筈のそれは、あまりにも無惨だった。醜悪なジョークだった。トロフィーハンティングという人間的理性をと倫理を最も欠いた者だけが好むドブ底のヘドロよりも醜悪で残虐な堕落した根絶すべき暴力的嗜好の中でも、おそらくそれは頭ひとつ抜けているだろう。
その嗜好の犠牲になっている種は鹿と猪だった。目玉部分は大きく切り取られ、油性マジックで瞳孔が描かれた傷だらけのガラスが埋め込まれている。歯は紙粘土で再現されており、分厚く長すぎる舌は新聞紙を芯材に、フェルトを巻いて喉の奥に突き刺してあった。接着が甘いのだろう、それらはいくつもポロポロと落ちていて、動物の生側を乾燥させただけのものの穴をより残酷に露出させた。毛はバサバサで、とにかく乾いて腐らなければ良いという身勝手な思想が透けて見えた。
鹿のほっそりとした美しい頬の曲線は、針金でゴツゴツと歪められている。柔らかく揺れていた猪の口角と下唇は無理に引き延ばされホチキスで止められている。そして彼らの口の中には、彼ら自身のものだろう頭蓋骨が拗じ込まれている。
「こうする」のが好きだったのだろう。
肉を断ち骨を砕き罠に掛かった動物に長時間の苦痛を与える為とうの昔に全面禁止された罠を、しかもより強く脚に食い込んで脱出を許さない鋸歯状のものを、わざわざ選んで磨いてきたのだろう。この場に脚の剥製は一つも無いが、いずれも凄惨な状態だったことには間違いない。
現在剥製もどきに匂いはない。経年劣化によって匂いの素になる物質が揮発した為だろう、探索する妨げにならなかったのがありがたかった。
「素人がやってるハンドメイドの通販サイトみたいだな」
「鉄寺ってもしかしてめっちゃ口悪い?刺されるよそんな事言うと」
「喜世世の方が刺されそうだろう。逆に刺された事ないのか?」
「元カノとなら二勝一敗ってとこだな」
「刺されてるし刺してるじゃねぇか……。二手に別れよう、どっち調べたい?」
「鉄寺くん選んでいいよ」
「じゃあ俺はキッチン、和室お願いします」
はっきり言って、喜世世は悪趣味で底意地の悪い享楽主義者だ。人間の精神的未熟さやそれによる破滅、堕落を見ることがことのほか大好きな男だ。ただ、それだけだ。地道な聴き取りや調べ物や薄暗い家で何かヒントを見つけるだなんて行為は苦手だった。横でおしゃべりしてくれる人間がいなければ、集中力自体が五分と持たずに途切れてしまう。
本日も例外ではなく、そこらへんの棚をひっくり返しては「ゴミ、ゴミ、ゴミ、ちょっと綺麗なゴミ」程度の情報しか拾えなかった。座布団を蹴り飛ばし、テレビを倒し、畳の上に敷かれているゴザをひっぺがして店側に投げ捨てる。そんな粗雑な、ものを移動させるだけの行為しかできなかった。自分は情報収集において大して役に立たないだろう、あとで合流してくる鉄寺に全部任せてしまおう。そんなことを考え、何かを探すポーズだけしておく。
そんなつもりだったのだ。剥がしたゴザの下にある、部屋の隅の一枚の畳が弛んでいることに気づくまでは。
そこは床下収納だった。手入れが悪いのか業者に粗末なベニヤをつかまされたのか、シロアリが湧いた蓋部分は腐っていた。その中にはみっしりと、命の尊厳を辱めた結果が入っている。切り取りに失敗した皮、乾燥させ過ぎて変に皺が入った皮、角が折れた鹿の頭蓋骨、掃除がうまくいかなくて目立つ場所にヒビが入ってしまった骨、折れた脚の骨、滲む水分や膿や血で滲んだ、大量の安っぽいノート。適当にノートのうち一冊を手に取ってみれば、それは動物の殺害現場を生々しく記録した、写真付きの犯罪記録だった。写されている風景から読み取るに、猟銃の免許は取っていても狩猟期間は一切守っていないらしい。
それは有名セレブ御用達の特大SNSサービスでこぞって倫理の欠落した人間たちが己の悪行の大きさを自慢している自己顕示欲漬けの投稿に酷似していた。醜悪極まりない精神のグロテスクさの根っこの部分は、セレブも庶民も同レベルらしい。たまに「今日は新しいタバコを試した。うまかった、メンソールも悪くない」「最近胃もたれがひどい」と、その時思った事が走り書きしてある。失踪直前のものはないだろうかと、損傷が殆どない綺麗なものを手に取る。大当たりだった。最後のページに、鮮烈に赤いインクでこう残してある。
「なぜみんな、一度殺すと死んでしまうのだろう もう一回殺したい 何度も殺したい 普通の剥製をつくるのはもう飽きた 剥製なんて普通の領域を出ていない、一般的な趣味だ もっとすごいことがしたい すごいことができる人間になりたい
甦りの儀式を知った あかゆび様 あかいゆびを持つ特別な手長と脚長の一つになったもの複数の魂をくっつけられる神様 俺ももっとくっつけたい くっつけたい 俺もあかゆび様の力を授かりたい あかゆび様の手先になりたい そうしたら もっと 殺せる
髪を捧げ 生贄に動物の血を踏ませ そいつを殺して 俺とあかゆび様が入れ替わる あたまが寒いが仕方がない 俺は死ぬが、あかゆび様の一部が、あかゆび様の手下になった俺が入れ替わる 記憶は受け継がれる 死はステップだ 生贄は手間賃だ 新しい運命への乗車賃だ 乗車賃なら踏切だ あかゆび様は生贄を気に入ったら首の下の肉をすっかり持っていって、頭だけ残していかれる それが合図だ、力を授けた合図だ 血だ!血の池を 腕を切って 赤い水溜りを作って踏ませるんだ!
俺たちはそうして入れ替わって 殺し回っている」
喜世世は嬉しかった。大きな手掛かりを見つけた。鉄寺に自慢してやろうと思った。
鉄寺の悲鳴を聞くまでは。
閉じられた扉の向こうでドダンバタンと争い合う音、ぎゃあ!と言う凄まじい断末魔、その後に一際大きくゴドン!と人間が床に倒れる音がした。急いでキッチンに向かえば、床は血でびっしゃり濡れていた。あまりにも流された血が多いので、それは畳の上にどんどん染み出してくる。
喜世世はスマートフォンを構えたままキッチンに乗り込んだ。床には、腰の骨を折られ頭を潰された鉄寺が倒れている。彼のスマートフォンは叩き割られていた。おそらく最初の一撃で明かりを叩き落とされ、次に腰を、最後に頭を凄まじい力で潰された。過労の色を滲ませていた彼が十分に抵抗できたとは思えない。
ライトが消える。充電切れだ。バッテリーの消費が激しくなってしまっていたことを放置したツケが今回ってきた。暗闇の中、喜世世の荒い呼吸音が聞こえる。真っ暗な空間が震えるほど苦手だったこともあるが、呼吸が荒くなる理由はもう一つある。
多くの人間が肝試しでこの廃墟に来ている。なのに何故、異常者の残した剥製や残酷で奇妙な音葉が描かれたノートが、承認欲求が病的に高まったこの社会で衆目に晒されず綺麗に残されている?答えはすぐに推測できた。
これは罠だ。あれらは餌だ。獲物は、自分だ。
背後から背骨を蹴り飛ばされ、激しく床に叩きつけられる。腹を強く打ってしまい、骨が折れた。苦しみの為持ち上げた首には、骨が軋むほど熱く激しく鋭い痛みが走った。縄だ。首を絞められている。人を殺す事に異様に手慣れた相手だと思う隙もなかった。
足で背を踏み、縄を噛み締め引っ張って首をギリギリ締め上げる中肉中背・禿頭の男の真っ黒な影と白い歯。後ろ手のまま反射的に男の右腿へ深く突き刺した、最後の抵抗のバタフライナイフ。喜世世の落ちる意識は、紫煙の様に埃が舞う暗闇の中で蠢くそのすべての情報を取りこぼした。
「本日午後九時、蘇粉駅・獅子萩駅間の踏切で、背中を刃物のようなもので複数回刺された重症の男性が発見されました。第一発見者の藍和 莉華さんが踏切の緊急停止ボタンを押した為大事故には至りませんでしたが、被害者の輪蛇 喜世世さんは大量失血の他頸椎・脊椎・肋骨を骨折しており現在意識不明の重体です。
現場に駆けつけた警察官が確認したところ、輪蛇さんと藍和さんは知人である事が判明し、もう一人の知人・吉村鉄寺さんと共に元位登商店へ訪問していたとのことでした。元位登商店には吉村鉄寺さんのものと見られる大量の血痕が付いた衣服・携帯電話・身分証明証が残されており、現在警察は殺人未遂…………」
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