第5話 穢れた男
「私のお祖父さんが子供の時くらい昔はね、ここらでも手長足長とか見上げ入道とかが見つかったって話があるんだよ。あとはこっくりさんとかエンジェル様とかの呪いも流行ったなぁ。ここらではあかゆびさまとかって言うんだよ」
丸顔といえば聞こえはいいが、揚げるのに失敗したドーナツのような肌の老人だ。でっぷりと肥えた腹と腿を服に押し込んで、山の様に積まれた古書の奥で遠回りな話を延々と続けている。線路の上で泣いていた女児は
「だからかりんのランドセルに書かれた生贄の文字も、そういったオカルトの類の遊び……なんでしょうな。書いた子にとっては」
水性ペンで書かれたその文字は今祖父の手によってほとんど拭われていたが、完全に消えることは無さそうだ。かりんは店の奥で売り物の本を読んでいる。時々客が何かを聞き、答えている様な会話が僅かに聞こえる。店番の様な事も日常的に行なっているらしい。
結局あの後は「君が黙っていたままじゃ自分もどうしていいかわからなくて困ってしまう。送ってあげるから、お家を教えて欲しい」とかりんを説き伏せ、なんとか送り届けたのだった。かりんは道中様々な話を鉄寺にした。大半は大好きな「おじいちゃん、お店の常連さん、おともだち、お星様になった猫のぱぴちゃん」等の話で大した情報でもなかったので聞き流したが、唯一興味を惹かれたのは「クラスのみんなが猫が亡くなった日からかりんをいじめと称される集団暴行の標的にし始めた」ことだ。
正直言って、かりんは「良い子」に分類されるだろう。見目もそこそこ良ければ性格も育ちも良い衛生的な出立ちで、いじめられる要因として想像できるのは嫉妬位なものだろう。が、猫が死んだことをクラスの皆が知った翌日から遊びの中で明らかに自分だけが不平等な目に遭ったり給食の量を明らかに少なくされたり仲の良かった友人達から無視される様になったり……と言う。原因は嫉妬では無さそうだ。かりん自身も何故自分がおともだちから嫌われてしまったのか見当がつかないらしい。 現在その猫の亡骸は焚かれて骨になり、遺影の隣で小さな骨壷に納められているらしい。鉄寺が大して自分の話に関心を示さないことに気がつくと、かりんはごめんなさいと言って以降家に着くまでじっと黙り、到着した途端に祖父の腹に飛び込んで強く抱きついた。
妻を失ってピリピリしている自分のことをわかってくれたのだろう、相手の気持ちを測れるいい子だと思った。そうして学校に行ったはずの孫が帰ってきたことに驚いた祖父が鉄寺と会い、事情を説明し、現在に至ると言う訳だ。
祖父にあたるこの男、
文蔵はいじめの件がなくとも引っ越す予定があったと言う。元々体調の都合で長年続けた古本屋を畳み、別の都市でマンション経営をして暮らす予定だったそうだ。かりんは友人達と離れる事に難色を示していたが、この様な状態になってしまってからは早く引っ越したいとこぼしていたそうだ。
「赤い水溜りにまつわる民話や噂をご存知ではありませんか?」
昔話に詳しいのなら、古本屋の店主なら、何か判るかもしれないと藁にも縋る思いだった。鉄寺の絞り出す様な必死で切実な低い声に対し、文蔵は至極軽い調子で答える。
「ああ、赤痢由来のものなら知っているかな。明治以降にね、一九二〇年頃にね、やっぱりここらでも大変に酷くあったんだよ」
この日本という国を流行病が幾度となく襲ったことは周知の事実だ。天然痘、コレラ、麻疹、その中の一つが経口感染する急性腸炎・赤痢である。明治以降、一八九〇年代に一度、一九二〇〜一九六〇年代まで二度流行した。名前の由来である血混じりの下痢は、赤痢菌が大腸に侵入し細胞を壊死・脱落させることで発生する。それが赤い水溜りとして後世に継がれる話になる程身近なものであったと想像すると、鉄寺の肌が粟立った。
「ここらじゃ赤痢は「お辞儀様の御使に選ばれた証」だと言われていたんだ。死神みたいなもんだね、ほら、下痢が止まらないもんだから厠やたらいに跨って、だんだん体力が持たなくなって、ぐったり前のめりになるもんだからお辞儀するみたいに見えるのさ。そんでそのまま死んじまうもんだから、お迎えが来た、ってね……。今はもう誰も住んでいないけど、犬外山に住んでた人たちなんかもうひどくって。貧しくってねぇ、体も弱い人が多くって。脚気も治せないくらい苦しい時代だってのに、お辞儀様除けのお札なんてそれはもう飛ぶ様に売れたらしいよ。お辞儀様から自分達を守る為に犬を外に出せ、身代わりに犬を外で飼え、ってね、だから「犬外山」って名前がついたのさ。元々はもっと違う名前の山だったらしいけど。お札が確かここに……」
いわゆる疫病除けの絵札だと文蔵は言う。疱瘡絵や麻疹絵の様な、現代で言う芸術的・歴史的資料だ。お辞儀様周辺のものものは地方で細分化したごく小さな民話であるから、あまり注目されることはなかったそうだ。
文蔵がガサガサと引っ張り出してきた透明なファイルに収められた絵札は、成る程興味関心を惹かない稚拙さである。鶏の頭の、痩せて真っ黒な人間の体にボロボロの蓑をまとった貧乏神の様な死神・お辞儀様が、口から凄まじい息を吐く僧侶に吹き飛ばされている。狼の吐息に吹き飛ばされる豚小屋の様な滑稽さに、思わず冷ややかな笑いが漏れる。この絵札を玄関に貼り、ふうふうと息を吹いて悪い気を体内に取り入れない様にすると良いという民間信仰があったそうだ。
「人が何かを恐れ、信仰するのはそこに実害があるから。当時の科学や医学で解き明かしきれないものが妖怪・怪談・民話として伝播し、時に都合のいいお話を作りながら、私たちのご先祖様はそうやって危険を回避してきた。信仰を知ることは歴史を紐解くことだよ。
しかしまたどうしてこんなマイナーな民話を?オカルトライターさんなのかい?」
一通り話した文蔵はきょとんとしている。聞かれるのは嬉しいが、目的はなんだろうという純粋な興味らしい。まあある程度なら話しても構わないか、と、鉄寺は喜世世から貰い受けたデータを文蔵に見せようとスマートフォンの画像フォルダを開いた。
「写真が趣味なんですけど、撮ってたら妙なものが写りまして。それで興味が出て調べているんです」
「拝見いたします。……?ええと、すみませんが、一体どこが妙なのでしょう?」
「ほらここで……え?」
鉄寺は自分の目を疑った。ないのだ。赤い水溜りが。
自分は確かにこれを手掛かりに追いかけてきた。踏切の妙な写真を見つける事になったきっかけはこれだ。何度確認しても踏切の写真はあれど赤い水溜りは写っていない。そこにあったはずの男達の顔も一緒に消えている。
「いや、嘘じゃ……!嘘なんかじゃ……!」
鉄寺は慌てた。整えられた前髪をぐしゃりと握りつぶして、目を見開く。そこには何もない。怪異は記録の中から自分を小馬鹿にして去っていってしまったのだろうか、尻尾を巻いて笑って逃げてしまったのだろうか。耐え難い焦りと屈辱が、鉄寺の眉間に深い皺を刻ませた。消えた分、それを取り返す以上の、何か手掛かりを掴まなくては。鉄寺の心の中はそんな焦燥感でいっぱいになった。
「文蔵さん、他の資料を拝見しても構いませんか?この年代の、お辞儀様周辺の、赤い水溜りに関わる資料などはありませんか」
勢いに気圧されながらも、文蔵は構わないよ、見ていきなさいと許可をくれた。商品を買いに来た客ではないが、何か事情があるのだろうと言葉にせずとも意思を汲んでくれた様だ。民俗学や民話、画集や当時のスクラップブックなどが纏められた棚を案内してもらう。上からざっと背表紙のタイトルを眺め、風土病やこの街の歴史、民話らしいものを手当たり次第に開いて情報を漁っていく。
ふ、と、手が止まった。棚の近くには大きなダンボールがあり、中には様々な書籍が何十冊か纏めて入れられている藤の蔓で編まれた籠がピッタリと収まっていた。
「骨董店をやってるお客さんがいてね、いくつか見繕って欲しいとお願いされてたんだ。その籠いいよねぇ、お客さんの私物なんだって」とのことらしい。鉄寺の様子を見ていた文蔵は棚の書籍なら別に買わなくとも気が済むまで見て良いと再度念を押し、店の奥にあるレジ裏の椅子に腰掛けて事務仕事を始めた。
籠の中には、明治時代のサーカス、一八二〇年代イギリスの市民を描き続けた画家の作品集、足の裏のみを撮り続けた写真家のスキャンダルを纏めた低俗な雑誌、至道市市民の書いた詩や戦争の記録、至道市で行われていた林業の歴史、隠し金山の噂がまとめられた怪しいオカルト誌、海外姉妹都市の情報がふんだんに載った旅行雑誌、……どんな基準で選出されたのか謎だった。しかしその中・一番上に置いてある一冊の表紙に心を惹かれる題がつけられていた。
「
紙製のファイルにはそんな手書きのタイトルが。手に取ってみれば中身は古い和綴の、手書きの昔話だった。文字は読みづらいが絵が付いているのでざっと内容をさらうことが出来た。パラパラとめくれば「強欲な商人に殺され食べられた鶴が祟りを引き起こした。沼が鶴の祟りで赤くなった。神社を建てて鎮めた」という内容だ。赤い水溜りに関係がありそうだ、と、鉄寺はこの本がどうしても、それこそ喉から手が出る程欲しくなった。
奥からかりんの「おじいちゃん、つるちゃん帰るって」という明るい声が聞こえる。どうやら客が帰るらしい。鉄寺はハッとして、籠の中からその本を抜き取った。
「もし、」
咎められる様な声をかけられた。
「その本、ご入用ですか?」
それは嫌にトゲトゲとした雰囲気の男だった。
書籍の壁から、鉄寺と同世代ほどの男がぬっと現れる。つるちゃん、と呼ばれたのはこの人物だろう。赤い拡張ピアスに白い羽織、細いチェーンの金色のロケットペンダント、よれた白いワイシャツ、ゆるい白のズボン、黒のスニーカー。肌は男のくせに嫌にツヤがよく、ニキビの跡や剃刀負けの荒れた部分が全くない。眠たげな目は横にヒョロリと長く、鼻は図々しい程しっかりとして、口はガマガエルの様に大きく薄くへの字に曲がっている。眉と睫毛が殆どないのにその上両腕がバッサリと欠けていて、それらのかけたものが男の不気味な雰囲気に拍車をかけていた。眉間に薄く寄せられた皺の線が、静かに苛立たしげで不快だ。鉄寺はこの男を一目見ただけで嫌いになった。触れたくなかった、こちらが穢れるようで。男がこちらに声をかける時に開いた、つやつやと湿る唇の内側の赤さも気色が悪かった。
「あんたがまだこの本を買ってないなら俺だって買う権利はあるはずだ。店にあるってことはそういう事だろ。譲ってくれ、俺のパートナーのために必要なんだ」
こちらの理由は大して伝わらなくてもいいと思った。ただ、商品として大量に・それもジャンルを問わない様な買いつけに来た男より、自分の方がこの本を必要としていると感じていた。男にこの気持ちを理解して欲しい、男がこの本を自分の為に諦めてくれたらいいと思った。譲らないのなら男に金を握らせても良いと思ったが、男の対応は想像の外側からのものだった。
鼻で笑う、片目だけを細める。それは侮蔑の表情に感じられた。ゆらりとした不安定な足取りで、男は鉄寺の側による。毛虫がこちらに歩いてきた様な生理的な嫌悪感を覚え、鳥肌が立つ。
「あの女のひと、もうあんたのじゃあないよ」
耳元でそう囁かれる。男の方を振り返ればそいつは鉄寺を蔑み、うっすら笑っていた。
「諦めな」
しろい刃物の様に艶やかな歯の上を、薄い嫌味な唇が短く滑る。ポカンとしたが、「あの女のひと」というそれが自分の愛する妻を指す言葉であり、それには今自分が調べているすべては無駄だという蔑みの色が滲んでいると思った。
「あんた……!一体、俺の……!」
鉄寺は男に詰め寄ろうと、右足を一歩大きく踏み出した。ギャウン!と、足元で犬が悲鳴をあげた。どうやら男にぴったり寄り添っていた犬の足を踏み抜いた様だ。首輪もリードもない真っ白な大型犬は恨めしそうに鉄寺を見詰めた後、男の膝を舐めらながらぴいぴいと鼻を鳴らして痛みを訴えている。男は「酷いことされたね」と、鉄寺を遠回しに責めた。
文蔵がその声を聞きつけて慌てて駆け寄ってくる。
「珍しい!シロが吠えるだなんて。あんた尻尾でもふんだかい?謝まっときな」
「いや、ここの店は犬入っていいんですか、マナー違反じゃないんですか」
「いやぁダメだけど、シロは特別なんだよ。つるちゃんは腕がないからね、シロに籠を持ってもらうんだ。ほら、うちの店畳むからさ、配送のバイトさんにも早めに辞めてもらったんだ。つるちゃんにも電話で注文してもらったはいいけど、僕は膝が悪いから配送はできないって断ろうとしたら「自分の脚が必要なら行っても良い」って言うんでね、シロと一緒に何度か来てもらってるんだよ。お互い了承の上なんだ」
鉄寺は口ごもった。男は特に弁明も非難もしなかったが、ただ冷ややかな目で鉄寺を見ていた。その視線に心の内側を見透かされている様で気味が悪く、目線を合わせたり話したりはこの先一秒たりともしたくなかった。なのでこの場で最も主導権のあるだろう文蔵に直接交渉する事にした。
「文蔵さん、この本ください」
「え?それは……」
「俺は構いませんよ、差額分は後日口座に振り込んでいただけたらいいので……。それではさようなら」
案外あっさりと、男は鉄寺にそう言い残して籠を咥えた犬を連れ、店から去っていった。鉄寺は男が見ていた奥の棚も気になった。不気味な男が見ていた棚だ、何か不気味なものがあるかもしれないと思いついただけだった。齧り付く様に本棚を漁れば、叫びたくなる程嬉しい成果があった。まさか本当に妙な表紙の本があるとは、と、自分の運の良さにニヤリとした。「生贄と儀式、蘇る魂」、赤い革張りの表紙は妙に湿っている気がした。
レジに持ち込むと文蔵はこんな本あったかな?と首を傾げたが、本についているバーコードを確認し、忘れただけかなとぶつぶつ言って会計を進めた。一万千五百二十円だったその本を渡す時、彼は少し声を低くして鉄寺に忠告する。
「オカルトに触れるものとして助言があるよ。ライン引きを誤らないことだ。危ないものものに、どん!と背中を刺されても、僕は助けられないよ」
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