第2話   妻の指を覚えているの

「……現在警察は殺人事件として捜索を急ぎ、事件の原因を詳しく調べています。次のニュースです。ジビエ料理専門店の新メニュー……」









 吉村よしむら鉄寺てつじは一日中つけていたテレビの電源を漸く切った。




 女の生首と、首から下のほぼ全身の骨が路地裏に捨てられていた。そんなニュースが全国を駆け巡り、見知らぬ都合のいいことだけを喋る醜悪な人間達にベタベタ手垢をつけて捏ねくり回され大衆の娯楽として消費されている。



 すっかり暗くなってしまった部屋の唯一の光源を失えば、カーテンを閉め切った部屋にはベッタリと重たい夜が断りも無くやってきた。そのまま何も映さなくなった暗くなった画面をじっと見ていれば、暗がりに慣れた目が、そこに反射する自分の絶望し切った表情を読み取った。濁った目をした酷い顔だった。涙の筋は拭われもせずに自分の頬に染み付いている。テレビ台に置かれた写真立てに映っている満面の笑みの自分と彼女の写真が、ひどく虚しく惨めに思えた。壁に飾った彼女と自分の思い出の数々が、今ではもうただのインクと紙を薄く合わせただけのものにしか思えない。



 それもそうだろう、自分は愛する妻を失ったのだ、薔薇色の人生は幕を閉じて暗黒の孤独な日々が戻ってくるのだ。鉄寺は立ち上がり、カレンダーをゴミ箱に捨てた。明日、久しぶりに彼女と逢う予定を入れていた。鉄寺はそれだけを楽しみに、愛しい妻の住む家から遠く離れて長期間の出稼ぎに出ていた。自分達が誰からも認められる正式な夫婦になる為には大金が必要だと鉄寺は自分に言い聞かせ、断腸の思いで彼女から離れたのだった。自分達の間に事実として愛があっても、世間がそれを認めないことが憎かった。



 片付けられるはずだったトランクが訃報を受けた時のまま半端に開いて放置され、一週間分のワイシャツや疲労に汚れくたびれた下着や手袋が溢れるままにされている。



 控えめに笑った時の目尻の皺、何度も自分の唇をなぞったあの美しい白魚の様な指。それがなくなってしまった。貯めに貯めた有給を全て消化するには十分すぎる理由だった。無断欠勤を叱りつけようとしてか、何度も電話を寄越していた上司も事情を聞けば「最近眠れていないみたいだったし、十分に休んできなさい」と快く送り出してくれた。元々過労気味だった鉄寺を流石に心配してか、ネチネチと嫌味な口調のはずの上司はその側面を出すことはなかった。







 全国チェーンのオオハネカフェ蘇粉そこ駅前店の名物は、水出しコーヒーである。鉄寺は注文した氷抜きのそれをじっと見つめた。正しくは、目の前の厳つい男の存在感に耐えられず自分の視線を逸らした。男はフレンチトーストに夏蜜柑のパフェ、ディナー限定のハンバーグナポリタンを一口ずつ食べ、山盛りのホイップクリームをトッピングしたアイスココアで時々それらを流し込んでいる。


「くたばった彼女とはどういったご関係で?」

「パートナーです」

「おやまぁ!はっは!」


 それじゃあそんな死にそうな顔で発見現場を彷徨いていてもご納得だよ、と、顔は良いが性根が悪い男は鉄寺をジロリと値踏みする様に見て笑い飛ばした。男の名は輪蛇わだ喜世世きよせという。センターパートマッシュの派手な金髪に丸サングラス、幾つも開けられたピアス、派手な柄シャツ、ギラギラ光るロングネイル、革のパンツ、極め付けには肌をほとんど埋め尽くす刺青達。グレーのスーツに清潔感のあるオールバックの七三分け、黒縁メガネと言う生真面目な風体の鉄寺とは真逆の出立であった。



 喜世世は花奈の変死体が見つかった現場を冷やかしに来た野次馬だ。鉄寺が来た時には既に彼と警察は揉み合い寸前になっていた。どうやら写真をバシャバシャ撮りまくって鑑識の仕事を妨害したらしい。ベテラン風の女性鑑識に怒鳴られながらスマートフォンを操作して写真を消していた様だが、彼はずっとヘラヘラ笑みを浮かべていた。面食らってその場に硬直していた鉄寺は「貴方も野次馬ですか⁉︎ほら帰って帰って!」と鑑識に一喝され、あれよあれよと言う間に彼と共に追い返されてしまった。路地裏が埃っぽかったせいで暫く止まらなくなったくしゃみと喉の痛みが、二人の蛮行を尚責め立てる様だった。


 そして今に至る。現場から追い出され、不安げな、しかし何か思い詰めた表情を浮かべる鉄寺を見て「あんたも事件に興味があるんだろ?奢るからちょっと話そうよ。スーツなんて暑いだろ、涼しいとこ行こうぜ」と喜世世が喫茶店に半ば強引に誘ったのだった。



「自分の疲労は妻との結婚式の資金を稼ぐ為の度重なる出張によるものです。ご心配なく」

「データなんてすぐに移せちゃうのにね、目の前のことしか考えてない人って本当に扱い易くて良いよ」



 喜世世は鉄寺から投げられた冷たいトーンの言葉と乱雑で強欲な食事風景に対する不快そうな視線の一切無視しながら、くるくるとナポリタンを大きく巻き取って口に放り込み、スマートフォンをわざとらしく左右に揺らした。渋い顔をする鉄寺にほら、と得意げに画面を見せる。それはビニールシートの目隠しの向こう側の写真だった。



 死体のあった場所にはチョークが引かれており、頭部、首から下の骨の形に状況が保存されている。鉄寺の胸に広がったのは、花奈の最期の形が自分の知らない場所に遺されていた事への怒りだった。彼女に最後まで添うのは自分だと信じて疑わなかった今までの美しく明るい日々がガラガラと音を立てて壊れて、二度と戻らないと確信した。



「妙だと思わない?現場に血痕がないんだ!ハハッ!別の場所で殺されて、わざわざ骨を抜かれて、ここに置いてかれたんだ、かわいそうに!犯人は相当……おっとごめんよ!自分で気付きたかったかな?」



 異常な事件の発生に舞い上がっている喜世世はプククと笑いながら「はいどうぞ」と、スマートフォンを机の上に滑らせ、鉄寺の手元にそれをまかせた。鉄寺はそれをひったくる様に急いで鷲掴み、目を皿にして隅々まで見た。確かに妙なことに、血痕がない。冷たいコンクリート、彼女の生首は、骨は、荷物は、全て警察が押収したのだろう。



「前日、彼女は飼い猫の捜索ポスターを配りに猫カフェとか行きつけの喫茶店とかに行っていたんです。ほら、「つぼママ@ねこ展図録販売中」ってアカウント知りませんか?学生の頃から保護猫活動されてる方で結構バズってるんですけど、今一番熱心に面倒見てた子猫がいなくなったんです。それで彼女すごく落ち込んでて、ずっと一生懸命探してて、つまり午後六時までは確実に生存していて、その後、その……連絡がつかなくなって……、今朝、あんな状態で見つかって……!あんなに美しい人がどうして……!




 ……あの、人間の首から下をすっかり骨にするのって、どれだけ時間が掛かるんですかね」



 それはほんの小さな違和感で、しかし一度気が付けば頭の中に細くみっしりと違和感の根を張る。鉄寺の涙腺が熱を帯びた涙を生産するのを止め、頭に登りきった血が全身に帰って行く。



 大粒の涙と共に激情を溢す鉄寺をニヤニヤ笑ってみていた喜世世だが、最後の言葉を聞いて口角を下げた。残酷に殺された妻にそれを失って取り乱す夫、それを外野から見下すゲスな喜びに胸を支配されていたが、なるほど冷静になれば妙だ。



「生首の切り口の部分もそうだけど、血が僅かにも残されていないのは確かに不自然すぎるな。首から下は血抜きどころか肉はすっかり取られていて……肉が残っているならそれに沿って報道されるはず、バラバラ殺人とか……。それでいて、骨がすっかり残っているのなら乱暴に薬品で溶かしたとは思えない。


 まあ土に埋めて腐らせて骨を取り出すのはどう考えても無理だから、茹で……いや、いや……。どう考えても発見まで間に合わないな。午後六時までは連絡取れたんだろ?長くて八時間程、それで大人一人殺して丁寧に肉を外して殺害現場から路地裏まで骨の形をキープしたまま移動する……。計画的だとしても現実的じゃない」


「それにニュースでは生首を切り取った凶器がなんなのか報道しなかった。言えなかったんだ、犯人は未知のものなんだ。まともな捜査じゃ犯人……いや、何が彼女を殺したのか判る訳がない。このままじゃ、彼女の魂が浮かばれません」




 スマートフォンのカメラのレンズが切り取った路地裏の端を拡大して見ると、別の通路に通じる角になにかがある。そこで見付けたのは、赤い水溜まりだった。その隅には被害者である花奈の鼻っ柱から上部分が映っている。恐怖に歪んだ目が自分を求めている。赤い水溜りの中で魂だけになっても、夫である自分の助けを待っている。鉄寺はそんな風に思えてならなかった。画像データに残ったそれをトントンと指先で叩いて喜世世に示す。自分が現場を覗いた時、周りをざっと見たがそんなものはなかった筈だ、しかしこうして記録に残っている。そんな得体の知れない気味悪さが、幽霊という存在の可能性が喜世世の背骨を舐め、額に冷や汗を滲ませた。




「アンタ、オカルトとか信じる口?」

「僕が信じるのは僕の妻だけです。それ以外のことなんて、信憑性があるかどうかなんて、真実か嘘かなんて、全部どうでもいい。僕が愛しているのは彼女だけだから」


 冷やかしを無視してコーヒーを一気に飲む。決意の籠った目に涙はなかった。


「赤い水溜まりを追いかけましょう、きっとこれが手掛かりだ」

「おもしろそ〜」


 男達は同時に席を立つ。愛と好奇心による歪な共同戦線が張られた瞬間だった。

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