よるとくる
billy
第1話 墨を齧る猫
「赤い水溜まりを見付けたらお知らせください
×××-×××-×××」
迷子になった飼い猫の捜索チラシを、行きつけの喫茶店に持ち込んだ時の事。ここには近所のイベントを知らせるポスターや、店主の好きなインディーズバンドのライブを知らせるDMを貼る掲示板があり、時折こうして迷い猫や犬のチラシも持ち込まれるのだった。まさか自分が持ち込む側になるとは、
痩せた小さな猫でも開けられる硬さの窓の鍵、壊れ掛かった網戸、そんな安アパートを選んだ自分、望む生活に追いつかない給与……今更手元に残った事実を憎んでも仕方がない。家に帰ったところで待っているのは暖かく跳ね回る愛猫ではなく、愛猫の思い出が詰まっただけの冷たくて大きな玩具達だ。花奈は出来ることをするしかないのだと自分に言い聞かせ、涙を拭って近所を訪ねて回って、許可を貰えれば捜索ポスターを貼っていた。
そんな折に見つけた言葉だった。少し気味が悪い。
A4のコピー用紙の左上にたったの一行の言葉と電話番号が放り込んであるだけの、余白が多すぎる張り紙。これはなんだろうと掲示板の前で戸惑っていると、喫茶店「星月」の店主である
「覚えがないわねぇ、誰か勝手に貼ちゃったのかしら。いやねぇ、こんな真ん中に。剥がしてくださるのならその場所に猫ちゃんのチラシ貼ってもいいわよ」
花奈は頷き、コピー用紙を剥がし、捜索ポスターを貼った。
「猫を探しています。名前 つぼづけ 黒猫 2歳 病気で痩せています 赤い首輪に銀の鈴と飼い主の電話番号が書かれた白いプレートが着いています 見付けた方はご連絡ください。謝礼を差し上げます ×××-×××-×××」
捜索ポスターには猫だの魚だのの形をした、中綿を入れ替えるタイプの触り心地の良い布製のおもちゃに囲まれた黒猫が大きく写されていた。カラスに襲われそうになっている所から助けて丸二年、注いだ分の愛情以上の喪失感と焦燥感が胸の内側をガリガリ引っ掻いた。
「猫ちゃん見つかると良いわね」と言いながら深月は花奈にサンドイッチを渡した。パセリとレモンを混ぜたマヨネーズで和えた茹で海老と卵フィリングを耳の薄い食パンで挟んだ名物で、花奈はいつもこれを注文していた。時間がある時に食べてね、と、メッセージカードが添えられている。
「深月さ〜ん、頼んだのてりたまサンドです〜!これえびたま〜!」
いつも窓際の席で打ち合わせをしている作家と編集者から、そんな声が上がった。深月は照れくさそうにくすりと笑いながら「あらあら〜!失敗しちゃったわ、サービスにするから食べちゃって〜!」と返す。次に来る時にはこの実家のような、心が癒されるやり取りを何の心配も焦りもなく眺めていたい、花奈はそう思って少し泣いた。
その後も人が集まりそうな数箇所の飲食店を周り、猫が迷い込みそうな場所を回れるだけ回り、貯金を崩して雇った便利屋の若い男性従業員二名から「捕獲機に猫は入っていなかった」との連絡を受ける。似てる子を見かけた、とか、保健所に迷い猫の保護記録があった、とか、良い知らせは一つもなかった。何一つ上手くいかない。ポニーテールに結んだ黒髪が花奈の歩調に合わせて上下に揺れる事すら煩わしかった。
ここ最近、街の裏にある山から猪が頻繁に降りて来ているのが特に気掛かりだ。気性の荒い猪達は田畑を荒らしゴミ箱を漁り、通行人の骨を折ったこともある。猟友会の会員達が「五年ほど前から生態系が崩れて来ている。成金の素人がキャンプ場として買い付けて、それっきり放置しているんだ」とニュースで語気を荒く話していた事を妙に覚えている。そんな猪に愛猫が遭遇したらと思うと、胃がキリキリと縮むのだった。
足の裏が泥濘む様に痛み、ふくらはぎが痙攣し、腿が硬く張って硬直する。夏の暑さに体の水分が汗となって逃げ出して行く。くらくら揺れる身体を叱咤して、もう少しだけ、もう少しだけと街を彷徨った。夕焼けが青黒い夜に変わり、街灯がその役割を果たす頃、花奈は自分が迷った事に気が付く。道をいく筋か間違えたらしく、シャッターの降りた商店街の様な場所にぽんと出てしまった。スマートフォンの地図アプリを開こうとしたが、探偵と頻繁に交わしていたメッセージ、SNSに何度も愛する飼い猫に関するメッセージが上がっていないか確認した事によってバッテリーが切れてしまっていた。
どうしよう、帰れない、と、不安によろめき、カバンを落としてしまう。捜索ポスターが風に乗って何枚か飛び出した。慌てて拾ったが、そのうちの一枚がシャッターの閉じ切っていない店の中の暗がりにぬるりと滑り込んでしまう。
ぱちりと音がして、電気が付けられた。シャッターの隙間に白くて大きな靴がぬうっと捩じ込まれ、そのまま押し上げられる。花奈の腰の辺りまで上げられると靴は下がり、今度は肩が捩じ込まれた。肩は弾みをつけてシャッターを押し上げるが、水切りがシャッターケースの所まで上がりきることは無かった。
「もし、」
中肉中背、スキンヘッド、肩に掛けたシミだらけの青い振袖は赤の裏地、中身に安物のワイシャツと緩いズボン。
「猫をお探しですか?」
腕のない男だった。
それはまこと奇妙な男だった。両の腕がすとんとないことを差し置いても。肌は妙に艶やかで整っており、黒子や髭のひとつもない。目は横に長く伏せがちで、鼻っ柱が太く、口は大きく唇薄く、眉と睫毛は殆どなく、産毛じみたそれらは店の中のオレンジ色の蛍光灯の光を浴びてぼんやりと光って、大きな拡張ピアスを捩じ込まれた耳朶が福耳の様だった。年若いのか中年なのか、花奈には分からなかった。
男の印象を左右したのは店の品揃えもあるだろう。骨董品を取り扱っていると言えば聞こえは良いだろうが、とどのつまりガラクタ屋だ。ファミリーレストランでもらう様なチンケな小物やシミだらけの羽織、平たく延ばされた豚の顔の皮、毛並みが艶やかな猪の剥製、片方の角が折れた鹿のハンティングトロフィー、パースの狂った人型の木彫りの像、無造作に積み上げられた手のひら程の木の器、兜虫の標本、椰子の実、女の裸が写ったトランプ……。所狭しとそんなものが店中の棚いっぱいに詰め込まれている。男は店先にどっかり腰を下ろして、迷い込んだ捜索ポスターをじい……と見ている。
切れかけてチカチカと点滅するオレンジ色の蛍光灯が照らすこの埃っぽい空間は、美しい喫茶店巡りを趣味とし清潔なクリニックで歯科衛生士として働く花奈にとっては受け入れ難く悍ましいものだった。
すみませんと小さく呟いて捜索ポスターを回収しようと屈んだ所に「昨日見かけましたよ」と続けられる。驚いて立ち上がれば、一六五センチの花奈に見下ろされる形になった男と目が合った。蛍光灯のオレンジの光と花奈の真っ黒な影が男の瞳の中で一緒くたに収まっている。
「ウチに来て棚を散々蹴散らした後、あの墨を気に入ったのか随分ガリガリと齧っていて……」
顎で差された方向には確かに古びた剥き出しの墨があった。しかし傷は付いていない様に見え、その上無造作に貼られた値札には五万円と書かれている。この尊大な男は明言こそしないが自分をカモにしようとしている、必死に猫を探す自分の疲労に漬け込んで正常な判断を下せないまま良心に訴えて異様な価格の墨を賠償と称して買わせようとしている、花奈はそう思った。書や芸術に関心の無い花奈にとって、墨は百円均一で売られている液体の物しか常識的ではなかった。帰ります、と鞄を掻き抱いて足早に店を去る。もし、と男が呼び止めるので一度だけ振り返ってやった。
「靴擦れ、そのままだと危ないですよ」
男はそう言ってぎこちなく笑った。鱗のない蛇のようなぬめりとした、嫌な顔に思え「ヒッ」と短い悲鳴が漏れた。花奈は男の生臭い様な気味の悪さに耐えられずその場から走り去った。背後からガラガラとシャッターの開く音が幾つも聞こえるが、振り返る勇気はかけらも無かった。花奈は結局男の教えた道を通る事はなく、ひたすら真っ直ぐ歩いて出会った人に道を尋ね、ようやく見知った帰路につけたのだった。
蝉が轟轟鳴いている。延々誰かを責め立てる様に。
「本日未明、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。