桜の下で、優しさを

春野 安芸

第1話


 生物には元来より"恐れ"という感情が備わっている。

 鬼胎や畏れ、憂虞など様々な言い方があるが結局のところどれも大体同じだ。

 何かに震え、不安になり、時には何も手につかなくなってしまう。


 さて、人は何故恐れ、何に恐れているのだろう。

 それは思うに"わからない"という感情が全てにあると思う。

 未来のことがわからない、未知の事象がわからない。様々なベクトルがあるが恐れは全てそれに集約されるだろう。

 例えば大昔の人は雷雨や地震を神や鬼、大蛇の怒りとして恐れられたし、大体のものが解明された現代だって俺なんか歯医者の音はどうしようもなく怖い。


 それらは全て"わからない"から。雷雨や地震も原理がわからないから自分の想像に当てはまる神という枠組みに収め恐れられたし、歯医者だってこれから自分がどうなるかわからないから未知の未来について恐れてしまう。

 なにも恐れるのが悪いことじゃない。野生動物なんかは恐れが備わっていることにより脅威から避け生き延びてきたという側面もある。



 恐れ。それは人全てに備わっている共通の概念。

 人として生きる上で切り離すことのできないそれについて、俺の田舎で象徴的なものが1つ存在していた。


 都会から遠く離れた山奥にある小さな集落。

 住民もどんどん村から出ていき村を愛する者で細々と慎ましやかな生活を続けるそんな田舎に、1つだけ特徴というものがあった。

 村の最奥に位置する小さな神社。しかし神社に不釣り合いなほど立派な桜がこの村のただ1つの自慢であった。


 神社の建物ですらゆうに超す巨大な桜。

 俺のおじいちゃんが生まれた頃よりずっと前から生きているその桜は何代にも渡ってこの村を見守ってきたという。

 今でもあの感情だけは鮮明に覚えている。その桜を初めて見た日が俺に初めての"恐怖"を自覚させられた日であったと。

 自分のお父さん、お母さんよりもはるかに背が高くそびえ立つ大きな木。荘厳という名に相応しいそれは悠々と麓にいる俺たちを包み込み飲み込まんとするほどの勢いだった。

 話によると桜を一目見た俺はその恐怖からかずっと泣き続けていたらしい。成長した今でこそその記憶は持っていないが怖かったという感情だけは心の内に抱えている。

 お父さんとお母さんは敬って然るべき、神様の住まう木だと言っていた。しかし言っている意味がよくわからず俺は敬う心なんて何一つ持てなかった。しかしどうにも気になって毎日その桜の木を家から見ることが日課になっていた。



 しかし恐れというものはいずれ慣れに変わりゆく。

 変化がないものはいつしか未知が既知に変わり当たり前にも変わっていくのだ。

 大きな桜もちょっとした目印程度になってしまった小学3年終わりの春。小学校も半分が終わり後半戦に差し掛かろうかと言う頃に、桜に変化が訪れた。


 それは普段俺たちが遊び場にしている桜の麓である境内。

 鬼ごっこしたりかくれんぼしたり、缶けりしたりして毎日を過ごしている日々のことだった。

 春休みに突入し今日も今日とて学校の友達たちとなにかして遊ぼうと境内に一番乗りした時、何年も見慣れた景色に唯一見慣れない不可思議なものが存在した。


 それは桜の木の根本。

 危険だからとしめ縄で区切られた空間の内側に一人の女の子がポツンと木に寄りかかりながらお手玉をしていたのだ。

 大きく咲き誇る桜の木。春ということもあってヒラヒラと舞い落ちる花びらにそっくりな髪の色を持つ同年代の女の子。

 柔和な微笑みのままお手玉をして遊ぶその姿に、その不可思議さに俺はジッと見つめたまま立ち尽くしていた。しかしあちらも俺の存在に気がついたのだろう。いつしか投げていたお手玉は投げられること無くその手に収まりこちらをジッと見つめたと思いきや楽しそうに笑って小さく手を振ってくる。


「こんにちは」

「こ……こんにちは」


 それはなんてことのない挨拶だった。

 世界共通言葉の違いはあれど当たり前に行われている挨拶。静かな空間ほどよく通る。木々のざわめき以外何の音のない世界に1つの透き通るような綺麗な声に思わず言葉が詰まってしまう。


 しかしそれだけだった。

 女の子は挨拶だけをして再びお手玉へと目を向けてしまう。1つ、2つ、3つ。慣れているのかヒョイヒョイと自分の手足のように操るそれを見て思わず目を奪われてしまったが、ハッと目が覚めた俺は意を決してその子に呼びかける。


「あ、あの……!」

「……なぁに?」


 お手玉をしていた手を止め再びこちらを見つめてくる女の子。整った顔と綺麗な瞳。まるで同じ人かと思えないくらい目を惹く彼女に言葉を詰まらせてしまったが今度こそ言いたいことを言うためしめ縄の近くまで近づいていく。


「その、ここより向こうに入っちゃ怒られるんだよ」

「うん、知ってるよ」

「じゃあどうして……」

「私は入ってもいいからだよ」


 入っちゃダメなのに入っていい?不可思議な事を言うその子に疑問符が浮かぶ。


「でも、ここから内側はしんせいな場所だからって……!」

「そうだね。でも見てご覧。桜はこんなに綺麗に咲いているんだから、ちょっとくらい大丈夫だよ」


 そう言って見上げると俺たちの遥か高くの頭上にまで届く桜が目に入る。

 まるでこちらに倒れ込んできそうなほど大きな桜。その圧巻さに慣れた今でも少しだけ恐れを感じる。


「でも………」

「ほら、今も風に揺れてこの木も喋ってる。もう一度見上げてみて。この桜も良いって言ってるよ」

「そんな、桜が喋るなんて…………わぁっ!?」


 何をするかとその子は立ち上がり、スッと頭上に手を掲げた姿を見て俺ももう一度見上げたその時だった。

 木は喋る訳がない。それは当たり前のこと。しかしその子に示されて見上げた途端、ビュウッ!と一陣の風が俺たちの間を通り抜け舞い上がる。

 枝が大きく揺れ動き花びらが一気に舞い踊る。まるでその子を包み込むように。

 それはまさしく彼女が桜の精であることを表す一瞬だった。風も落ち着きまた静かな境内へと戻った空間でその子は再び根本へと腰を下ろす。


「ね、大丈夫でしょ?」

「………うん」


 自信満々なその子の行動は俺も信じざるをえないものだった。

 再びお手玉へ戻った彼女。しかし俺が動かずじっと見ているのを再び感じ取ったのか、今度は根本の隣の空いたスペースをポンポンと叩いてこちらに笑いかける。


「暇なら一緒におしゃべりしない?」

「いいの?」

「もちろん。ほら、桜もいいって言ってる」


 そう言って見上げた桜は風に揺られていて俺にも"良い"と言っているように思えた。

 まるで幻想的な夢に囚われたようにフラフラとしめ縄の中に入っていった俺は誘われるがままにポスンと隣に座り込んだ。


「うん。いい子だ。キミはよくここで遊んでる子だよね?」

「知ってるの?」

「もちろん。春休み中かな?学校では何して過ごしているんだい?」

「えっとね――――」



 ―――昔の人は"恐れ"から雷雨や地震を神や鬼へ例え枠に当てはめたという。

 それらは存在しないもの。しかし未知の現象を当てはめるのにおあつらえ向きだったから。


 しかし今、俺は桜の精と会話をしていた。

 この大きな桜と会話をし、俺のことをよく知っていて不思議な雰囲気を纏う少し年上に見えるその子は小さいながらに人ならざる者だと直感で感じ取った。

 しかしそれを敢えて口にはしない。口にすればあっという間に散る桜のように消え去ってしまうかと思ったから。





 それから俺たちは毎日同じ時間に神社に行き、彼女との会話を楽しんだ。

 学校のこと、家の事、友達のこと。そのどれもが彼女にとっては新鮮なようで楽しみ、驚き、笑ってくれた。

 1つ気になったのは同じく遊びに来た友達が見えるたびに彼女はあっという間に何処かへ行ってしまうということだろうか。

 それでも翌日になればまた姿を表してくれる。しかし春休みも終わりを迎えたある日、彼女は寂しそうに1つ言葉を漏らした。


「…………そろそろ桜が散る季節だね」

「そうだね。学校も始まっちゃう」

「学校は行かなきゃならないよ。色々なことを勉強していつしか立派な大人にならなきゃ」

「うん……。お姉ちゃんは、春休み終わってもお話してくれるよね?」

「それは……難しいかもしれないね」


 チクリと胸が傷んだ。

 心のどこかで感じ取っていたこと。彼女が桜の精ならば桜が咲いている時しかいられないと感じ取っていたのだ。

 ショックではない。しかし寂しさは胸の中でわだかまっていた。


「じゃあ来年は……!来年はまた会える!?」


 それは懇願するような願い。

 最初は友達が車での暇つぶしのつもりだった。俺自身もまさかここまで彼女の話が楽しんでいたとは思っておらずその言葉に驚いたが、その子もまた俺の言葉に目を丸くしていた。

 しかしすぐにいつもの柔和な笑みに戻った彼女はそっと頭に手を乗せてくれる。


「もちろん。来年また、この時期に」

「……うん!!」





 それからの俺は、春になると毎日大きな桜の木の下へと通っていった。

 桜が咲く頃にその根本で待ってくれている女の子。

 4年の終わり、5年の終わり、6年の終わりと毎年のように通った。

 少し気になったのは彼女の見た目が変わらなかったことだ。服などではない。容姿が毎年記憶と一致してしまうのだ。

 成長していない……しかし不思議ではない。見上げると怖い桜の下、俺は怖くない彼女の会話を毎年楽しんでいたのだ。


 しかしそれも、今年が最後のこと…………。




「……そっか。今年で最後なんだ」

「うん……ゴメン」


 小さく謝る俺に彼女は桜を見上げてみせる。

 小学6年生の終わりの春。もうすっかり同い年の見た目となってしまった俺は、彼女に今後の事を打ち明けた。


 小学校の終わり、中学に上がる頃に俺はこの村を出る。どこか遠い場所へ引っ越すのだ。

 全てはお父さんの仕事の都合。段々と村に残る人も減り、仕事も減っていった自然なこと。

 俺は毎年彼女と会うのを楽しみにしていた。しかし来年から会えない。そう考えると胸が締め付けられるような思いだった。


「謝ることなんてないよ。寧ろ私こそ言い出せなかった事を言ってくれたんだ。私ももう会えるのは最後だってね」

「そうなの?」

「あぁ……どっちみち、残念ながらね……」


 そう言って笑う彼女はさみしげな笑顔だった。

 最後。それがどういう意味をさすのかわからない。けれどこれまで彼女が言ってきたことにウソはない。なぜだか俺もシックリと来て、その言葉を受け入れてしまっていた。


「なぁに、まだ村を出て行くまで日はあるんだろう?最後の日まで一緒に遊ぼうじゃないか!」

「…………うんっ!」


 そう言って笑いかける彼女に俺も悲しい気持ちを押さえて笑って見せる。

 その日から数日間、俺は彼女と語り合い、遊び回った。

 2人でかくれんぼしたり、だるまさんがころんだをしたり、お手玉をしたり。楽しいことの少ない人生において彩りに溢れた日々だった。


 しかし夢はいつしか覚めるもの。あっという間に時は過ぎ去り最後の日となる。

 最後の日も目一杯遊んだ俺たちは夕焼けが辺りを照らすようになり夜が近いことを告げている。

 もうこの歳になって友達と外で遊ぶことが少なくなった。春休みは特に一日中彼女と遊ぶようになった。

 それもこれが最後。俺たちは二人して最初に会った木の根本で境内を眺めている。


「もう終わりだね……」

「うん……」

「そんな寂しそうな顔をしないでおくれよ。楽しかった日々が台無しじゃないか」


 そう言って笑いかける彼女も笑顔が上手く作れていない。

 これが最後。もう会えないと考えると自然と表情に影が落ちる。

 それは彼女も同じだろう。しかしそれさえも吹き飛ばすように笑って俺を撫でてくれる。


「……やっぱり俺もここにいる」

「それは嬉しけどダメだよ。お父さんたちに怒られるだろう?」

「でもっ!!」

「でもじゃない。キミはキミの人生を大切にすべきだ。私なんかよりね」


 彼女に窘められた俺はそれ以上言葉がでなくなってしまう。

 こうしている間にもどんどん太陽は沈んでいきタイムリミットへ近づいていく。

 最後の時間。もう終わりを告げる。互いに無言のまま空が薄暗くなりつつあるさなか、彼女は座っていた根本から飛び降りて俺の正面に立つ。


「ねぇ、顔を上げて」

「……顔を上げたらまた会える?」

「それは難しいかもね。でも、上げて欲しい」

「なに…………っ―――――」


 やるせない自分の弱さともう会えない寂しさで顔を伏せていた俺だったが、彼女に促されなんとか正面を向き合うと笑顔の彼女はそっと俺に手を触れた。

 小さく暖かい手。いつしか桜と対話したような不思議な手。その手が俺に触れると同時に目を伏せた顔がこちらに近づきそっと俺との距離をゼロへと縮めた。

 たった一瞬、しかし永遠にも思える小さな触れ合い。そんな初めての感触に目を見開くと彼女は恥ずかしそうにはにかみながら笑ってみせた。


「やっぱり、こういうのはガラじゃないね。恥ずかしいや」

「これって……もしかして……」

「あぁ言わないで。恥ずかしいから。でも…………好きだよ」


 そう言ってもう一度頭を撫でた彼女は俺の前から姿を消してしまう。

 境内に取り残されるは俺一人。俺はその場に固まったまま門限ギリギリまで動くことができずにいた。




 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――





 そして俺は中学へと上がる。

 聞いた話だと、俺たちが街を出てからしばらくした後、あの大きな桜は枯れてしまったという。


 枯れたのはまさしく一瞬のことだったようだ。桜が散ると同時に枝葉が萎え枯れ、荘厳で立派に佇んでいたあの巨木が見る影も無くなったという。

 それを親から聞いた時は驚きはした。けれど不思議ではなかった。

 きっとあの子が去ってしまったから。寿命かどうかわからないがそれが原因だと確信していたから。



 そんなウワサを耳にした俺ももうじき夏が終わる。

 夏が来て秋が来る、そして学校も2学期が始まる。

 俺も中学生になって暫くがたった。慣れない生活も軌道に乗り、友人も何人かできて順調ともいえる生活を送っていたとある日。


「ちょっと降りてきなさーい!」


 そんな母さんの呼びかけに応じて俺は階下へと向かう。

 暑い夏の日。学校も数日後に控えた日。わざわざ俺を呼び出すなんて何事かと不思議に思いながらも母さんのもとへ向かっていく。


「あぁやっときた。ごめんなさいねぇ遅くて」

「いえいえ、利発そうな子じゃないですか」

「とんでもない!毎日ぐうたらと大変ですよ~」


 なにやら階段の降りた先……玄関から話し声が聞こえてくる。

 一人は母さん。もう一人は聞かない声だ。


「アンタも挨拶しなさい。今朝隣に越してきたんですって。お隣さんよ」

「はぁ。こんにち――――」


 そう言って顔を顔を上げた先に立っていたのは2人の女性だった。

 一人は母さんと同じくらい、おそらく母親だろう。そしてもう一人は桜と同じ髪の色を纏った……


「――――は………」

「やぁ。思ったより早い再会だったね。偶然とはいえ私も恐ろしいよ」


 そう言ってクスクスと笑うのは以前大きな桜の木の下で出会い、話し、キスをした桜の精その人だった――――。












 ここからはちょっとした余談である。

 しかしてミステリアスな女性というものは得てして怖い部分もあるという話だ。


 隣に越してきた彼女。その庭にはこぢんまりとだが桜の木が植えられていた。

 夏の終わり故に桜の花は咲いていない。けれど確かに元気で幹も成長中だと分かる木だ。


 そこで彼女の1つ聞いたことがある。


「常々キミのこと桜の精だって思ってたけど、もしかしてあの桜の木ってもしかして…………」


 しかし彼女はそれ以上言わせないように俺の口元に指を触れさせて言葉を遮る。

 そして触れた指を自らの口元へ持っていき、小さく微笑みながら優しく告げた。


「さぁ、どうだろうね?」




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桜の下で、優しさを 春野 安芸 @haruno_aki

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