第22話『告白』

 12月24日。一般的にはクリスマスイブと呼ばれる日だが、音無家と佐藤家にとっては、一樹の誕生日という意味も持つ日だ。

 生まれた時から家族ぐるみで付き合いのある佐藤家とは、誕生日などのイベントがあればどちらかの家に集まり、パーティー――といっても集まって食事なり遊ぶなりしているだけだが――を開くのが恒例行事となっている。記憶にはないが、俺の1歳の誕生日から始まったらしいこの誕生日会は毎年行われているので、俺と一樹、そして鈴と彩ちゃんの誕生日まで含めると、50回を優に超える回数になる。

 偶々クリスマスイブと被っている一樹の誕生日の際は、クリスマスパーティーも兼ねて集まることになっているという訳だ。


 誕生日会では基本的に親達と子供達でテーブルが分けられていて、ダイニングにあるテーブルには親達が、リビングにあるテーブルには俺たち子供が食べる用の料理が並べられている。元々これは親達が酒を飲む関係でテーブルが分けられていたのだが、子供の内半分が成人してしまった今となっては、それほど意味のあるものではなくなっている。


「なぁ律、赤ワインとビール、どっちがいい?」


「そうだな……とりあえずビールかな」


「おーけー。彩花と鈴ちゃんは何飲む?」


「おに――兄さんは今日の主役なんだから座ってなよ。私が用意するから」


「私も、手伝う」


「じゃあすーちゃんはビール注いであげて。私ジュース持ってくるから」


「ん、分かった」


 一樹は性格的に率先して場を回そうとすることが多い。本人は意識していないだろうがその積極性には今まで何度も助けられてきた。要するに、根っからのお人好しなのだ。


「一樹さん、グラス、貸して?」


「おっと、俺から注いでもらっていいの?」


「主役、だから」


「なんか悪いな律」


「何がだよ」


 一樹に変な気を回されながら、鈴は特に気にすることなくグラスにビールを注いでいく。ビールはよくCMで見る銀色のやつだ。


「兄様、も」


「ああ、ありがとう」


 鈴は俺のグラスにもビールを注いだ後、彩ちゃんが持ってきたジュースを自分と彩ちゃんのグラスに注いだ。

 別テーブルにいる親たちはというと、既にワイングラスに赤ワインを注ぎ終わっており、準備万端といった様子だ。


「それじゃ律、音頭を頼む」


「主役なんだからお前がやれば良いのに……」


 いつからかは覚えていないが、こうした集まりのときの音頭は俺の役目になっていた。今回がたまたまではなく、自分の誕生日でも俺がやらされる。


「ほらほら早く〜」


 別テーブルいる母さんからも催促がかかる。


「はいはい……それじゃ、グラスは持ちましたか?」


 全員が自分のグラスを手に取る。


「一樹、誕生日おめでとう! そしてメリークリスマス! 乾杯!」



◇◇◇◇◇



「はいはいはーい! テーブル開けてー!」


 一通り料理を食べ終わった後、彩ちゃんが持ってきたのはホールのショートケーキだった。


「お! 待ってました!」


 毎年クリスマスには鈴がケーキを作っている。種類はその時によって様々だが、今年はショートケーキにしたらしい。最もスタンダードなものだからというのもあるだろう。

 鈴がケーキを作るのは毎年のことだが、今年は少し違うことを俺は知っていた。


 彩ちゃんがケーキを8等分に切っていく。一切れ余ってしまうが、誰も食べなければ母さんが食べることだろう。

 一樹もいい歳なので、蝋燭に火をつけて吹き消す、なんてことはしなかった。

 一樹を再び全員で、改めて誕生日おめでとうと祝ってから、ケーキを食べることになった。


「どう? 美味しい?」


 と聞くのは彩ちゃんだ。

 去年までは鈴の作ったケーキを美味しいと言って食べる側だったが、今年はそうではないから、周りの反応も気になるのだろう。


「そりゃ美味しいよ。鈴ちゃんの作ったケーキだしな」


 そんな一樹の反応を見て、彩ちゃんは満足したように鈴とハイタッチしていた。


「え? 何? どういうこと?」


「それ、作ったの、あーちゃん」


 この場で誰よりも料理が上手い鈴が作ったものだと勘違いさせられたのは、最上位の褒め言葉といっても違いない。


「マジで……?」


「マジもマジ、大マジだよ。兄さん」


「あ、もしかして昼間に律がプレゼントを買うって俺を連れ出したのは……」


「ケーキ作ってる間に家にいられたら困るからだな」


「そういうことか……。いやおかしいと思ったんだよ。律が当日にプレゼント買いに行くとか初めてだったし」


 最初にクリスマスケーキを彩ちゃんが作ると聞かされたのは、2週間ほど前のことだった。

 誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント、その両方を用意する必要のあった彩ちゃんは、2つ目のプレゼントを何にするか悩んでいたらしい。そこで鈴が提案したのが、自分で作ったケーキを振る舞うというものだった。


 それからというもの、学校終わりに彩ちゃんは毎日のように我が家に来ると、鈴と共にケーキ作りに励んだ。そのせいで、といっては愚痴っているように聞こえるかもしれないが、俺はクリスマスの2週間も前からショートケーキを毎日食べることになった。

 それが辛かったかといえばそうでもなく、作られたケーキはどれも美味しかったし、我が家には食べ物を決して残さない怪物もいるので、苦にはならなかった。

 ただ、当初の予定では鈴のケーキ作りを彩ちゃんが手伝う、というものだった気がするが。鈴が任せても問題ないと思うぐらいには、この2週間で上達したということだろう。


「でもこれ、本当に彩が? 鈴ちゃんを手伝ったとかじゃなく?」


「私は、間違えないか、見てただけ。作ったのは、正真正銘、あーちゃん」


「そうか……」


 一樹はもう一度ケーキを口に運ぶと。


「本当に美味しいよ。ありがとう」


「ど、どういたしまして!」



 ◇◇◇◇◇



 ショートケーキを食べ終え――残された一切れは一樹が食べた――プレゼントも渡し終えると、クリスマス会兼誕生日会は終盤となり、後は残った酒と料理を消費するだけといったところ。


「律、ちょっと付き合ってくれ」


 一樹が煙草の箱を手に声を掛けてきた。


「俺は吸わないぞ?」


「話し相手が欲しいだけだからさ」


「分かった」


 一樹に連れられ外に出る。

 もうすぐ今年も終わりを迎え、その上陽の落ちた時間帯だ。外は当然冷える。

 こんな寒いなか外に出なければ吸えないのに、それでも吸いたいと思ってしまうものなのか、俺には分からない。今後も出来れば分からないままでいたいものだ。


「吸わないって言ってる奴に吸わせる気はないけど、なんか理由とかあんの? やっぱ健康のため?」


「親父――血が繋がってる方の父親がさ、肺癌で死んだんだよ。ヘビースモーカーだったらしい。それでまぁ、俺まで煙草が原因で死ぬわけにはいかないからさ」


「なるほどなぁ……」


「というか、そんなこと聞くために連れ出したんじゃないだろ。何か話があるんだろ?」


「よく分かったな」


「何年の付き合いだと思ってる」


 一樹は短くなった煙草の火を消して携帯灰皿に入れると、本来の要件を話し始めた。


「告白されたんだ。彩に」


 しかしその内容は、全くもって予想外のものだった。


「は……? え? 告白って……」


「より正確に言うなら、愛の告白? まぁ、その前に彩から、これからお願いすることを断ってくれ、って言われた上での告白だったんだけどな」


「…………」


 彩ちゃんが一樹のことを好きなのは分かっていた。少し前に鈴から聞いた、彩ちゃんが告白されたという話。あれを断った理由からしてそうだろうとは思っていたし、家庭教師として勉強を教えに行った時に色々と相談を受けたりもした。もちろん彩ちゃんが直接一樹のことを好きだという話を聞いたわけではないが、相談の内容が一樹に関することばかりなら察しもする。

 しかしなんともまぁ……思い切ったことをするものだ。


「それで……どう答えたんだ?」


「断ってくれって頼まれたからな。断ったよ」


「……そうか」


「でも……」


 一樹はまた新しく煙草に火をつける。


「断る時、思っちゃったんだよ。なんで断んなきゃいけないんだろうって」


「それは――」


「分かってる。俺と彩は血の繋がった兄妹だ。付き合うことはもちろん、結婚なんて出来るはずもない。でも……どうにか出来ないかって、考えてしまった」


「一樹は、彩ちゃんのこと、好きだったのか?」


「……どうだろうな。家族としてはもちろん好きだ。でも、女の子としてどうだったかは分からない。けどまぁ……告白を受け入れてあげたいって思ってしまったってことは、そういうことだったんだろうな」


「そうか……」


「だって考えてもみろ。誰よりも長く一緒にいて、俺の良いところも悪いところも知った上で好きだと言ってくれる。そんな相手を嫌うはずがないだろ?」


「……そうだな」


 その気持ちは、痛いほど分かる。

 ただ、そんな一樹のことを、俺は心のどこかで羨ましいと思っていた。

 実の兄妹なら。血の繋がった兄妹なら。必然的に答えは出せる。

 悩みながらでも、苦しみながらでも、答えてあげられる。

 未だに何も決断出来ない俺は、そんな状況でないと、前に進めない気がした。


「……それで、俺はお前を慰めればいいのか?」


「いや、そういうわけじゃない。俺が話したいのはここから。お前、律自身のことについてだ」


「……俺のこと?」


「ああ。お前だって分かってるだろ。こんな半端なままじゃダメだって」


 何の話なのか、惚けることは出来ない。

 俺がはぐらかして逃げないように、あえて一樹は自分の話をしたのだろう。


「お前は、何をそんなに躊躇ってる? 一体何を怖がってるんだ?」


 俺が、何を怖がっているのか。

 正直なところ、俺にもそれが何なのかは分からない。

 鈴は間違いなく俺のことを好きでいてくれている。

 そして俺も、鈴のことは好きだ。1人の女性として。


 俺は、何が怖いんだろう。


「俺は……鈴に幸せになってほしい。ただ幸せになるんじゃなく、存在する可能性の中で一番幸せになってほしいんだ。そうじゃなきゃ、鈴のこれまでの不幸に釣り合わない。そして、一番幸せに出来るのが俺じゃないのなら、別に相手は俺じゃなくてもいい」


 これが、俺の正直な気持ちだった。

 もちろん、何が一番幸せなのか、そんなのが誰にも分からないことは分かってる。でも、そんなどうにもならないことを望んでしまうぐらいには、俺は鈴に幸せになってほしい。


「……なるほどな」


 一樹は、もう3本目になる煙草に火を付けた。


「よく分かったよ。お前に何が抜けてんのか」


「抜けてる?」


「一回しか言わないぞ。恥ずかしいからな」


 一樹は少し長めに煙草を吸って、吐き出した。


「正直なことを言うとな、ぶっちゃけ俺は鈴ちゃんのことは割とどうでもいい。いやもちろん、幸せになってほしいとは思ってるよ。だけど俺はそれよりもまず、律、お前自身に幸せになってほしいんだよ」


「は……?」


「鈴ちゃんが苦労してきたのは俺も知ってる。けど、それと同じくらい律が苦労してきたのも、俺は知ってる。だからそんな苦労してきた親友には幸せになってほしい。お前は鈴ちゃんのことしか頭にないみたいだけど、少しは自分のことも考えてやったらどうだ?」


「…………」


 その言葉に、俺は何も言えなかった。

 別に、自分のことを蔑ろにしているつもりはない。ただ、鈴と俺自身のこと。そのどちらを優先するかと問われれば、俺は迷わず鈴を選ぶ。

 いつからなのかは覚えていない。気が付いた時にはもう、そう考えるようになっていた。

 そうしなければ、鈴は生きていけなかったから。

 わがままを言っている暇なんてなかった。

 自分を優先することを、許される状況じゃなかった。

 でもそれについて後悔は全くしていない。


 何故か?


 多分、嬉しかったのだ。

 好きな子の一番傍にいられることが。

 好きな子から頼りにされる状況が、心地良かったのだ。


 だが同時に、怖くもあったのだと思う。

 俺が今、鈴の傍にいることを許されているのは、俺が鈴の兄だからなのではないかと。

 兄ではなくなれば、俺はもう鈴から必要とされないのではないかと。


 そうだ。だから俺は、一樹が羨ましかった。

 血の繋がりがあれば、この先ずっと兄でいられるから。

 血の繋がりが、兄であることの証明になるから。


 それが、羨ましかったんだ。


「……流石に寒いな。戻ろうぜ」


「……どうして、この話を?」


「親友が悩んでるんだ。力になってやりたいと思うだろ?」


「隠してるつもり、だったんだけどな」


「分かるさ。何年の付き合いだと思ってんだ」



 ◇◇◇◇◇



 家の中に戻ると、親たちはもう既に片付けを始めていた。

 普段なら率先してその役目を買って出ているはずの鈴は、ソファーの上で彩ちゃんと共に眠ってしまっていた。

 いつの間にか時刻は0時を過ぎている。朝から準備で動き回っていた二人はもう限界だったのだろう。


「俺達も手伝うか」


「今日は主役なんだけどなぁ」


「日付変わったからもう違うぞ」


「はいはい」


 少しだけ残った料理をつまみながら、俺と一樹も片付けに加わった。



 ◇◇◇◇◇



 片付けを手伝うと言っても、俺がやったことと言えばもう冷めてしまった料理を胃の中に放り込んで、食器類をシンクまで運んだぐらいのことで、そこから先は佐藤家の人たちが引き継いでくれた。

 今日の主役でありながら彩ちゃんが寝てしまっているために、洗い物に駆り出された一樹に礼を言って、俺たちは佐藤家を後にした。

 鈴を起こすかどうかは迷ったが、大した距離じゃないし律がおぶっていけば? という母さんの言葉により、起こさないまま連れて帰ることになった。


 楽しい一日だったと思う。毎年やっていることではあるが、恒例行事故の安心感のようなものがある。

 ただ、一つだけ、今回のクリスマスパーティには心残りがあった。


 それは、鈴に対するクリスマスプレゼントだ。

 俺はまだ、鈴にクリスマスプレゼントをあげられていない。

 何故かといえば、鈴からプレゼントの希望をまだ聞けていないからだ。

 いつもであれば、11月ごろには互いに今年のプレゼントは何が欲しいかを伝え合う。そして俺は、今年はパソコンで使うキーボードをお願いした。そしてそのプレゼントはすでに受け取って、今は俺の部屋に置いてある。

 しかし鈴は、クリスマス会当日になってもプレゼントの要望を伝えてこなかった。

 元より鈴は、自分から何かが欲しいと言うのが苦手な子だったし、俺の方からもいくつかアイディアを出してはみた。けれど鈴は、もう少し考えさせて、と言って、結局今日にいたるまで欲しいものを伝えてくることはなかった。

 特に欲しいものがないというのであれば、俺が見繕うことも出来たのだが、話を聞く限りではそうではないらしく。何を迷っているのかは分からないが、俺は鈴から欲しいものを聞けるまで待つことを選択した。


 まぁ、クリスマスプレゼントとは言え、クリスマスに渡さなければならないという決まりはない。ましてやそれがプレゼントを贈る側の事情ではなく、受け取る側の事情であれば尚更だ。

 鈴の欲しいものが決まった時は、一緒に買い物に行くっていうのもそれはそれでありだろう。


「今年は雪、降らなかったわね」


「ホワイトクリスマスってやつ? 俺はどっちかっていうと、降らないでいてくれる方が嬉しいけどな。雪かきは俺の仕事だし」


「あたしは雪、好きなんだけどなぁ。ここまで寒くなるならいっそ降ってくれって思っちゃう」


「そういうもんですか」


 佐藤家と我が家は近所だが隣同士という訳ではない。家まではまだ少し距離があった。


「……ごめんね、律」


「は……? なんだよ急に……」


「ふと……ね。律には昔から苦労させたから。鈴のことだって、ほとんど任せっきりだし」


 俺の背中で眠る鈴を見て、母さんは呟く。


「それは、役割分担ってやつだろ。母さんは経済的に俺たちを不自由させないよう頑張ってくれた。俺は、俺にできることをしただけだよ」


「でも、大変だったことには変わりないでしょ。子供はね、本来自分のことを優先していいのよ。好きなことに没頭したり、仲のいい友達と遊んだり、誰かのことを好きになったり、ね。でも、あたしは律にそうしてあげられなかった。律のことを、早いうちから大人にしてしまった。誰かのために動くことを、当たり前にしてしまった」


「仕方ないよ。母さんのせいじゃない」


 母さんのせいじゃないし、誰のせいでもない。現実は時々、仕方のないことってのが起きる。鈴のことだって、仕方のないことだった。


「……だからね。あたしは思うのよ。そろそろ律は、自分の為に動いていいの。これから先は、自分の為に時間を使ってもいいの」


「どういうこと?」


「私は、律がどれだけ鈴のことを大事に思ってるか一番良く知ってる。だからね、律。そろそろあんたも、幸せになっていいのよ。鈴のためじゃなく、自分のために鈴を愛していいの」


 それは、ついさっき一樹に言われたことと、とても良く似ていた。


「……俺ってそんなに、自分を蔑ろにしてるように見える?」


「見える、じゃなくてしてるでしょ。少しはあたしを見習ってみなさいよ」


「母さんのはまた少し違うと思うけど……」


「まぁとにかく、鈴がどうか、じゃなくて、自分はどうかで考えてみなさい。律は、これから先、鈴とどうして行きたいの?」


「これから、か……」


 鈴のためじゃなく、俺がどうしたいか。

 本音を言ってしまえば、鈴の望むようにしてあげたいと思うが、多分母さんの言葉はそういう意味じゃないんだろう。


 これから先、5年後、10年後、さらにその先を考えたとして。

 それでもなお鈴の隣にいられたら、それはとても幸せなことだろう。

 けど、それだけではなくて。

 兄妹という関係では進めないさらにその先へも、俺は鈴と歩んで行きたい。

 もちろん全て、鈴が望んでくれたならの話ではあり、結局のところ優先しているのは鈴のことになっている気もするが。

 今は、それで良いだろう。人はそう簡単に変われない。

 兄妹ではない、鈴との関係。それを考えられるようになっただけでも、前進は前進だ。


「……ありがとう、母さん。でも……どうして急にそんな話を?」


「さぁ……クリスマスだから、かしらね。奇跡が起きるには、ピッタリのタイミングじゃない?」


「奇跡……か」



◇◇◇◇◇



「お風呂ってもう沸いてるんだっけ?」


「鈴がセットしてたから入れるはずだけど」


「先に入る?」


「俺は鈴を部屋に寝かせてくるから、先入っていいよ」


「りょうかーい」


 自分の部屋に着替えを取りに行った母さんと分かれ、鈴の部屋に入る。

 最近めっきり使われることが少なくなったベッドに鈴を寝かせる。鈴には悪いがお風呂は明日の朝に入ってもらうことにしよう。

 一晩経てば、俺も心の準備が出来るはずだ。

 周りの人に後押しされて、ようやく直視した自分の気持ち。

 兄としてではなく、一人の男として、鈴の隣にいたい。

 もちろんそれを鈴が許してくれる保証などどこにもなく、これまでのことも俺が鈴の気持ちを勘違いしていただけかもしれない。

 ただ、こうして自覚してしまった以上、もう見て見ぬふりは出来ない。

 伝えてもしダメだったのなら、その時は兄として鈴を支え続けよう。

 元通りの兄妹関係には戻れなかったとしても、どんなときも鈴の味方の兄でいよう。


「…………」


 なんだろう。急に不安になってきた。

 世の中のカップルってのはこれを乗り越えてきてるのか。凄いな。


 すやすやと眠る鈴の顔。

 もし関係性が壊れてしまったら、もう二度とこの顔を見ることも出来なくなるかもしれない。

 そう考えると急に、欲がわいてきた。


 最後になるかもしれないから、どうかこれぐらいは許してほしい。


 ベッドの横で膝立ちになる。


「……愛してるよ、鈴」


 そっと、頬にキスをした。


 やってしまったと今更思うが、してしまったことは取り消せない。

 海外では挨拶のようなものらしいし、許してくれることを願おう。尤も、この事実は未来永劫、俺の心の中から出ることはないだろうが。


「おやすみ」


 そうして、鈴の部屋を出ようとした時だった。


「……にいさま」


 心臓が跳ねた。


 振り返ると、いつから目を覚ましていたのか、鈴がベットから体を起こすところだった。


「……悪い、起こしちゃったか」


「ん……起きてた」


 再び、心臓が跳ねる。


「え……っと、どこから……?」


「家に、ついた、ぐらい? ウトウトしてた、けど、今ので目、覚めた」


 今の、とは、どれのことだろう。


「来て、兄様」


 出来ればそれがおやすみの挨拶であることを願いながら、俺はベッドの横に戻る。


「しゃがんで」


「え……?」


「はやく」


「……はい」


 言われるがまま再びベッドの横で膝立ちになる。


「その……さっきのは――」


 かっこ悪く言い訳を並べようとしていた俺の口は、鈴によって塞がれた。


 鈴の唇によって、塞がれていた。


 10秒か、20秒か、30秒か。もしかしたら時間にしては1秒にも満たない長さだったのかもしれない。

 時間感覚が失われているなか、どちらからともなく唇を離した。


「私も、愛してる。ずっとずっと、昔から」


「っ――」


 気付けば俺は、再び鈴にキスしていた。

 感触も、匂いも、味も、脳が処理できる情報の限界を超えているのか、ほとんど分からない。

 ただ、心はとても、満たされていた。


「ごめん。本当は明日、もっとちゃんと伝えようと思ってたんだけど」


「ううん、大丈夫。でも、もう一回、言ってほしい」


「……鈴のことが、好きだ。家族としても、一人の女性としても。これから先もずっと、俺の傍にいてほしい」


「うん。私も、大好き。私を、兄様の、お嫁さん、に、してください」


 そうして、再び引き寄せられるようにキスをした。



 ◇◇◇◇◇



 その後、せっかく起きたのだからと一緒に風呂に入ることとなり、風呂上がりの母さんに事の顛末を伝えることになった。


 俺たちを抱きしめた母さんは泣いていた。笑いながら、泣いていた。

 二人の父親の葬式以来見ることのなかった、3度目の泣き顔だった。

 そしてその後。


「初めては痛いだろうから優しくすること。あとお風呂場は結構声が響くから気を付けなさいよ?」


 という忠告を貰った。

 風呂場でいきなりやり始めるとでも思っているのだろうかこの母親は。

 もちろん、そうしたことに興味が無い訳ではないし、むしろいずれ出来ればいいとも思ってはいる。しかし今日はもう夜も遅く――こういうことは大抵夜に行われるものではあるのだろうが――俺も鈴も疲れていたため、それはまた後日、ということになった。


 まぁ、色々と予定外な進み方ではあったし、一樹や母さんからの後押しもあってのことではあるが。


 俺と鈴は、恋人になった。

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