第21話『好きな人』
一般的に、一度上がってしまった生活レベルを下げるのは難しいと言われている。
住む家があり、選ぶのに困る程度の服があり、毎日満腹になれるだけの食事がある。そんな生活をしている人間が突然、無人島でサバイバルをしろと言われても無理だろうし、ここまで極端な話でなくとも、今住んでいる場所から引っ越すというだけでも抵抗があるものだ。
こうした、自分が一度手に入れたものや環境に価値を感じて、それを手放すことに抵抗を感じてしまう心理現象を保有効果という。
もしかしたら、この状況もそうなのかもしれない。
一度経験してしまったから。
それが許されると知ってしまったから。
あの日以来、俺と鈴は一緒に入浴するようになった。
◇◇◇◇◇
とは言うものの、添い寝の習慣ほど毎日のように一緒に入浴しているという訳ではない。俺には俺の予定があるし、鈴には鈴の予定がある。添い寝は一日の終わりにあるからこそ、日中にどんな予定があっても変わることはないし、何なら眠る時間が一緒でなくたって添い寝は出来る。寝る場所が一緒でありさえすればいいのだから。
ただ、入浴となるとそうもいかない。日々の生活の一部に組み込まれている予定の一つである上に、互いの予定が合うまで片方が入浴せずに待ち続けるというのはあまり現実的じゃない。
だから、予定が合う時だけ。
どっちが先に入浴してもいいぐらい、互いの時間に余裕があるときに。
今日も丁度、そんな日だった。
夕食を食べ終えて、使った食器を食洗器に入れている鈴を見て、これまでだったら普通に脱衣所へ向かっただろう。
でも、そうしなかった。
リビングのテレビをつけて、別に興味がある訳でもないバラエティー番組をソファーに座って眺める。
言うなれば、これは一種の意思表示だ。
人間、時には一人でゆっくり風呂に入りたいこともあるだろうし、逆に、さっさと済ませたいからこそ一人で入りたいと思うこともあるだろう。
そんな時は、互いに何も言わず風呂に入る。これは話し合って決めたことというより、一週間前に鈴が突然風呂場に突撃してきてから今日までの間で、自然と決まったことだ。
対して、今日は一緒に入ってもいいと思っているときは、相手の手が空くまで入浴せずに待つ。大抵の場合、食事後の片づけは鈴が行うため、待つのは俺であることが殆どだ。
素直に誘えれば、こんな面倒なことをしなくても済むのだとは分かっている。
ただ、俺も鈴も、子供が親と入浴したがるように、純粋な気持ちだけでそれを望んでいる訳ではなかった。
互いに、下心があることを自覚していて、それ故に、素直には誘えない。
もう俺たち兄妹の関係性は、一線を踏み越えてこそいないものの、大きく歪んでしまっていた。
「……これ、さっきと同じ、番組?」
「いや、違うやつ」
食洗器に食器を入れ終えた鈴が、隣に座る。
余裕を持って座っても、あと二人は座れるだろうスペースがあるにもかかわらず、肩が触れ合うほど密着した場所に鈴は腰を下ろした。
「兄様、これ、分かる?」
「多分Aじゃないかな」
テレビに映るクイズ番組の問題を、番組出演者と同じように解いていく。
「……ホントだ。全然、知らなかった」
「こういうのは知識だからな。ひらめき問題とかのほうが俺は苦手だよ」
「私は、好きだよ、あれ。考えれば、分かる、から」
「俺はあれ、答えを聞いてもピンとこないことがあるからな」
クイズ番組は続いていく。このまま鈴と二人で話しながらクイズを解いていくのも面白いとは思う。ただ、互いに望んでいることはそれじゃなかった。
「……お風呂、入ろ?」
「……そうだな」
テレビを消して、立ち上がった。
◇◇◇◇◇
一緒に入浴するようになってから数日は、こんな風に二人揃って風呂場に向かうようなことはしなかった。鈴はもちろん、俺にも多少は羞恥心があり、基本的には互いの意思を確認した後、どちらかが先に風呂に入り、後を追うようにもう一人が風呂場に向かう、という形をとっていた。大抵の場合、先に入浴しておく役割は俺の方で、鈴は遅れて風呂場にやってくるのがいつもの流れだった。
しかし人というのは慣れるもので、羞恥心の類がなくなった訳ではないのだが、恥ずかしさを感じるその状況さえも、俺たちは楽しむようになっていた。
羞恥の対象は互いの裸体だけではない。一緒に入浴しているという事実を誰かに知られてしまうこと。それも含まれる。つまりは、今更手遅れだとは知っているが、母さんに一緒に入浴している事実を誤魔化す意味合いも、入浴タイミングをずらしていた一因ではあった。
しかし、今はそんなことはしていない。これは別に、俺と鈴がある種の露出癖を持っているなどではなく、単純に無駄な努力であったからだ。
そもそも最初に入浴を共にした時は、母さん自ら鈴の後押しをしていた訳だし、同じ家に住んでいる以上、勘の鋭い母さんに事実を隠し通すことなど出来るはずもなかった。これに関しては、母さんが俺と鈴の入浴に関して、あれ以来何も言ってこないのも大きいだろう。少しでも母さんが入浴の事実を茶化したり、揶揄ったりしたのなら、鈴は恥ずかしがって今もなお、タイミングをずらすという無駄な努力を続けていたはずだから。もしかすれば、一緒に入浴するという行為そのものが、数回限りで途絶えていた可能性だってある。これに対して喜ぶべきなのか、そうでないのか、俺には判断出来なかった。判断するべきでは、ないような気がした。
「兄様、待って」
いつものように服の襟に手をかけ、シャツを脱ごうとすると、鈴に止められた。
「どうした?」
「……ばんざい、して?」
「…………」
脱衣所でいきなり万歳三唱をしろという意味では、当然ないのだろう。選挙で当確が出た時のように喜んで見せろと言う意味でないのなら、答えは一つだ。
鈴に言われるがまま、両腕を上げる。心境と照らし合わせるのなら、これは万歳というより降伏に近い。
言いなりになった俺を満足そうに見上げると、鈴は俺の服の裾を掴み、服を脱がした。
誰かに服を脱がしてもらうなんて、十何年ぶりだろう。これは、見られている状況で服を脱ぐよりも、相当に恥ずかしい。
シャツに続いて、肌着も同じように脱がした鈴は、膝立ちになり当たり前のように言う。
「……下も、脱がす、ね」
ベルトを外して、ズボンのチャックに手をかける。わざとなのか、それとも無意識なのか、ゆっくりとチャックを下ろし、ホックも外して、ズボンを脱がしていく。
「…………」
「…………」
当然、風呂に入るのだから、脱がすのはズボンだけではない。残された1枚の布にも手をかけた鈴は、焦ったさすら感じるようなスピードで、それを完全に下ろしきった。
「……っ。飛び出て、きた」
「悪い……」
「気に、しないで。大丈夫、だから」
言って立ち上がった鈴は、先ほど俺がしたのと同じように、両手を上げて万歳の形をとる。
「次は、兄様の、番」
「……分かった」
シャツと肌着、両方の裾を掴んでまとめて脱がせてしまう。男であればそれで終わりなのだが、女性にはまだ、女性特有の下着が残っている。鈴が自分でブラジャーを外そうとしないところを見ると、これも俺が脱がすしかないのだろう。
本来なら背中を向けてもらうのが手っ取り早いのだろうが、ここで俺の中に、ちょっとした悪戯心のようなものが芽生えた。先ほどから鈴にやられっぱなしなのが少し悔しかったのかもしれない。
俺はあえて正面から抱き着くように背中に腕を回し、ブラジャーの留め具に手をかける。ブラジャーを外したことなんてこれまでの人生で一度もないが、構造自体は理解している。それほど時間もかけず外すことが出来た。
ささやかながらも、しっかりと主張する二つの突起からは意識的に目を逸らし、続いてスカートのホックを外しに行く。
昔は、何で女子は下着の周りに布を巻いているだけの格好で恥ずかしくないんだろう、などと考えもしたが、男が多少なりとも恥じらいを感じることに女性が無頓着な訳がないことは当然の話で。下着の上から下着が見えないように履く衣服があると知った時は、それもそうかと妙に納得した覚えがある。
今の鈴もスカートを履く以上、下着が見えないようオーバーパンツを着用していた。真っ黒な無地のオーバーパンツを下ろしきると、ブラジャーとセットで買ったのであろう、同じデザインのパンツが見える。
変に意識しないよう、これまでと変わらない手つきでパンツも下ろしてしまう。
細く、透明な糸が引いていたことについては、気付かなかったことにした。
「……冷えるし、早く入ろう」
「……ん」
◇◇◇◇◇
風呂場には40度近いお湯が200リットル以上存在しているとはいえ、冬場は当然寒いし、半端に体を濡らすと余計に体の熱を奪われる。浴室内には一応、換気扇を兼ねた空調機器が存在しているため、予め浴室内を暖めておくことも出来る。しかしそうしないのは、冷えた体を湯船の中で二人寄り添い暖め合うという行為そのものに、快感に近い何かを感じているからだった。
夏場よりも数度高い温度に設定したシャワーで全身を流し、二人揃って湯船に浸かる。効率を考えればどちらか片方が湯船に入り、もう一人が体を洗ったほうが良いのだろうが、まだ温まっていない状態で体を洗うのは辛いものがあるし、何より一緒に湯船に浸かること、そして、互いの体を洗うことも、既に習慣の1つになりつつあった。
俺の足の間に入った鈴が、俺の体を背もたれにするように体を預け、それを抱きしめるように後ろから手を回す。このスタイルは今も昔も変わらない。変わったのは、俺たちの意識のほうだ。
人は物事に慣れていく生き物だ。住めば都という言葉があるように、多少の不便を感じても、慣れればそれが日常になっていくものだ。人間は自身ではなく環境を変化させる、とは言うものの、人間は人間なりに自分自身を変化させて生きている。
だから、いつかは慣れるのだとは思う。どんなことでも、習慣化すれば慣れていくと身をもって知っている。しかし今のこの状況に関しては、未だに俺の精神も肉体も慣れる気配がない。1週間という期間では足りないのか、それともこの先慣れることなんてないのか。その答えが分かるのは慣れてからになるのだが、今の状態ではこの状況に慣れるより先に、一歩踏み越えてしまうような気がしていた。
とは言え、全くもって慣れが無いかといえばそうではなく。数日前までは一緒に入浴することへの緊張やらなんやらで、お互いに無言で過ごすことが多かったのだが、昨日あたりからは普通に会話程度はするようになっていた。もちろんいつも通りとはいかないが、それでもこれは慣れと言えるだろう。
日常会話がそうであるように、会話の始まりはいつも唐突なもので、話したいことがあれば話すし、聞きたいことがあれば聞く。つまりは鈴にとってこの話題はそういったものだったのだろうが、そんなことを聞いてくる鈴の意図は、この瞬間の俺には分からなかった。
「……兄様は、さ」
「ん?」
「彼女って……いるの?」
「…………え?」
唐突、という言葉すら生温いほど突然に、鈴はそんなことを聞いてきた。
「だから……彼女、いるの?」
俺の返事を、よく聞き取れなかったが故に聞き返したものだと思ったのか、鈴はもう一度、同じことを聞いてきた。
彼女がいるかどうか。言葉通りの意味だと考えるのなら、いないということになるが、会話というのは文字通りの意味だけで行われるものではない。そこにどんな意図があって、どんな意味があるのか。つまりは、何故鈴は俺に彼女がいるかどうかを知りたいのか、それを考えなければならない訳だが、この質問は同性からのものか異性からのものかで意味合いが大きく変わることがある。
要するに、この質問そのものが、一種の愛の告白と同義になる場合があるという意味で。
鈴が持つ俺への感情が、ただの兄弟愛でないことは、もう分かっている。気付かない振りをしていられる時期は、とうに過ぎ去っている。だが、願わくば俺は、鈴にそれを自覚してほしくないと思っていた。鈴が気付かないその間は、俺は鈴の兄で居続けられるから。
なら、この質問の意図は、どこにある?
「……いや、いないよ」
結局俺は、文字通りの意味に質問を受け取り、事実を答えることしか出来なかった。もうこの状況で、無知を貫き通すのは、知らない振りを続けるのは無理がある。ならもういっそのこと聞いてしまおうと、俺はこれからのことを未来の自分に放り投げた。
「何で……そんなことを?」
「…………」
湯船のお湯を手で掬って遊んでいた鈴は、その手を止めて話し始めた。
「今日、ね。あーちゃんが、告白、されてたの。たまたま、見ちゃって」
「え……? へぇ、彩ちゃんが」
予想外の話が飛び込んできて一瞬面食らったが、そんなこともあるかと納得はする。
友達の妹という贔屓目はあるかもしれないが、彩ちゃんは優しくて、可愛いし、良く気が付くいい子だ。告白ぐらいされてもおかしくない。むしろ、されるほうが普通だとさえ言える。
「それで、彩ちゃんは?」
「……ごめんなさい、って。好きな人が、いるから、って」
「そっか……」
俺が彩ちゃんの家庭教師に就いて一ヶ月と少し。そもそも一樹とは幼馴染なので、彩ちゃんとの付き合いは、それこそ彩ちゃんが生まれてからずっとということになるが、友達である一樹と、その妹である彩ちゃんとでは接する距離感は当たり前だが違う。しかし最近は、家庭教師として二人きりで話す機会が増えたこともあり、以前よりも距離感は縮まったように思う。その結果なのかは分からないが、これまでよりも個人的な話題を話すことも増えた。最近で言えば、一樹への誕生日プレゼントの相談などだ。そうした会話や、普段の態度などから察するに、恐らく、彩ちゃんの好きな人というのは――。
俺個人ではどうにもならない、いやきっと、誰であってもどうすることも出来ないこと。もし何か行動が出来る人がいるとするならば、きっとそれは一樹だけだ。
「兄様は……」
無意味な思考に囚われかけた俺の意識を、鈴の声が呼び戻す。
「どうした?」
「彼女は、いないん、だよね?」
「そう、だな……」
「なら……」
俺に背中を預けていた鈴が、振り返り、向かい合う体勢になる。
さっきまでの、兄妹で入浴する体の置き方とは違う。これは、兄妹ではしてはいけない、体勢だ。
「好きな人は、いるの?」
「…………」
いないと言えば、嘘になり。
いると言えば、もう引き返せなくなる。
「どう、なんだろうな。俺にも、よく分からないんだ」
そう言って鈴の頭を撫でることしか、今の俺には出来なかった。
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