第20話『お礼』
何事にも、適切な範囲というものは存在する。
病気を治す薬は用法用量を守らなければならないように、生きていくために必要不可欠な水でさえ飲みすぎれば死んでしまうように。必要量に達していないのは当然問題ではあるが、過剰過ぎるのも考えものだ。
そうした意味で言うと、俺は特別綺麗好きという訳ではないが、部屋にゴミが落ちていれば掃除しようとも思うし、疲れていても毎日風呂には入るようにしている。かと言って電車のつり革を掴むことに抵抗があるほど潔癖症ではないし、銭湯などで誰かが入った湯に浸かることへの嫌悪感もそれほどない。そりゃあまぁ、一番風呂という言葉があるぐらいなのだから、誰しも張りたての湯船に浸かれるならその方が良いとは思うのだろうが、個人的にはそこまで固執する要素という訳でもない。
だからと言うべきか、我が家ではそれほど入浴の順番が明確に決まってはいない。全員が家にいる時は慣習的に俺が一番風呂を頂くことが多いが、俺の帰りが遅いときなどは、鈴や母さんが先に入ることもある。
そして今日は夜には家族全員家にいて、つまりはいつも通りに俺が一番風呂を頂くこととなった。
風呂の入り方一つをとっても、きっと家庭毎に色々と違いがあるとは思うが、我が家では基本的に湯船に浸かってから体を洗う。もちろん、湯船に入る前にシャワーで全身を流しはするし、温泉などの公衆浴場ではマナーとして体を洗ってから湯に浸かるようにしている。しかしまぁ、俺も鈴も母さんも、家族が入った湯船にすら入れないほどの潔癖症ではない。その日余程汗をかいていたとか、何らかの事情で体が汚れていた場合は、気を使って洗ってから湯船に入るが、今日は普通に大学に行きそのまま帰ってきただけなので、俺個人の感覚に照らし合わせて、洗ってから湯船に入らなければならないほど汚れていた訳ではなかった。
だから別に、特別鋭い洞察力も、名探偵のような推理力も必要とすることなく、俺がいつも通りに体を軽くシャワーで流してから湯船に浸かったことは、家族であれば誰でも想像できることだ。
ただ、その事実に気付いたとして、何故そんな行動を取るに至ったのかを知るためには、体は子供で頭脳は大人な名探偵並みの推理力が必要になりそうだ。
少なくとも俺には、これだと確信できるような推理は構築できそうになかった。
「…………」
当たり前だが、風呂場というのは一種のプライベート空間であり、しかもそこが自分の家の風呂場ともなれば、特別警戒心を持ちながら入浴することはないし、隣接する脱衣所に人の気配を感じたとしても、何か用事があったんだろうな、としか思わない。
もし仮に脱衣所に訪れた人物の用事が入浴であったとしても、扉一枚隔てた場所にある浴室に人がいることに気付かないのは、漫画やアニメの登場人物だけだ。あれは一種のお約束であり、その作品を見ている人たちへのサービスであり、リアルではない。
だからこそ、もし仮に入浴中に浴室の扉が開かれたのなら、開いた人物は中に人がいるのを分かった上で、自分も入浴しようとしているのだ。
自分が小学校低学年程度の年齢ならいざ知らず、二十歳を超えたいい大人になってからそんな状況になるなんて、誰が想像できるのか。
目を閉じ、リラックスした状態で湯に浸かっていた時、耳にガラガラと扉の空いた音が届いたとしても、それが浴室の扉の開く音だと、俺の脳みそは直ぐに結びつけてはくれなかった。
「…………ん?」
何かが可笑しいぞと俺の意識が気付いたのは、一人でいるはずの浴室内からシャワーの音が聞こえてきてからだった。
「………………何してるの?」
「……? お風呂、入ろうと、思って」
そこには、全裸でシャワーを浴びる鈴がいた。
いやまぁ、ここは風呂場なのだから、全裸でいるのは何ら問題ではない。この場合問題なのは、この場に鈴がいるということのほうだ。
「…………なんで?」
湯船の温度で逆上せるまでもなく頭が真っ白になった俺は、取り合えず疑問をぶつけてみることにした。
「お礼、しようと、思って」
「……お礼って?」
「この前、風邪、引いた時、体、拭いてくれた、から」
「あぁ…………」
つまりは、俺が以前鈴の体を拭いたから、そのお礼として今度は俺の体を洗ってくれるということなのだろう。
理屈は分かるし、意図も分かる。ただそれとは別の何かが致命的に欠落しているような気がしてならない。お礼をしたいというその思いやりの気持ちを、もう少し俺の生理的な部分にまで向けてくれていたら言うことなしだったのだが。
シャワーで体を流し終えた鈴は、そうするのが当たり前であると言わんばかりに、自然な動作で俺がまだいる湯船に入ってきた。俺の足の間に体を収めた鈴は、俺を背もたれにするように寄りかかる。確かに思い返してみれば、数年前まで一緒に風呂に入っていた頃はこれがいつもの入浴スタイルだった。ただその時とは鈴の状況も、俺の心情も、互いの年齢も、何もかもが違う。変わり続けていく世の中にあっても変わらないもの、といえばなんだか歌の歌詞みたいだが、詩は詩であるから素敵なのであって、歌の歌詞のような状況が現実に起こった時に人々が抱く感情は少なくとも感動ではない。恋人へのプロポーズの際、自作のラブソングを歌ってはいけないのと同じだ。フィクションはフィクションであるからこそ面白いのだ。ある日突然トラックに轢かれて異世界に転生したら普通に困る。なぜなら現実は非情なまでに無常で、いきなりお前は役立たずだからとクビを切られても、自分の力が覚醒してくれる訳でも、自分がいなくなった後その組織が崩壊する訳でもない。不要な奴には切り捨てられるだけの理由があるものだ。
つまるところ何が言いたいのかといえば、こんな漫画やアニメのような状況になってしまったのなら、いっそのこと貴方の住んでいる世界は物語の中の世界なのですよと、優しい女神辺りに教えてもらいたいということだ。
しかし、水槽の脳は自分が見ている現実が全て夢であることには気付けないし、仮に全てが夢だったとしても、自分にとっては紛れもない現実だ。
「……馬鹿か? 俺は……」
こんな訳の分からないことを考えている理由は、要はただの現実逃避であり、それ以上でもそれ以下でもない。これぐらいくだらないことを考えていないと、きっと俺は色々と堪えることが出来ない。というか、こんなことを考えていてもなお、密着した部位から感じる鈴の肌の感触や暖かさは、少しも誤魔化すことなど出来ていなかった。
「兄様……?」
「何でもない。気にしないでくれ」
そして叶うことなら、既に意思とは無関係に始まりつつある体の変化についても、気付かないでいてほしい。
しかし体がこれだけ密着している以上、徐々に硬さを持ち始めた部位について気付かないでいるというのは無理な話であろうことは考えるまでもない。互いにもう、成長し過ぎた。無垢なままでいられる時期は、とうに過ぎ去ってしまっている。
「…………」
「…………」
特に言葉を交わすこともなく、時間だけが過ぎていく。
別に、鈴とであれば沈黙は苦痛ではない。鈴はそもそも口数が多いほうではないし、俺も沈黙を嫌って積極的に話題提供をするタイプではない。だがこの沈黙が、部屋で二人きりの時にある沈黙とは意味合いが違うことは分かり切っていることだった。
子供の頃、まだ鈴と入浴するのが日常だった頃は、こんなことを考えることもなかった。鈴は守るべき対象で、妹だったから。
それは今でも変わっていないはずなのに、今の俺の中には、そんな鈴を独占してしまいたいという気持ちが、確かに存在していた。
「……体、洗うか」
「ん……」
これ以上時間をかけても事態が好転することはないばかりか、余計に湯船から出にくくなるだけだ。現時点で既に言い訳のしようがないほど鈴の体に反応してしまっているが、その事実に鈴が触れないでくれていることが唯一の救いだった。
バスチェアに座ると、鈴は手にしたシャワーで俺の頭を流していく。水が目に入らないようにするためという名目で目を閉じていられるのが少しありがたかった。
「じゃあ、洗う、ね」
「ああ」
俺が普段使っているシャンプーを手に取った鈴は、それを手のひらで少し泡立てたから俺の頭に乗せた。誰かの髪を洗うことにあまり慣れていないのか、手付きは少しぎこちないが、マッサージ然り、耳かき然り、洗髪然り、自分でするより誰かにしてもらったほうが気持ち良いもので、先ほどから煩かった心臓も、少しは落ち着きを取り戻してくれた。
「痒いところ、ある?」
「いや、大丈夫」
「ん。目、つぶっててね」
普段自分が行う洗髪よりも優しく丁寧な手つきで泡を洗い流されていく。
髪を誰かに洗ってもらうという経験は定期的に美容室などで体験するが、されている行為自体は変わらないはずなのに、鈴がしてくれているというだけで何処かむず痒く感じてしまう。
「ん……おしまい」
「……ありがとう」
「顔は……」
「流石に自分で洗うよ」
洗髪や背中を流すなどは人にしてもらうこともあるかもしれないが、誰かに顔を洗ってもらったという話は聞いたことがない。
「じゃあ、体洗う、準備、しとくね」
「……うん」
そう言ってナチュラルにボディタオルに手に取り、シャワーで濡らし始める鈴。
まぁ、鈴としては、洗髪よりも体を洗うことのほうがメインなのだろうし、既に一度鈴の全身をタオルで拭いてしまった俺には、拒否権などあるはずもなかった。
出来ることなら、今この瞬間に鈴の気まぐれなり優しさなり何でもいいからそれらに類する何かが発揮されて、体を洗うという行為が背中を流すという言葉に収まる程度であることを祈る。
勿論、そんな都合の良いときにしか祈らない典型的な日本人である俺には、神様も力を貸してはくれないことなど、この時点で知っていた訳なのだが。
「顔、洗い終わった?」
「ああ」
「ん、洗う、ね」
ボディタオル越しに鈴の手が背中に触れる。とても優しく、ともすれば物足りなく感じてしまう程の力加減。しかしそれが却って新鮮で、気持ち良かった。
「ねぇ……兄様」
「どうした?」
「嫌じゃ、ない?」
「嫌って、何が?」
「私と、お風呂、入るの。突然、だったし」
過去にも、同じようなことを聞かれたことがあった。
鈴が中学生になってから、暫くして。
鈴の状態はまだまだ完全回復とは言い難かったが、学校にも問題なく通えるようになり、鈴と一緒に風呂に入る理由が特になくなった頃のこと。そろそろ鈴も一人で風呂に入ってみたら? と提案したことがあった。
その時に聞かれたのだ。一緒に入るのが嫌になったの? と。
勿論、嫌になった訳ではなかった。とはいえ、むしろ一緒に入りたいぐらいだと言うのもそれはそれで問題がある。
そこでどう言い訳したのかはもうあまり覚えていないが、色々と屁理屈を並べて何とか受け入れてもらい、徐々に一緒に入る習慣はなくなっていった。ただ、その代わりとして、添い寝は続けてもいいという条件は付いてしまったのだが。
では、それから数年たった今の俺はどうだろう。
鈴と入浴するのは嫌だろうか。
嫌かどうかというだけで考えるのであれば、特別嫌だと思う理由は無い。しかしそれは、理性だけで考えた場合の話だ。
鈴は全体的に体つきは小さいが、数年前と比べてしっかり女性らしく成長している。そして、それに反応するなというのは無理な訳で。
結論を言ってしまえば、俺は鈴に嫌われたくないのだ。もう既に手遅れかもしれないが、気持ち悪いと思われたくなかった。
「……鈴のほうこそ、嫌にならないか?」
嫌じゃないのか。とは聞かなかった。そもそも風呂場に入ってきたのは鈴のほうなのだから、嫌なら最初から入ろうとは思わないだろう。だが、心境の変化はどんな状況でも起こり得る。
鈴は昔のように、兄妹として一緒に入浴したかっただけかも知れない。俺はそんな鈴の期待を裏切ってしまったのではないかと、それだけが気がかりだった。
「私は、大丈夫」
背中を洗い終わった鈴が俺の前に移動する。
「兄様は、どう……?」
「俺も……嫌ではないよ」
「ん……。前、洗うね」
◇◇◇◇◇
その後、体を洗ってもらった流れで、俺も鈴の頭と体を洗うこととなった。ただ、それだけ。兄妹がただ、一緒に風呂に入った。それだけの話だ。
鈴の体を洗い終わった後、風呂場の熱と上昇した心拍数の所為で軽い眩暈を覚えた俺は、一足先に風呂から出ることにした。
いつもより手早く着替えを済ませてリビングに行くと、母さんが缶ビールを片手にテレビを見ていた。
「ん、あれ、思ったより早かったね」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味。もう少し長風呂になるかなーってね」
「…………もしかして」
「いやいや、あたしは何もしてないよ? ただ、脱衣所の扉の前で着替え持ったまま立ち尽くしてた鈴の背中を、ちょーっとだけ押してあげただけだから」
「はぁ……勘弁してくれ……」
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