第19話『自分の気持ち』

 鈴の体調は、次の日の朝には大分回復していた。

 若干の体のだるさは残っているようだが、熱も下がり、念のため学校は休んだものの、夜には普段通り家事を行えるまでになっていた。

 長引く時は一週間近く体調を崩すこともあるため、今回すぐに持ち直してくれたのは純粋に嬉しかった。長引けばそれだけ鈴の体力も使うし、何より、鈴の体を拭いたりする看病は俺の精神衛生的にもよろしくない。


 きっと一度でも、義理の妹であるということに甘えて一線を越えたなら、もう引き返すことは出来ないだろうから。


 俺だって別に馬鹿ではない。鈴の俺に対する感情がただの兄弟愛だけではないだろうことには気付いている。

 それを鈴が自覚しているのかどうかは分からない。だが、まだ自覚していないのであれば、それはきっと自覚すべきではない感情だ。

 鈴はまだ高校生だ。きっとこれから先、色々な人と出会うだろう。可愛くて、優しくて、気遣いが出来て、家事まで得意な鈴のことだ。好きになってくれる人は沢山いる。

 そうして色々な人と出会えば、偶々兄妹になっただけの歳の離れた兄より、鈴にふさわしい人に出会えるはずだ。


 そのほうが、鈴も幸せなはずだ。


 きっと、そのはずだ。



 ◇◇◇◇◇



「ごめんね、すーちゃん。わざわざ付き合ってもらっちゃって」


「ん、平気」


 体調を崩し、2日休んだ後の登校日。その放課後に、鈴と彩花の二人はショッピングモールに足を運んでいた。

 カフェで新作のラテを飲んだり、様々なアパレルショップでウィンドウショッピングを楽しむという女子高生らしいこともしていたが、そもそもの目的は彩花の兄、佐藤一樹の誕生日プレゼントを買うことだった。

 一樹の誕生日は12月24日。クリスマスイブである。誕生日がクリスマスやバレンタインデーなど、物を贈る習慣のある日と近い場合、誕生日プレゼントと一纏めにされてしまうというのはよく聞く話だが、こと佐藤家に関しては、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントは分けて贈られていた。


「なに、買ったの?」


「ネクタイピン。兄さん来年から就活生だから、使ってもらえるかなって」


「ん、いいと、思う」


 鈴も過去に律への誕生日プレゼントとしてネクタイピンを贈ったことがある。律がスーツを着用する機会はそれほど多い訳ではないが、スーツを着るときには必ず贈ったネクタイピンをつけてくれている。


「実は、私が自分で考えた訳じゃないんだけどね。ネクタイピンを贈るっていうのは律さんのアイディアなんだ」


「兄様の?」


「うん。少し前から家庭教師の時に相談に乗ってもらってたんだ。これから使う機会も多いだろうし、自分が貰って嬉しかったからって」


「そう、だったんだ」


 音無家にも誕生日に物を贈り合う習慣はある。ただ、律は基本的に鈴が何を渡しても喜んでくれるため、もちろん律の気持ちに嘘があるとは思わないが、時折本当に喜んでくれているのか不安になることはある。しかし、彩花の話を聞く限り、誕生日プレゼントの案として挙げるぐらいには喜んでくれていたようだ。


「すーちゃんはもう、律さんにあげるクリスマスプレゼントって決めたの?」


「ん、キーボード」


「え……? キーボードって、あのパソコンで使うキーボード?」


「そう。今、使ってるやつが、古いから、新しいの、欲しいって」


「そっか。すーちゃん達ってお互いに欲しいものを聞いた上であげるもんね」


 こうした習慣になったのは律による部分が大きい。

 基本的に律は、サプライズ性よりも、相手が喜んでくれるかどうかという所を重視する。そのため、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、事前に鈴に何が欲しいかを聞いた上で贈るようにしており、鈴もそれに倣っている形だ。


「すーちゃんは、何が欲しいって伝えてるの?」


「まだ、悩み中」


 物を贈るのは簡単だ。相手が欲しいと言ったものを用意すればいい。その欲しいものが高価なものであれば苦悩もするが、律はそんなことを要求してこない。欲しいものに変わりはないのだろうが、いつだってそれは鈴が用意できる範囲のものだった。

 それに対し、自分が欲しいものを伝えるのは難しい。欲しいものが無い訳ではないが、あってもそれはわざわざプレゼントとして貰うほどのものかと言えばそうではない。もう冷蔵庫に野菜が無いから野菜を買ってほしいと言っても、それはプレゼントにならないだろうし、あまり安価なものを要求すると却って気を遣わせる。

 正直なところで言えば、鈴としては律が傍にいてくれるだけで満足であり、特別欲しいものも特にない。

 プレゼントになりそうな、普段は買わないような特別なもの。鈴にとっては相手に物を贈るより遥かに難問だった。


「私もクリスマスプレゼントに関してはまだ決まってないんだよね。すーちゃんみたいにケーキとか作れれば、それをクリスマスプレゼントって出来たんだけど」


「一緒に、作る?」


「……何も思いつかなかったらお願いしようかな」



 ◇◇◇◇◇



 買い物が終わった帰り道。最寄り駅に着いて、家までの道を雑談しながら歩く中で、これといった脈絡もなく、不意に彩花は話し始めた。


「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、いい?」


「……? なに?」


「すーちゃんは、律さんのこと、好き?」


「ん、好きだよ」


「なら、その好きは、家族として? それとも、男性として?」


「……どういう、こと?」


 そんなことは、今まで考えたこともなかった。というより、思いつかなかったと言ったほうが正しい。

 律のことを好きかと問われて、鈴は迷うことがない。好きに決まっている。しかしそれは、ただ好きで、ただ好きなだけだ。そこに家族としてや、男性としてといった意味付けはしてこなかったし、する必要もなかった。


「すーちゃんは、玲子さんのことも好きでしょ? その玲子さんに対する好きと、律さんに対する好きは、同じもの?」


 問われて、考えてみる。玲子も律も、当たり前にどちらも大好きだ。そこにある好きの差なんて考えたこともなかった。しかし、言われてみて、その好きにある差を考えてみると、確かに違う部分はあるような気もしてくる。けれどその差が何なのか、すぐには説明できそうになかった。


「私ね。多分、バレバレだと思うけど、にいさ――お兄ちゃんのこと、好きなんだ。もちろん兄として、家族として好きだって、思ってたんだけど……」


 先ほどまでより少しだけ小さくなった彩花の歩幅に合わせて、鈴は続きの言葉を待つ。


「お兄ちゃんの誕生日って、いつも家族で祝ってるからさ。お母さんがお兄ちゃんに言ったんだ。一樹もそろそろ彼女でも作ったら? って。お兄ちゃんも大学生だし、彼女ぐらいいても可笑しくないし、そのほうが普通なのかもしれない。

 けどね。私、その話を聞いてて、凄く嫌な気持ちになった。もっと言えば、お兄ちゃんに彼女が出来てほしくないって思った」


「…………」


「それで私、分からなくなっちゃって。今までずっとお兄ちゃんのことは兄として好きだと思ってたのに、違うかもしれないって。気付いちゃいけないことに、気付いちゃった」


 彩花のその告白に、鈴はどう返せばいいのか分からなかった。

 兄妹で結ばれることは出来ない。それが何故なのか理由は詳しく知らないけれど、とにかくダメなことは知っている。そしてそれが、義理の兄妹である律と鈴には適用されないことも。


「……どうして、私に、それを?」


「…………もしかしたら、すーちゃんも同じかもしれないって思ったから」


「同じ……?」


「自分の感情の、本当のところを知らないってこと。もし知らないのなら、教えてあげなきゃいけないって思ったの。考えるきっかけを作らなきゃって。

 すーちゃんと違って私は、自分の気持ちに気付いちゃいけなかった。気付いても、先には辛いことしかないから。でもすーちゃんは違う。きっと、気付かないままだと後悔すると思ったから」


「…………」


「……ごめんね! 変な話しちゃって。私の言ってることが全然意味分からないならそれでいいの。でもすーちゃんには、私みたいに後悔してほしくなかったから……。自分の気持ちを、よく考えてみて。伝えられたのに伝えられないって、きっとそれも、辛いことだと思うから」


 気付けば、そこは佐藤家の前だった。


「それじゃ、すーちゃん、また来週ね」


「……ん、あーちゃん、また」



 ◇◇◇◇◇



 私は一体、兄様のことをどう思っているのか。

 好きなことは分かってる。でもそれの意味なんて考えたこともなかった。


 私にとって兄様は、常に憧れの対象だった。

 頭が良くて、運動も出来て、頼れば必ず力になってくれる。

 お父さんの事故の後、一人では何も出来なくなってしまった私を、兄様は支え続けてくれた。今こうして私がある程度普通に生きていられるのは、兄様とお母さんのお陰だ。

 思えば、兄様のことを兄様と呼び始めたのもこの頃からだ。尤も、実際にそう呼ぶことが出来たのは私が話せるようになってからだったけれど、心の中では話せるようになる前から兄様と呼んでいた。

 何故そう呼び始めたのか、細かいことはもうあまり覚えていない。でも、多分、尊敬しているということを示したかったんだと思う。どうにかして、私が兄様のことを尊敬していると伝えたかった。その結果、幼い私が思いついた方法が様を付けて呼ぶことだったんだと思う。

 今ではもう、この呼び方が定着してしまったし、今でも尊敬していることに変わりはないから、呼び方を変える気はない。


 でも、そうだとすると、一つだけ不思議なことがある。

 何故兄様は兄様なのに、お母さんは母様じゃないんだろう。

 同じぐらい尊敬しているはずなのに、お母さんはお母さんのままだ。


 尊敬しているだけじゃない。もし私が、兄様を特別に思っているとしたら、それは何が理由なんだろう。

 あーちゃんは言ってた。一樹さんに彼女が出来た時のことを考えたら、嫌な気持ちになったと。

 私はどうだろう。兄様だって、彼女がいたっておかしくない。いやむしろ、あれだけ頼りになる兄様のことだ。彼女がいないほうが不自然と言っていい。もしかしたら、私が知らないだけで彼女はいるのかもしれない。


 彼女がいたら……それは、それは――。


 そこで私は気が付いた。

 今まで、兄様に対する気持ちの意味なんて、考えたことがなかった。

 兄様に彼女がいるかなんて、気にしたことがなかった。

 でもそれはきっと、考えなかったんじゃなくて、気にしなかったんじゃなくて、考えないようにしていただけだ、気付かないふりをしていただけだ。

 考えれば、苦しくなるのが分かっていたから。辛い想像と向き合わなければならないと知っていたから。

 考えたくなかった。今が幸せだから。わざわざそれを崩すようなことをしたくなかった。

 彼女がいると知れば、もう今までのようには甘えられない。

 いつまでも一緒にいられないと、分かってしまう。


 でも、本当に兄様のことを思うのなら、兄様に恋人がいるのだとしたら、それを喜んで、応援しなければいけないのだと思う。

 だって私は、兄様のことを縛り付け過ぎた。

 兄様の大切な、もう取り戻せない学生時代の時間を奪っておいて、これから先まで望むなんて、傲慢にも程がある。

 それは分かってる。分かってる。分かってる、けど。


 もう私の中にある気持ちは、兄様のためという大義名分をもってしても押さえつけられないところまで膨らんでしまっていた。膨らんでしまっていることに気付いてしまった。

 何もしなくても、きっと兄様はずっと兄様でいてくれる。でも、ずっと一緒にはいられない。

 10年後も、20年後も、30年後も一緒にはいられない。

 でも私は、40年後も、50年後も、60年後も一緒にいたい。


 例え結果として、兄様に拒絶されてしまったとしても。

 もう、この気持ちをなかったことには出来ない。


 兄様は、どう思っているんだろう。

 兄様にとっての私は、ただの妹? それとも、違う?

 どっちだとしても、別に構わない。その時は、兄様に好きになってもらえるように努力するだけだ。

 タイムリミットがいつかは分からない。もしかしたらとっくの昔に過ぎているのかもしれない。


 でも、確かめなきゃ。

 兄様にとっての私が、妹なのか、違うのかを。

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