第18話『看病』

 りんごを食べ終え、薬を飲ませると、鈴は素直に横になってくれた。本当は眠るまで付き添うつもりだったのだが、


「あさごはん、たべなきゃ、だめ」


 と病人に言われてしまえば、その言葉に従うしかなかった。


 キッチンまで行き、取り合えず炊飯器の中にご飯が残っているかを確認する。


「……流石に残ってたか」


 炊飯器の中にはお茶碗一杯分程度であろう白米が残されていた。昨日の鈴は自分も朝ご飯を食べるつもりで炊飯器のセットをしただろうから、母さんはいつもの量にプラスして、消費されなくなってしまった鈴の分まで平らげたという訳だ。きっと俺までもが体調を崩して朝ご飯を軽く済ませていたのなら、炊飯器の中に俺の分の白米さえも残されていなかっただろう。


「律の分、ちゃんと残ってるでしょー?」


 炊飯器の中を眺めていた俺に、いつもの日課を済ませて和室から出てきた母さんが声を掛ける。


「別に空になってるとは思わなかったけど。鈴がそんなに食べないとはいえ良く入るな」


「まあ、パンよりお米派だからね」


「そういう問題じゃないと思うけど」


「鈴がお昼に食べるかもしれないって、冷凍しとこうかとも考えたんだけどね? 体調を崩してる時こそ、一回冷凍したご飯じゃなくて、炊き立てのほうが良いかなと思って。律もいることだし」


「まあ、昼はお粥作るつもりだったし、仮にご飯が残ってたとしても使わなかっただろうけど」


「でしょ? ま、とにかく今日は一日、鈴のことお願いね。あと、何かあったらすぐに電話すること。いい?」


「分かってるよ」


「じゃ、そういうことで。いってきまーす」


「いってらっしゃい」



 ◇◇◇◇◇



 朝食を食べ終えて部屋に戻ると、鈴は眠っていた。本当に体調が悪いときなどは、体の痛みや気持ち悪さで眠ることすら難しかったりするものだが、鈴の寝顔を見る限り、そこまで酷くはなさそうだ。

 鈴の額に触れてみると、体温計を使うまでもなく発熱していることが分かる程度には熱を持っていた。


「早く下がるといいな……」


 少し乱れていた前髪を整えてあげる。髪は少し汗で湿っていた。


「濡れタオル持ってくるか」


 アニメや漫画で見たりする、濡れたタオルを額に置く行為にどれだけの意味があるのかは分からないが、少なくとも汗を拭きとって吸収するぐらいの役には立つだろう。

 洗面所からハンドタオルを一枚持ってきて水道水で濡らす。冬にもなると、ただの水道水でも手が痛くなるぐらい冷えているが、熱を持った体には丁度いいだろう。

 ひたひたになるまで濡らしたタオルを絞って、部屋に戻る。


 額に張り付いた髪の毛を手で上げて、優しく汗を拭っていく。


「ん、ぅ……?」


「悪い。起こしちゃったか」


「……たお、る?」


「汗を拭こうと思ってさ。冷たくないか?」


「ん、きもち、いい」


「そうか」


 顔を拭いた後は首の辺りや、腕も拭くことにした。本当は全身を拭いたほうがいいのだろうが、それは母さんが帰ってきてから頼むことにしよう。


「昼はお粥でも作ろうと思ってるんだけど、食べたいものとかあったりするか?」


「おかゆで、だいじょうぶ」


「味は何が良い?」


「じゃあ、うめぼし、で」


「了解」


 まだ冷たいタオルを鈴の額に置く。


「ちょっと家事済ませてくるよ」


「ん、ありがと、にいさま」



 ◇◇◇◇◇



 洗濯物を洗濯機に放り込み、洗濯終了までの空き時間に皿洗いと掃除機もかけることにする。それらが終わる頃には洗濯も終わっているため、洗濯物を外に干して一先ずは終了。

 言葉にしてしまえばたったこれだけのことなのだが、やってみると時間もかかるし体力も使う。これを毎日一人でこなすというのは大変だと、何度目か分からない感想を抱きつつ、洗濯物を干し終われば既に時刻は12時前。


 炊飯器にお粥の分量で水と米を入れてスイッチオン。

 取り合えずやるべきことが終わり、リビングのソファーに座って少し休憩をしていると、鈴が2階から降りてきた。


「どうかした?」


「ん、目が、覚めちゃった、から」


「そうか。体調はどう?」


「少し、寒い、ぐらい」


 鈴の首元に触れてみると、確かに少し熱は下がったようだった。ただ、これまでの経験から思うに、これは薬のおかげで一時的に熱が下がっているだけだ。過去には夜になってからまた熱が上がり始めたこともあるし、安静にしておくに越したことはないのだが、一日寝ているだけというのもつまらないだろう。


「今、お粥の準備してるんだ。まだ炊けるまでかかるんだけど、テレビでも見るか?」


「ん、見る」


 鈴は俺の横にくっついて座ると、ソファーの端に常に置いてある毛布を持ってきて、自分自身と俺に掛けた。


「エアコンの温度上げようか?」


「大丈夫。くっついてれば、あったかいから。兄様が、暑い、なら、離れる、けど」


「大丈夫だよ」


 身を寄せてきた鈴と、毛布の下で腕を絡ませるようにして手を握り、ただひたすらそのままで、特別なことは何もせず、お粥が出来上がるまでそうしていた。



 ◇◇◇◇◇



「37.7℃か。またちょっと上がってきたな」


 夕食後、改めて鈴の体温を測ってみると、昼間よりも少し上がっていた。予想通りではあるが、こんな予想はあまり当たってほしくはない。昼間よりも体のだるさが強いようだし、風呂はやめておいたほうがいいだろう。


「ちょっと待っててくれ」


 一階に降りると、母さんはリビングでテレビを見ていた。


「母さん、鈴が風呂入るのきつそうだから体を拭いてあげてほしいんだけど」


「んー? それは別にいいんだけど」


「いいんだけど?」


「律がやってあげるのじゃダメなの?」


「…………は?」


 一体この人は何を言っているんだろう。


「いや……それはダメだろ」


「なんで? 鈴が嫌だって言ったの?」


「そうじゃないけど、今までだって母さんがやってた訳だし――」


「今までどうだったかっていうのは、新しいことを始めない言い訳にはならないのよ? それに、鈴だって律にしてもらったほうが嬉しいんじゃない?」


「いや、それは……分からないけど」


「いいから鈴に聞いてみなさいな。お湯は沸かしといてあげるから」


「……分かったよ」


 どうしてこんな話になった?

 今までは鈴が体調を崩し、風呂に入れそうにない場合は母さんが鈴の体を拭いていた。それが普通で当たり前だった。

 だって普通そうだろう。風呂に入れない代わりに体を拭くというのは、風呂上がりの鈴の髪を乾かすために拭くのとは訳が違う。もし鈴がまだ小さな子供だったのなら話は別だったとは思う。実際数年前までは一緒に風呂に入ることもあった。ただそんな習慣は、鈴が中学生になってから暫くして、自然となくなっていった。それが当たり前で、正しい成長というものだろう。

 だからきっと、鈴は拒否してくれるはずだと、そう願う反面、拒否された時のことを考えると沸き起こる嫌な気持ちがあることを、俺は無視できなかった。


 部屋に戻ると、鈴はベッドの上で座って漫画を読んでいた。


「にいさま……?」


「あー……その、なんというか」


 なんて説明すべきか迷った結果、俺はありのまま母さんとの会話を鈴に伝えることにした。


「――つまりその、鈴はどっちに体を拭いてほしい? 俺か母さん、好きなほうを選んでくれ」


 鈴の意思を尊重するという建前の、自己決定の放棄だった。鈴がどんな答えを返してきても、なるべく自分が傷つかない方法を選んでしまった卑怯者だ。


「……にいさま、は、いやじゃ、ない……?」


「鈴が嫌じゃないんなら、俺に断る理由はないよ」


 嘘だ。断る理由がないのなら、こんな遠回しな聞き方をする必要なんてなかった。看病だと割り切れたのなら、鈴に判断を委ねるようなことはなかった。鈴にこうして聞いている時点で、鈴の体を拭くという行為を看病だと割り切れないと白状しているようなものなのだから。


「……なら、にいさまが、いい」


「…………分かった」


 拒絶と承諾。どちらが良かったかなんて、もう俺には分からなかった。



 ◇◇◇◇◇



「ね? だから言ったでしょ?」


「聞いてたの……?」


 階段を下りてきた俺に、母さんはそう声を掛けた。


「いんや。聞くまでもないことだからね。はいこれ、タオルとお湯と桶。それと鈴の着替えね」


「こういうときだけ手際が良い」


「当たり前でしょ。あーそれと、分かってると思うけど、今の鈴は病人なんだから、襲っちゃダメよ? そういうのは回復してからね?」


「…………っ。襲わねえよ!」


 ニヤニヤしている母さんに見送られながら、俺は部屋に戻った。


「お待たせ」


「なにか、あった……?」


「何でもないから気にしないでくれ」


 それで納得したのかは分からないが、鈴はそれ以上何も聞いてこなかった。


「えっ、と、それじゃあ、服、脱いでくれるか?」


「……ん」


 その間に俺は、やかんに入ったお湯を桶に移して温度を確認する。母さんが用意した物ということもあり、温度は完璧だった。本当、やりさえすればなんでも出来る人なのだが。

 服を脱いでいく音が隣から聞こえるが、意識的にその方向を見ないようにして、タオルにお湯をしみ込ませていく。

 しかし当然、いつまでもそんなことを続けていられる訳もなく。

 タオルをよく絞って、鈴のほうを向いた。


「…………」


 そこには、文字通り一糸纏わぬ姿の鈴がいた。

 服を脱いでくれ、と言えばもしかしたら下着は付けたままでいてくれるのではないか。そんな願いは全くもって届きはしなかった。


「……じゃあ、うつ伏せになってくれるか?」


「ん……」


「熱かったら、言ってくれ」


 出来るだけ、何も考えないように。そう考えてしまっている時点で既に手遅れではあるのだが、可能な限り平常心を装って、鈴の肌にタオルを滑らせていく。

 鈴の肌に触れることなんて、それこそ珍しいことではない。昼間だって手を握った。でもそれとこれとは話が別だ。

 発熱しているため触れただけで分かる程度には熱を持った身体。汗の所為か普段よりもしっとりしているその肌の感触を、日常と捉えることは俺には出来なかった。


「寒かったり、しないか?」


「ん、だいじょうぶ、きもち、いい」


 首から背中、腕を拭き終わる。

 全身を拭くというのは、文字通り全身なのだから、ここで終わるわけにはいかない。変に意識して手付きが変わっても気持ち悪いだろうと、腕や背中に触れるのと同じように拭いていく。


 鈴は小柄で痩せているが、そうは言っても体つきはしっかりと女性だ。肌の手触りも、柔らかさも、何もかも男の自分とは違う。


「んぁ……」


「冷たかったか?」


「ううん、ちょっと、くすぐったかった、だけ」


「……そうか」


 太もも、ふくらはぎ、足首、足裏。上から順番に拭いていき、足先まで拭き終わった。つまり、うつ伏せになった状態ではこれ以上拭く場所がないという訳だ。

 すると鈴は、まだ俺が何も言っていないのに、拭き終わったことを察してか自ら仰向けになってくれた。


「…………っ」


「……はぁ、……ん、はぁ……」


 鈴の胸が呼吸に合わせて上下する。少し荒いその呼吸が風邪によるものなのか、それとも別の理由なのか、俺には判断が付かなかった。


「にい、さま……?」


「あ、ああ……悪い。拭いていくな」


 うつ伏せだったが故に拭けていなかった体の前面を拭いていく。

 下着をつけていた所為か、胸元は他の場所より汗をかいているようで、少しだけ赤くなっていたため、意識的に優しく拭いていく。

 布越しに感じる柔らかさも、決して初めてという訳ではない。添い寝しているときなどは意識せずとも触れることがあるし、布越しという意味ではそれらの時と何も変わらない。変わらない、はずだ。


「ん……ふ、ぅ……は、ぁ……」


 鈴の鼻から漏れ出るように聞こえてくる声は出来る限り意識しないように、看病だと自分に言い聞かせて拭き続ける。


 上半身を拭き終わり、残すは下のみ。変に時間をかけると意識してしまいそうだったので、うつ伏せだったときと変わらず、同じ手付きで拭いていく。


 上から順に、焦らず、丁寧に。


 時折鈴の体がピクッと小さく跳ねるが、俺も鈴も何も言わなかった。


「………………」


「………………ぁ……ふ、っ……」


「………………はい。おしまい」


「ん……ありがと、にい、さま……」


「いいよ。体が冷える前に服着な。俺は片づけてくるから」


「ん……」


 鈴に着替えを手渡し、その代わりに今まで鈴が着ていたものを受け取り、体を拭くために使った道具を持って部屋を出た。


 部屋を出て扉を閉めた後、思わず扉に寄りかかる。


「――――はぁ……………………」


 心臓の音がやけに煩かった。

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