第17話『先』

 普段はあまり開けることのない野菜室を覗く。最近買い物に行ったばかりということもあって、冷蔵庫の中はそれなりに充実していた。

 りんごやみかん。ぶどうに梨。色々と選択肢はあるが、まぁ、ここは無難にりんごでいいだろう。

 りんごを一つ取り出して、包丁で皮をむく。りんごの皮むきなんて最後にやったのがいつだか覚えていないが、案外体はやり方を覚えているもので、想像していたよりスムーズにこなすことが出来た。


「律~、おかわり~」


 りんごを食べやすい大きさに切っていると、既に自分で用意した朝食を食べている母さんから声を掛けられた。母さんの手には空になったお茶碗があった。


「それぐらい自分でやってくれ」


 因みに、米自体は前日の夜に鈴が炊飯器を仕掛けておいてくれたおかげで、問題なく炊けている。


「はいはい。全く、律も鈴も互いのことが最優先なんだから」


「元気な母親と病気の妹だったらそりゃそうなるだろ」


「そうじゃなくて。最近は輪をかけて仲が良いってことよ」


「別に鈴と仲が悪かった期間なんてないと思うけど」


「でも、毎日一緒に寝たりするほどじゃなかったでしょ? 生活が鈴中心になってる。戻ってる、って言ったほうが近いかな。まぁ、あの頃よりずっと平和な状態ではあるけどね」


「……やっぱり、少しは自重するべきかな。甘やかしてるつもりはないんだけど」


「え? あははっ、何を言い出すかと思えば。今のままでいいのよ。ううん、むしろもっと先に進んだほうが、鈴としては嬉しいかもしれないわね」


「先……って」


「先は先よ。恋愛におけるABCとかって聞いたことない?」


「恋愛って。俺と鈴は兄妹だよ」


「でも血は繋がってないでしょ。それで? もうキスぐらいはしてたりするの?」


「してないよ。なに? 母さんは俺と鈴に結婚してほしいの?」


「んー。それは少し違うかな。あたしは律と鈴に幸せであってほしいだけ。その形は何であろうと構わない。結婚っていうのも、選択肢の一つかなとは思ってるけど」


「…………」


 母さんは自分でお茶碗にご飯を好きなだけ盛ると、俺の背中を叩いてから席に戻っていった。


「ほら、切り終わったんなら早く鈴に持って行ってあげなさいな」


「……分かってるよ」


 切り終わったりんごを皿に乗せて、フォークとさっき出しておいた風邪薬の瓶も持って、鈴の待つ部屋へ向かった。



 ◇◇◇◇◇



「お待たせ、鈴」


 鈴は先程までと同じように、ベッドの上で体を起こして座っていた。


「りんごにしたんだけど、良かったか?」


「ん、りんご、すきだから」


 鈴にりんごの乗った皿とフォークを渡す。


「にいさま、ごはん、は?」


「後で食べるよ」


「ちゃんと、たべて、ね?」


「分かってる」


 母さんが一体どれだけ白米を食べるかは分からないが、少なくともお茶碗一杯分ぐらいは残してくれているだろう。多分。

 鈴がりんごを食べ終わるまでは特にすることがなく、何となくりんごを食べる鈴を眺めていた。

 鈴の一口の大きさを考えて切り分けたりんごが、ひとかけらずつ鈴の口の中へ消えていく。


『もうキスぐらいはしてたりするの?』


 不意に母さんの言葉が脳裏によぎった。

 してる訳ないだろ。と心の中で意味もなく呟く。

 鈴だってもう高校生だ。日中のほとんどを学校で過ごしている訳だし、好きな人がいたって何もおかしくはない。

 というか、何で俺は鈴に恋人がいない前提で考えているんだろう。

 恋人が出来たとか、好きな人がいるとか、そういった話を鈴としたことはないし、休日にデートに行っているような様子はないが、高校生とはいえまだ子供だ。周りに交際の事実を隠したいと考える子も少なくないだろう。鈴もそうじゃないとは言い切れない。


 どちらにせよ、鈴に恋人がいようといなかろうと、そうした普通の恋愛のほうが、きっと、正しいはずだ。

 俺が鈴の兄として望んだ、普通の生活を鈴が送れるように、というのは、きっと、そういったものだったはずだ。


「……にいさま?」


「ん、どうした?」


「ずっと、みてるから」


「ああ、悪い。食べにくいよな」


「…………あ」


 何かを思いついたような様子の鈴は、あと少しになったりんごのかけらの一つをフォークに刺し、こちらに差し出してきた。


「あーん」


 いや、別にりんごが欲しくて見てた訳じゃないんだが。


「……にいさま?」


「じゃあ……貰うよ」


「ん。……おいしい?」


「……ああ。美味しいな」

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