第15話『母親』
日曜日。午前8時。
シャワーを浴びて身だしなみを整え、リビングで鈴の支度が終わるのを待っていた。
今頃鈴は来ていく服を選んでいるところだろうか。よく女性の支度には時間がかかると言うが、我が家の女性陣に限ればそれは当てはまらない。我が家で一番支度に時間がかかるのは鈴だが、その鈴でも0から支度を始め、出掛けられるようになるまで1時間も掛からない。母さんに至っては10分程度で準備を終えるので、恐らく俺よりも早い。普段はだらけているくせに、そんなところだけは妙に手際が良いのだ。
しかし、今日は日曜日、つまりは休日で、9時ごろにはお腹を空かせて目覚めてくる母さんも、普段であれば8時はまだ寝ている時間だ。
だが今日は、既に母さんは目覚めていて、俺と同じソファーに腰かけコーヒーを飲んでいた。それは、今日が普段とは違う休日ということの表れだった。
「……ごめんね、律」
「どうしたの急に」
「いや、ね……あたしって親失格だなぁって思っちゃってさ」
「……仕方ないだろ」
「仕方なくない。あたしは律と鈴の母親で、いい歳した大人なんだから。自分の感情ぐらいコントロールできなきゃいけないのに……ね」
「そういうなら、俺だってもう大人だ。俺の代わりに母さんが全てを知ってくれているように、母さんの代わりに俺があの人と会ってくるよ」
母さんはふっと小さく笑うと、俺の肩を抱き寄せた。
「親からすれば、何歳になっても子供は子供なのよ。でもね……ありがとう。鈴のこと、よろしくね?」
「任せてくれ」
グッとコーヒーを飲み干した母さんがソファーから立ち上がる。丁度そのタイミングで、鈴も二階から降りてきた。
「おまたせ、兄様」
「よし、それじゃあ行くか」
心の中で気合を入れ直す。
ここから先は、極力自分の感情は出さないように。
鈴のことを、悲しませないように。
「お母さんに会いに」
◇◇◇◇◇
最初に連絡が来たのは、1年ほど前のことだ。
母さんの職場に、立花慎一宛てで一通の手紙が届いた。
もちろんその手紙が届いた時には既に義父さんは死んでいて、よってその手紙は妻であった母さんに渡された。
手紙の送り主は、沼上麻由美。鈴の実の母親からの手紙だった。
内容は当たり障りのない近況報告。そして、もし良ければ鈴と会わせてはくれないか、といったものだった。
その手紙を受け取った母さんは、俺だけにそれを知らせ、まずは俺と母さんでその人と会うことにした。
沼上麻由美は40手前の年齢で、母さんよりも歳下とのことだったが、年齢以上に見た目は老けて見えた。
ぱっと見の印象としては、この人が本当に鈴や義父さんに対して暴力を振るっていたとはとても思えなかった。しかしそれは、見た目ではそう感じたというだけで、事実として裁判で執行猶予付きの有罪判決を受けているのだから、覆しようもなくそれは事実なのだ。
会話の内容は、これまでの生活と、鈴への謝罪、そして許されるのなら鈴と合わせてほしいといったものだった。
実のところ、俺は鈴が母親にどんなことをされていたのかを知らない。虐待を受けていたという事実のみは知っているだけで、その詳細については鈴にすら聞いたことはない。きっとそれは、わざわざほじくり返すようなことでもないだろうし、もちろん鈴から話してくれるのであれば全て受け止めるつもりだが、鈴が話さないのであればこちらから聞くこともないと思う。
しかし、母さんは違う。
母さんは、全てを知っている。そんな母さんが、はい分かりましたと鈴と沼上麻由美が会うことを許す訳はなかった。
その場での話し合いでは結論は出ず、その後母さんと沼上麻由美との間に複数回行われた話し合いにより、鈴の意思を尊重しようという話に纏まった。
実の母親に会いたいか? その問いに鈴は、会ってみたいと答えた。
鈴がそういうならと、母さんは沼上麻由美に電話を掛けた。鈴と会えることを感謝している沼上麻由美に対し、電話を切る間際、母さんが言った言葉は今でも鮮明に覚えている。
『鈴があんたを母親だと言っているうちは、あたしもあんたを鈴の生みの親として認識する。鈴を産んでくれたことに関しては、感謝してるからね。でも、鈴がもうあんたのことを母親じゃないと言ったなら、もう二度とあたしと、あたしの子どもたちの前に姿を見せないと誓え。鈴は、あたしの子どもだ』
声を荒げてこそいなかったが、母さんがあそこまで怒りの感情を露わにしているのを見たのは、あれが最初で最後だったと思う。
それから、数か月に一回のペースで沼上麻由美と会うようになった。
ただしもちろん、鈴と沼上麻由美を二人きりで会わせる訳にはいかないため、俺も付き添うことになっている。
日程、場所、時間帯は全てこちらが決め、都合が合わない場合は予定はキャンセル。どんな状況であれ、鈴と沼上麻由美を二人きりにしないこと。少し過剰に思えるかもしれないが、これが母さんが沼上麻由美と鈴が会うことを許す条件だった。
◇◇◇◇◇
約束の時間まであと5分と言ったところで、俺と鈴は待ち合わせ場所に到着した。沼上麻由美は、既に待ち合わせ場所で俺たちのことを待っていた。
「お待たせしました。麻由美さん」
「あ、律くん、鈴。久しぶりね、元気だった?」
「うん、お母さんも、元気、だった?」
「ええ。ちょっと仕事は忙しいけれどね。立ち話もなんだし、歩きましょうか? 目的のショッピングモールってここから近いのよね?」
「はい。この道を真っ直ぐです」
「じゃ、行こ?」
鈴と沼上麻由美が並んで歩く少し後ろを付いていく。
今日は大型商業施設で買い物の後、カフェで昼食を取って解散の予定だ。
こうして実際に会って話してみても、やはり沼上麻由美が夫や娘に暴力を振るうような人には見えない。反省し心を入れ替えたというのは、きっと嘘ではないのだろう。
しかし、いくら反省していたとしても、犯した罪は消えたりしない。一度罪を犯した人は、どこまでいっても一度罪を犯した人であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
もちろん、犯罪者は何があっても許されるべきではないとは思わない。人である以上過ちを犯すことはあるだろうし、正しくそれを償った人は許されるべきだろう。
ただ、犯した罪の被害者たる鈴の家族としては、兄として鈴を守ると決めた自分個人の感情としては、そう簡単に割り切れる訳もなかった。
「……兄様?」
「……何でもないよ。危ないから前見て歩きな」
◇◇◇◇◇
買い物中の行先はほとんど鈴に委ねられている。服屋、雑貨店、本屋などを回り、それらで購入した物の代金は、全てではないものの沼上麻由美にも支払ってもらっている。なぜ全ての代金を支払ってもらっていないのかと言えば、母さんが沼上麻由美に借りを作るのを良しとしなかったからだ。
ショッピングは大きなトラブルが起こることもなく、正午を過ぎたあたりでそろそろ昼食にしようということになった。
昼食は予定通りショッピングモール一階にあるカフェで取ることにした。カフェというとあまり食事を取るには向いていないように思えるが、全国展開しているこの店はメニューがとにかく大きいことで有名で、俺でも満足できるほどのボリュームを誇る。鈴には少し量が多すぎるので、今日もシェアして食べることになるだろう。
「鈴は何にする?」
「ん……じゃあ、エビカツサンド、で」
「麻由美さんは?」
「私は……小倉トーストにしようかしら」
「分かりました」
鈴が頼んだエビカツサンドを半分ぐらい食べることを考えると、量が多いものは頼めない。
自分の注文はミニサンドに決めて、店員を呼ぶ。
注文を終えると、鈴が席から立ち上がった。
「お手洗い、行ってくる」
「ああ、いってらっしゃい」
「あ、それじゃあ私も行こうかしら」
「すいません麻由美さん。ちょっと話があるので、少しだけいいですか? 鈴、先行ってきな」
「ん……」
沼上麻由美を引き留め、鈴が席から離れていくのを見送る。
「それで、律くん。話って?」
「いえ、別に何か用があった訳じゃないんです。ただ、貴女を鈴と二人きりにする訳にはいかなかっただけですから」
「……そう。やっぱり、信用されてないのね」
「それは、自分が信用されるはずがないという自覚があっての言葉ですよね?」
「……ええ。本当に、申し訳ないとは思っているの。大切なことは失ってから気付くって言うけど、過去の私がどうして鈴にあんなことをしていしまったのか。私は……鈴に――」
「――やめてください。貴女が今、何を言おうとしているのかは知りません。ただ、何故今この場に母さんではなく俺が来ているのか。貴女が鈴にしていたこと全てを知っている母さんではなく、詳細を何も知らない俺が来ているのか、その意味をよく考えてください」
「…………ごめんなさい。でも、私の偽らざる本心でもあるの。幸せな鈴を見ていると、可能ならばやり直したいって」
「貴女のその感情は、猫カフェで猫と戯れただけで猫を飼いたくなってしまう無責任な子供と同じです。楽しく幸せな部分しか見ずに、世話にかかる苦労や大変さは何も考えていない。
貴女は鈴が普通の生活を取り戻すためにどれだけ辛い思いをしたか何も知らない。貴女はもう既に一度、子を持つ者が負うべき義務と責任から逃げたんですよ。そんな貴女に、今の鈴の幸せを語り、享受する資格なんてないんです」
少し、言い過ぎたかもしれない。そう認識できるほどの冷静さを取り戻した頃には、言葉は手の届かないところまで放たれていた。
本当は、ここまで言うつもりはなかった。
ただ、今この場に鈴がいないことで、心のブレーキが外れてしまった。
俺は今日一日、自分の気持ちを表に出してはいけないはずだったのに。
「……ただいま。どうした、の?」
「……ううん。何でもないの。お手洗い、行ってくるわね」
沼上麻由美は指で目尻を拭うと、席を立った。
◇◇◇◇◇
昼食後、駅まで行動を共にすることもなく、俺たちと沼上麻由美は別れた。これは、今日に限ったことではない。自宅の住所はもちろんのこと、ここに来るまでに使った路線までも、沼上麻由美に教えるつもりがなかったからだ。
あの後、お手洗いから戻ってきた沼上麻由美は、まるで何事もなかったかのように、鈴の母親として振舞い続けた。あの人のことを尊敬することはこれまでもこれからもないだろうが、その点に限って言えば、沼上麻由美は俺よりも大人だった。
帰りの電車内。朝から動き続けていたことや、昼食後の満腹感からかウトウトとしている鈴に肩を枕として提供しながら、先ほど沼上麻由美に対してはなった言葉を少しだけ後悔していた。
沼上麻由美を鈴に会わせることに対して、母さんと沼上麻由美の間にどのようなやり取りが行われたのか、俺は全てを知っている訳ではない。しかし、母さんが様々な制約を付けた上で、鈴の意思を尊重しようという形に話が纏まったのだから、母さんにそう思わせるだけの誠意を沼上麻由美は見せたのだろう。
凶悪な犯罪者でもない限り、一度過ちを犯したのだとしても、更生しそれを態度で周囲に示せるのであれば、きっとそれは許されるべきだ。しかし、それはそれとして、俺が沼上麻由美に放った言葉は、紛れもない俺の本心であるし、後悔はしても冗談だと撤回する気はない。
だが、例え本心だったとしても。もっと何か手段を選ぶことは出来たのではないか。言葉を選ぶことは出来たのではないか。そう思わずにはいられなかった。
だからこそ俺はまだ、子供なのだろう。
『次は――――』
降車駅が次であることを告げるアナウンスを聞き、俺は隣で眠る鈴を起こした。
◇◇◇◇◇
「兄様は……」
最寄駅からの帰り道。不意に鈴は口を開いた。
「兄様は、お母さんのこと、嫌い?」
一瞬、足が止まる。しかし、そんなことはなかったかのように、優しい鈴なら俺の動揺を見逃してくれることを祈って、意識して同じ速度で歩き続ける。
「……急にどうしたんだ?」
問いには答えず、聞き返す。質問に質問で返す奴は馬鹿だと言うが、きっと今の俺は馬鹿だった。
ここで表情も変えずに嘘を吐けたのなら、どれだけ楽だろう。
「教えて?」
答えてと命令されたのなら、もっと楽だったのに。
「……好きとは、言えない」
「そう、だよね。知ってる」
鈴は優しいが、馬鹿じゃない。俺も母さんも、そんな態度を鈴の前では出さないようにしているが、沼上麻由美に会う場に母さんが来ない理由なんて、少し考えれば分かってしまう。
「実は、ね。私も、お母さんのこと、そんなに、好きじゃ、ない」
「え……?」
しかし、その言葉は予想外だった。
「なら、どうして……?」
「きっと、お母さんは、誰にも、許してもらえない。お父さんにも、お義母さんにも、兄様にも。でも、きっと、それじゃダメだと、思うから」
鈴が手を握ってくる。
「お母さんも、お義母さんも、どっちも、私にとっては、おかあさん、だけど。今の、音無鈴の母親は、音無玲子、だから。
お母さんは、もう、私のお母さんを、やめて、いい。お母さんが、私に縛られ続ける、のは、お母さんのために、ならないと、思う、から」
鈴に手を、ぎゅっと握られる。
「私が、お母さんを、許してあげれば、きっと、お母さんも、お母さんを、やめられると、思うから。
……もう、少しで、許せると、思う。だから、兄様」
鈴は立ち止まって、じっと俺の顔を見つめた。
「お願い。もう少し、だけ、力を、貸して」
「…………分かった。鈴が、そうしたいと思ったなら」
きっと、俺は許せない。おそらく、母さんもそうだろう。
でも、鈴は俺や母さんが考えているよりもずっと強くて、しっかりと自分の足で、自分の意思で、前に進もうとしている。
なら、兄である俺がすることは、妹が転んでしまわないよう、支えてやることだけだ。
「いくらでも、力を貸すよ」
既に日が傾き始めた冬の空。家までの道を、鈴と手を繋いだまま歩いた。
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