第14話『耳かき』

 その日、俺が帰宅したのは午後3時過ぎのことだった。

 俺が通っている大学だけなのか、それとも大半の大学はそうなのか、交友関係が広くない俺にはあまり分からないが、大学3年の後期にもなると、卒業に必要な単位は取り終わっている場合が多い。そのため、大学の知り合いの中には、数か月姿を見ていないような人も少なくはない。

 実際、俺自身も卒業に必要なだけの単位は取り終わっており、卒論さえ書くことなく家でゴロゴロしているだけでも卒業出来なくはないのだが、決して安くない学費を母さんに払ってもらっている以上、大学で学べることは出来るだけ学ぼうと思っている。

 しかし、単位取得のためにあまり興味のない講義を入れていた1年や2年の頃とは違い、どうしても興味のある講義だけを取るようになっているのも事実。だからこそ、昼前に家を出たにもかかわらず、午後3時過ぎには家に帰ってくるという状況になっているのだ。

 今朝母さんに言われた、


『大学生は時間があって羨ましいですなぁ』


 という言葉には、全くもって間違いがなく、反論の余地など一片たりともありはしないのである。


「……掃除でもするか」


 我が家の家事は基本的に鈴が全て受け持っているのだが、平日など朝に家事を行う時間がない場合は、鈴が学校から帰ってきてから家事をこなしている。

 掃除といっても俺に出来るのは掃除機をかけることぐらいなのだが、やらないよりは負担を軽減できるだろう。


「さて……掃除機どこだったかな」



 ◇◇◇◇◇



 夕食を食べ終え、風呂にも入り、さて後は寝るだけなのだが、まだ日付が変わっていない程度の時間ということもあり、特に理由もなくテレビを見て時間を潰していた。

 普段我が家の入浴順番は、最初が俺、次に鈴、最後に母さんとなっており、現在は母さんが入浴中。ドライヤーの音が聞こえるので、鈴は洗面所で髪を乾かしているところだろう。

 鈴が洗面所から出てきたら一緒に部屋に行って寝ようと、何となく眺めていたテレビを消す。鈴が出てきたのはそのすぐ後だった。


「あ、兄様。もう、寝る?」


「うん、そのつもりだけど」


「なら、その前に」


「……?」


 鈴は薬などが入っている引き出しを開け、ごそごそと何かを探している。少しして目的の物を見つけたのか、鈴は取り出したものを持ったまま、さっきまで俺が座っていたソファーに腰を下ろした。

 鈴が手に持っていたのは、綿棒だった。


「耳かき、しよ?」



 ◇◇◇◇◇



「兄様」


 ポンポンと自分の太ももを叩く鈴。鈴が俺の、俺が鈴の耳掃除をすること自体は以前から定期的にあり、その時の姿勢はいつも決まって膝枕だった。まぁ、誰かに耳かきをするにあたってその姿勢が一番手軽でやりやすいことは分かるし、普段から一緒に寝ておいて何をいまさらといった感じだが、膝枕は添い寝とは違う気恥ずかしさのようなものを感じる。自分が鈴にする分には何も思わないのだが、いざ膝枕をされる側になると、鈴に子ども扱いされているような気分になりむず痒くなる。


「は、や、く……っ」


「……はいはい」


 ごねたところで膝枕をやめてくれる訳もないので、潔く鈴の太ももの上に頭を乗せる。元から体温が高めな鈴だが、風呂上がりということもあってか、パジャマの布越しに伝わる熱がいつもより高いような気がした。


「どっちからに、する?」


「じゃあ、右からで」


 特に右からにした理由は無いが、強いて言うならいきなり鈴のほうを向いて耳掃除をしてもらうのが恥ずかしかったのかもしれない。

 視界に映るのは黒い板と化したテレビ。こんなことならテレビをつけたままにしておくべきだった。

 ゴソゴソと耳の中で綿棒が動く音が聞こえてくる。

 数年前。初めて鈴が耳掃除をしてあげたいと言ったときは、鈴も俺もかなりおっかなびっくり進めていたものだが、何年も続けていれば手慣れたもので、鈴の手付きに不安は一切感じられない。


「前から、思ってたんだけど」


「ん?」


「これって、膝枕、って、言うよね?」


「そうだな」


「でも、どちらかと、言えば、太もも枕、じゃない?」


「まぁ、確かに」


「なんで、膝枕……?」


「膝って言葉は、太ももの前面も含む言葉なんだよ。膝に手をつく、って言うけど、あれもどっちかと言えば太ももだろ?」


「確かに……」


「体の部位を示す日本語って、結構広い範囲を表すことが多いんだよ。腕時計とかも、正確に言えば手首時計だしね」


「兄様は、なんで、そんなことまで、知ってるの……?」


「さぁ……なんでだろうな……」


 まぁ、何故知っているかと聞かれれば、昔同じような疑問を感じて調べただけのことなのだが。

 これはもう性格といっていいだろう。何か疑問を抱けば些細なことであっても調べてみたくなってしまう。決して雑学王になろうとか、物知りだと思われたいとかそういうことではなく、疑問を疑問のままにしておくのが気持ち悪いだけなのだ。

 その結果、ジャンルも系統もごちゃごちゃになった自室の本棚が形成されたという訳だ。


「ん、右耳は終わり。逆、向いて?」


 鈴に言われるまま逆を向く。

 今までテレビが見えていたということは、つまり鈴に背を向けた状態だった訳で、そんな状態から逆を向けば、当然目の前には鈴のお腹が見える。もちろん服を着ているから直接肌が見える訳ではないが、パジャマ自体が薄手なため、呼吸によって動いているのは布越しにもわかる。


「兄様、もっと、寄って」


 ぐいっと頭を動かされ、ほとんど鈴のお腹に顔を押し付けているような状態になる。まあ、離れられるとやりにくいのは分かるが、少しは俺の心情も把握してほしい所ではある。

 こんな時はもう目を瞑って終わるのを待つに限る。


 いつもなら添い寝をする際にだけ感じる鈴の匂い。それに加えて耳かきの心地よい感覚も合わさり眠気を誘われる。

 しばらくそんな状態が続き、眠気に任せて意識を手放しかけた時、フッと耳に息を吹きかけられ目が覚める。


「……おしまい。次、兄様の、番」


「りょうかい……」


 まだ少しぼんやりしたままの頭を振って眠気を払い、今まで鈴が座っていた場所に座る。入れ替わるようにして、鈴が俺の膝の上に頭を乗せてきた。


「それじゃ、始めるぞ」


「ん……」


 鈴がお風呂をあがったばかりということも考えて、いつもより少し優しく綿棒を動かす。

 入浴中に耳に入った水分をふき取り、耳の中を撫でるように掃除していく。


「んっ……」


「痛いか?」


「んん、きもち、いい」


「ならよかった」


 定期的に耳掃除をしているからか目立った耳垢はほとんどない。掃除というよりはマッサージをしているような感覚だ。


「……」


「…………」


「………………」


「……ん、ぅ……」


「……うん、こんなもんかな。鈴、逆向いて」


 半分ぐらい夢の世界へ旅立ちかけている鈴を起こして、反対側に向かせる。鈴が俺にそうしたように、俺が鈴に顔を寄せてくれと頼む前に、鈴は俺のお腹に顔を押し付けていた。


「いや……そんなに寄らなくていいけど」


「んー……」


「まぁ、いいけどさ」


 鈴の呼吸が少しくすぐったいが、気にせず耳かきを進める。

 身長も体格も小柄な鈴は、耳の穴も小さく、普通の綿棒を入れただけでほとんど穴が塞がってしまい先がよく見えなくなる。

 そうなるとどうしても顔を近づけてみるしかない訳で。

 年齢を重ねるにつれて柔軟性を失いつつある体を折り曲げて顔を近づけると、不意に鈴の片目が開き、目が合った。


「どうした?」


「ふふっ……んん、つづけて?」


「……?」


 よく分からないが、気持ち良さそうなので良しとする。

 それから数分間、右耳と同じように掃除というよりマッサージに近い耳かきを続け、それが終わった頃には鈴は静かに寝息を立てていた。

 使った綿棒をティッシュに包み、数メートル先のゴミ箱へスロー。

 うん。ナイスピッチング。


 さて、ここからどうしたものかと、鈴の頭を撫でながら考えていると、入浴を終えた母さんが洗面所から出てきた。


「あ、耳かきしてたんだ。鈴、寝ちゃってるの?」


「みたいだね」


「どうせ律ももう寝るつもりなんでしょ? 抱っこして連れてってあげれば?」


「……そうするか」


 膝枕をした体勢からだとやりやすさで言えば、所謂お姫様抱っこが簡単なのだが、階段の上りが怖いため普通に抱きかかえる。

 抱きかかえる際、キュッと鈴の腕に力が入ったような気がした。


「それじゃ、おやすみ、母さん」


「うん、おやすみ~」


 階段を上り、自分の部屋に入る。

 扉を閉めた後、何となく聞いてみた。


「鈴……本当は起きてるだろ?」


「………………ねてる」

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