第13話『再婚』

 鈴のわがままを聞くと約束してから数日が経ち、大きく生活が変わったかと言われればそうでもない。目を覚まして最初に視界に入ってくるのが鈴の顔という状況は、慣れるという言葉すら生易しいほどに慣れきってしまっているし、溶かされてしまいそうなほど温かい鈴の体温にも、ずっと抱きしめていたくなるような鈴の柔らかさにも、慣れてきたつもりだ。

 ただ一つ、懸念点があるとすれば、自分の中にある鈴に対する感情が、少し、大きくなりすぎてしまっているような、そんな感覚があることぐらいだ。

 自分は鈴の兄であり、兄として鈴を幸せにすると誓ったのだから、この状況に慣れることはあっても、その先に憧れを抱いてはいけない。それが、俺が鈴の兄でいられる条件なのだから。



 ◇◇◇◇◇



 朝食を食べ終えた後、手早く洗い物を済ませた鈴は、日直でやることがあるからといつもより早く家を出て行った。

 対して俺の今日の時間割は3限から。大学までは大体1時間程度なので、昼前に出れば講義には十分間に合う。

 何か面白いテレビ番組でもやっていないかと、番組表を何となく眺めていると、スーツに着替えた母さんが2階から降りてきた。


「あれ、今日は律、3限の日だっけ」


「そうそう」


「そっか。大学生は時間があって羨ましいですなぁ」


「家では何もしないくせによく言う」


 職場に持っていく鞄を俺が座っているソファーに投げて、母さんはリビングの隣にある和室へ向かった。和室は基本的に来客があった時に対応するためのもので、普段は物置のように使われており、日常生活を送る上で立ち入ることはあまりない。

 しかし母さんは、毎朝和室に向かう。

 目的は、和室にある仏壇だ。


 特に目ぼしい番組を見つけられなかったので、テレビを消して何の気なしに和室へ向かう。

 母さんは仏壇の前で正座し、線香立てに火を点けた線香をさすと、りんを鳴らして目を瞑り手を合わせる。これは今日に限ったことではない。毎朝必ず母さんは、二人の夫の写真が置かれた仏壇に手を合わせている。

 10秒程度の静寂の後、母さんは目を開けて立ち上がった。


「何? 今更珍しくもないでしょ。律もお線香あげてく?」


「……そうしようかな」


 特に理由はないが、何となくそんな気分になった。


 母さんほど頻繁にではないが、俺も線香をあげることはある。いつも通り、母さんと同じ手順を踏んで手を合わせる。

 取り合えず、元気にやっています、と心の中で二人の父親に報告して、目を開ける。

 母さんはそんな俺の様子を黙って眺めていた。


 仏壇の中に置かれている2つの写真。一つは実の父親である音無哲おとなしてつのもの。そしてもう一つは、鈴の実の父親である立花慎一たちばなしんいちのものだ。

 どちらの父親もとても良い人で、一緒に暮らしていた期間なんてそれぞれ片手で数えられる程度の年数なのに、その記憶は深く刻まれている。


「……母さんはさ」


「なに?」


「もう、再婚とかしないの?」


「んー? 律は新しいお父さん、欲しい?」


「そうじゃなくて。いずれ俺や鈴が自立した時、母さん一人になるだろ。そうなったとき、再婚とかするのかなってさ、ちょっと気になっただけ」


「心配してくれてるんだ? 優しい息子を持ってあたしは幸せだぞぉ」


 母さんにワシワシと頭を撫でられる。そして、俺の頭に手を置いたまま、仏壇の写真を見つめて、母さんは話し始めた。


「そもそもね。あたし個人としては再婚なんてする気なかったのよ。でも、哲さんの遺言があってね」


「親父の遺言? そんなの聞いたことないけど」


「わざわざ伝えるような内容じゃなかったからね」


「……親父は、なんて言ってたの?」


「……。『俺が死んだら、俺が幸せにしてやれなかった分、誰かに幸せにしてもらってくれ』だってさ。勝手だよね、先に死んどいて幸せになってくれ、なんてさ」


 親父の死因は癌だった。病で死ぬことに勝手も何もあるのかとは思うが、しかしまぁ、親父に限って言えば勝手に死んだと言えなくもない。

 親父は重度のヘビースモーカーだったのだ。1日に60本近く煙草を吸っていたらしい。そんな生活の所為か、俺が生まれてから暫くして肺癌が発覚。俺が小学校に入学する姿を見ないまま、31歳という若さで帰らぬ人となった。


「それでも、再婚するなら律が大人になってからかなって思ってた。でも慎一さんと出会って、鈴のことを知って、この子にはきっと母親が必要だろうなって思ったから、再婚を決めた。律も反対しなかったしね」


「そうだね」


「律はどうして反対しなかったの? いきなり知らない人が父親になるって、本当に嫌じゃなかった?」


「知らない人って言っても、再婚する前に何度か会ってたし。それに多分、多少は寂しかったんだと思う。この家は二人で過ごすには大きすぎるし、妹が出来るってのも、多分、嬉しかった」


 10年以上前のことで、そこまで細かいことは覚えていないが、家にいる時間のほとんどを一人で過ごすというのは、小学生には少し辛かったのだと、今思い返せばそう思う。

 テレビから聞こえてくる明るく賑やかな音に対し、自分がいる家からは何も聞こえてこない。音は確かにしているのに、やけに静かだったたった一人の夕食は、今でも記憶に残っている。


「――で、結局再婚する予定はあるの? 願望でもいいけどさ」


「……ないわね。あたしってこんな性格だけど、結構重い女なのよ。死んだ夫の遺言通りに再婚しちゃうぐらいにはね」


「なら、義父さんもなんか言ってたんだ」


「事故だったから、遺言みたいなのは当然ないんだけどね。けど、慎一さんにね、結婚する前に聞いたことがあったのよ。あたしは今でも死んだ夫が好きで、夫としては貴方は2番目だけど、それでもいい? って」


「結構酷いこと言うね」


「でも結婚するんだから、嘘は吐いちゃいけないって思った。そしたら慎一さんは、『僕は2番目でも構いません。玲子さんの最後の夫になれさえすれば』って。ならもう、ね? 最後の夫にしてあげるしかないでしょ?」


「……そっか」


「もちろん、律や鈴の為になるなら再婚ぐらいいくらでもするけどね? 夫としては哲さんが1番で慎一さんが2番だけど、あたしにとって1番大切なのは律と鈴だから」


「なら安心していいよ。俺も、きっと鈴も、十分幸せだから」


「そ? じゃああたしも幸せだ。その代わり、あたしがお婆ちゃんになったらちゃんと面倒見てね?」


「もちろん。まぁ、母さんが歳を取って介護しなきゃいけなくなるような状況は、あんまり想像付かないけど」


「当たり前よ。死ぬまで元気でいてやるから安心しなさい?」


 母さんの手が頭から離れたのを感じて立ち上がる。


「思ったより長話しちゃったわね」


「時間、大丈夫?」


「問題なし。この程度で遅刻するようなスケジュール管理はしてないからね。それじゃ、行ってきます」


「うん、いってらっしゃい」


 さて、俺も母さんにぐしゃぐしゃにされた髪の毛を直して、大学に向かう準備をするとしよう。

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