第12話『呼び方』

 実際に家庭教師が生徒に指導を始める前に、一度面談を行うのが会社のルールだった。人間同士である以上相性は存在するし、子供を任せる親としても、そのほうが安心できるというものだろう。

 しかし、まあ。こと今回に限って言えば、その面談の必要性は全くもってないと思うのだが、面談をしなければ仕事ができないのであればするしかない。相手が10年以上付き合いのある幼馴染の妹であったとしても。


 事務所で次に受け持つ生徒が彩ちゃんだと知らされた翌日。つまりは日曜日に、俺は形式上必要な面談を行うため、佐藤家へと向かっていた。

 子供の頃はよく、一樹と遊ぶために互いの家を行き来したものだが、最近ではめっきりそういうこともなくなった。もっともそれは佐藤家に訪れるのが久々という意味ではない。家族ぐるみの付き合いのため、なんやかんや互いの家に訪れることは少なくない。しかしまあ、そうした場合は鈴や母さんが一緒であるため、たった一人で佐藤家に向かうのは久々とも言えた。

 家を出ておよそ5分。これまでも様々な家庭に教師として向かったが、ここまで緊張しない家庭訪問は初めてだ。ちなみに、昨日のうちに電話で俺が家庭教師として付く旨は彩ちゃんに伝えてあるので、サプライズのような展開にはならない。

 インターホンを鳴らす。


『はーい』


 インターホン越しに聞こえてきた声は彩ちゃんのものだった。

 ガチャっと玄関の扉が開いた。


「こんにちは、律さん」


「こんにちは。これ、鈴が今朝作ったクッキー。良かったら食べて」


「わ、ありがとうございます! すーちゃんのお菓子美味しいからなぁ。あっ、どうぞ上がってください!」


「お邪魔します」



 ◇◇◇◇◇



「それにしても、まさか家庭教師が律さんになるなんて」


「なんかごめんね? せっかくお金払って雇った家庭教師が俺で」


 鈴ほど頻繁にではないが、彩ちゃんにも勉強を教えたことは何度かある。もちろんその時は友人として勉強を教えていたのでお金を取ったりはしていない訳で。かと言って手を抜いていた訳でもなく、結局のところ、お金を払っても払わなくても教えられる内容に大差はないのだ。


「むしろ律さんで安心したぐらいですよ。今までは律さんの好意で教えてもらってましたけど、家庭教師としてなら時間を取らせてしまう罪悪感も少ないですから」


「ならよかった」


 俺が持ってきた鈴のクッキーは、雑談――もとい面談のお供として机に出されている。一つつまんで、そういえばと思ったことを口にしてみる。


「今日、一樹はいないの?」


「お兄――兄さんは今日は出掛けてます。お母さんもさっき買い物に行っちゃって」


「今更俺の前で呼び方とか気にする必要ないのに」


「私が恥ずかしいんです……」


 お兄ちゃんと呼んでいるのが恥ずかしいのなら、鈴に兄様と呼ばれている俺は一体どうなってしまうんだろう。


「いっそのこと呼び方を変えてみるとかは?」


「兄さんって呼ぶと、なんか距離が出来たみたいで嫌なんです。それに、ずっと呼び続けていたものを今更変えるのも恥ずかしいというか……」


「そういうもんか」


「呼び方っていうなら、律さんはすーちゃんに兄様って呼ばれてますけど、何か理由とかあるんですか?」


 話の流れからしてそんな予感はしていたが、案の定話題は鈴の兄様呼びにシフトしていった。


「俺も何回か鈴に聞いたことはあるんだけど……『兄様は兄様ですから』としか。彩ちゃんこそ、鈴から何か聞いたことない?」


「私も何も……。でも、最初から呼び方が兄様ではなかったことは覚えてますよ。それこそ初めは『律さん』って呼ばれていたような……?」


「そうだね。『律さん』から『兄さん』になって、最終的に今の『兄様』になったんだったかな」


「変わったきっかけとか、覚えてないんですか?」


「……心当たりがない訳じゃ、ないんだけどね」



 ◇◇◇◇◇



 まだ、俺と鈴が兄妹になりたてだった頃。

 鈴の俺に対する呼び方は『律さん』だった。

 当時の鈴はまだ5歳で、対して俺は11歳。倍近く歳の離れた少年をいきなり兄だと言われても素直に受け入れられるはずもなく。その上実の母親から虐待を受けていた――実際にどんなことをされたのかは聞いていないが――鈴にとって、初対面の相手は子供であれ警戒の対象だった。

 もちろん今と呼び方が違ったのは鈴だけではなく、俺の鈴に対する呼び方も、その頃はまだ『鈴ちゃん』だった。

 あからさまに警戒していますという態度を取る鈴に対して、いきなり呼び捨てで距離を詰めるのが悪手であることは当時の俺でも分かったし、かと言って苗字で呼ぼうにも両親が結婚している以上同じ苗字な訳で。鈴ちゃんと呼びたいから呼んでいたというより、そう呼ぶほかに選択肢がなかったというほうが正しい。


 しかしまぁ、子供は適応力が高いとかそんな話をするまでもなく、毎日のように顔を合わせていれば特別何かしなくても、相手がどんな人物なのかは分かってくる。

 そして迎えた、兄妹になってから初めての鈴の誕生日。

 ホットケーキの一件もあり、そろそろ距離を詰めてもいいかと思っていた俺は、試しに鈴を呼び捨てで呼んでみることにした。


「誕生日おめでとう、鈴」


「……。ありがとう」


 一先ず拒絶されなかったことを安堵しつつ、その日の誕生日会は終わった。

 変化があったのは、翌日からだった。

 朝起きてリビングでニュース番組を眺めていると、少し遅れて目を覚ました鈴が2階の部屋から降りてきた。そして、リビングにいる俺を見つけて言った。


「……おはよう。兄さん」


「…………。うん、おはよう!」


 そうして呼び方は、『律さん』から『兄さん』へと変化した。

 それから暫くは『兄さん』と呼ばれていた、と言いたいところだが、結局のところそう呼ばれていたのは1年程度だった。


 鈴が7歳の時。小学2年生になって数か月が経った頃。

 父親と一緒に乗っていた車が事故に遭い、その惨状を間近で見た鈴は、声を出せなくなってしまったから。 


 あの頃のことは、正直あまり思い出したくない。

 鈴にとっても俺にとっても、そしてきっと母さんにとっても、事故から鈴が再び話せるようになるまでの約5年間は、ひたすらに辛い期間だった。

 鈴を一人にしておくことが出来ず、俺が学校へ通っている間は母さんが鈴の傍に付き、俺の帰宅と同時に入れ替わるようにして母さんは職場へ向かった。あの頃は家で出来る仕事を優先的に回してもらっていたらしいが、どうしても家では出来ない仕事は、俺の帰宅と時間を合わせて出勤していたとのことだ。


 俺はどうしていたかと言えば、自由になる時間は全て鈴のために使っていた。

 とても一般的とは言えない中学高校時代を送っていたため、一般的な中高生がどんな生活をしているのか分からないが、部活もせず、バイトもせず、誰とも遊ばず、睡眠時間を削って、勉強も最低限進級できるぐらいにはしていたが、成績を上げたりするのは二の次だった。


 そんなことよりも、鈴のほうが大事だった。


 まぁ、そんな俺や母さんの努力と、鈴自身の頑張りにより、再び鈴は言葉を話せるようになったのだが、正直に言うと、そこから先のことはよく覚えていない。


 気が付いた時には、俺は病院のベッドの上で、隣では鈴が泣いていた。

 一瞬死んだのかと錯覚したがそうではなく、医者が言うには過労で俺は倒れたらしい。

 これまで無理をさせ続けていた体が、鈴が再び話せるようになったことで、安堵から頑張るのを辞めてしまったのだと思う。

 2日ほど眠り続けていた俺が目を覚ました時には、鈴の俺に対する呼び方は『兄様』になっていた。



 ◇◇◇◇◇



「まぁ、俺が覚えてるのはそんな感じかな」


「私も、覚えてます。あの頃のこと……」


「彩ちゃんは結構遊びに来てくれてたよね」


「はい。すーちゃんに早く元気になってほしかったから。……でも、今だから言えますけど、正直あの頃は、すーちゃんに会いに行くのが怖かったんです」


「まぁ……そうだろうね」


「あ、いや! すーちゃんが怖かったってことじゃなくて……その、律さんが、ちょっと怖くて」


「え? 俺?」


「なんていうかこう、常に気を張ってるっていうか。すーちゃんに何かあった時にすぐ動けるように、ピリピリしてたっていうか……」


「そう……だったかな。あんまり自分のことは覚えてないけど」


 ただ、確かに言われてみれば、あの頃の彩ちゃんはどこかよそよそしかったような気もする。てっきり年齢が上がったことによる接し方の変化かと思っていたが、そうではなかったらしい。


「でも、少し羨ましくもあったんです。それだけ大切にされてるんだなって」


「一樹も彩ちゃんのことは大切にしてると思うけど」


「それはまぁ……大切にされてるとは思いますけど、律さんほどじゃないですよ。添い寝とかもしてもらったことないですし」


「まぁ、普通兄妹とはいえ中々添い寝は――」


 そこまで言って、ふと気づく。


「待って、なんで彩ちゃんがそれ知ってるの?」


 別に鈴と添い寝をしていることを隠している訳ではないが、言い触らして回るようなことでもない。少なくとも俺は一樹や彩ちゃんに話したことはないし、俺と鈴が添い寝している事実を知っているのは母さんだけのはずだが。


「なんでって……すーちゃんから聞いたからですけど?」


「鈴って、そういう話普通にするの?」


「いえ、多分私にだけだと思いますよ? 私、すーちゃんと毎日一緒に学校に行くんですけど、普段よりも機嫌がいい日っていうのがあって。何かあったの? って聞くと、『兄様が一緒に寝てくれたから』って。それからはすーちゃんの機嫌のいい日は、あぁきっと律さんと一緒に寝てたんだろうなぁ、って」


「…………ごめん、一樹には言わないでくれる?」


「もちろん言いませんよ!」


 想像したよりはずっと情報漏洩先は少なかったが、話を聞く限り彩ちゃんはかなり前から俺と鈴の添い寝の事実を知っていたらしい。

 うん、意外と恥ずかしいなこれ。


「それで……その、一つ聞きたいことがあるんですけど……」


「……何?」


「……実の妹が添い寝したいって言ってきたら、気持ち悪いですかね?」


「…………彩ちゃんも大概ブラコンだよね」

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