第11話『勉強』

 俺はどちらかといえば、勉強が好きな人間だった。

 自分の知らない知識を学ぶのは嫌いではなかったし、分からないことも何が分からないのかを見つけるのが早かったために、考えたくもないほどに分からないという状況には陥らなかった。

 ただしあくまでもそれは、好きか嫌いかのどちらかを選ばなければならないなら好きというだけで、言うなればそれは勉強を嫌いになるきっかけがなかっただけで、特に挫折もなく勉強を続けてこられたからで、どれだけ考えても意味が分からず、そういうものであると覚えておくしかないような状況に置かれてもなお、勉強が好きだと言える確証はない。


 しかしまあ、嫌いか好きかでいえば好きな方が良いことも多いわけで。嫌いだと思ってしまっているものは始めるのも続けるのもモチベーションを維持しづらい。好きだったり嫌いではないと考えていることなら、始めるのもそれほど億劫ではないし、不意にやりたいと感じることだってあるだろう。


 勉強に限らず様々なことに当てはまるが、それに充てている時間が長ければ長いほど成長し、実力がついていく。それは勉強も運動も何だってそうだろう。始めたばかりの初心者より、長年それを続けている経験者の方が実力は上だ。

 勉強を好きになる必要は別にない。嫌いにならないだけで良い。少なくとも嫌いではなければ、一日数時間、もしくは数十分でもいい。習慣的に勉強を続けるのもそれほど大変にはならないだろうから。


 そんな風に考えている俺だからこそ、せめて妹には、勉強を嫌いになってほしくないと思うし、その為だったらどんなことでもしてやりたいと思う。もっともこれは、勉強に限った話ではないのだけれど。


「この式の形、さっき教えた公式と構造が同じだろ? だから数字を公式に代入して――」


 勉強を嫌いにならないで貰えるなら、いや別にそんな思惑はなかったとしても、勉強を教えるぐらい何でもないことだ。


「……こう?」


「そうそう。じゃあ、残りの問題もそんな感じでやってみな」


 こうして鈴に勉強を教えるようになった最初のきっかけは、義父さんが事故で死んだことだ。

 事故に巻き込まれ、実の父親の死に様を間近で目撃してしまった鈴は、それから暫く日常生活が送れるような状態ではなかった。未だ続く車への恐怖はもちろんのこと、事故後約5年間、鈴は言葉が話せなくなった。

 心因性失声症、というらしい。

 脳や体に一切異常がないのにもかかわらず、声が出なくなってしまう症状。ただ話したくないから声を出さないのではなく、声を出したくても出せないその症状は、見ている側も辛くなるものだった。

 そんな状態で小学校に通えるはずもなく、家にいるしかなかった鈴は、当然家で勉強するしかなかった。

 鈴に勉強を教えようと思ったのは、鈴にいち早く元の生活に戻ってほしかったからだ。もし俺の年齢がもう少し高ければ、鈴が何一つ不自由なく暮らせるような生活基盤を整えようとしただろう。しかし、俺だって当時はただの中学生でしかなく、当然アルバイトも出来なければ、そもそもそんなこと思いつきもしなかった。思いつきもしなかったのだ。未だ子供であった俺が、生活に不安を覚える必要がないほどに、母さんが頑張ってくれていたから。


 生活の維持を母さんに任せた俺は、自分に出来ることは何かと考え、行動に移した。それは家事であったり、鈴の看病であったり、勉強を教えることであったりだ。

 勉強というのは分かりやすくも面倒なもので、基礎から順番に学んでいかなければ何も理解できなくなる。現状小学校に通えていない鈴が、そのままの状態でトラウマや失声症を克服したとしても、きっと学校に通えるようにはならない。

 学校には様々な役割があり、多くの場合そこで経験できることはかけがえのないものになるが、しかしあくまでも学校は学ぶ場であり、勉学に励む場なのだ。学校で行われる授業が何も理解できない状態で学校に通っても、それはきっとほとんど意味がない。

 だから俺は、鈴に勉強を教えようと思った。いつの日か鈴が普通に戻れた時に、普通の暮らしに戻れるように。


「……出来た」


「ん、見してみ」


 問題集に付いてきた解答集を見ながら問題の答え合わせをしていく。


「うん、全問正解。良く出来ましたっと」


 問題の解答が書かれたノートに赤ペンで花丸を付ける。職業病、というほどのものでもない、いつもの癖、習慣という奴だ。

 ふと時計を見ると、こうして勉強を始めてから2時間が経過していたことに気付く。途中に休憩を挟んでいるとはいえ良い時間だ。今日はこの辺で終わっていいだろう。


「今日はここまで。夕飯の準備するにはまだ早いし、ゲームでもする?」


「……でも、兄様。今日、バイトは?」


「あー、今日はない、というか終わったんだよね」


「終わった……?」


「推薦で進学先が決まったとかでさ。まぁ、受験が終わったら勉強しなくていい訳じゃないんだけど、それは向こうが決めることだしね。またすぐに別の生徒さんに付くかもしれないけど、取り合えず今日は休み」


 俺がこうして勉強を教えているのは、鈴だけではない。家庭教師として、今までにも何人かの中高生に勉強を教えていた。

 家庭教師を選んだのにそれほど深い理由は無い。強いてあげるのであれば、出来るだけ時給の高い仕事がしたかったためだ。わざわざ今更説明するまでもないことだが、我が家は母子家庭だ。とはいっても金銭的な不自由は母さんの頑張りにより皆無と言っていいのだが、それでも働ける年齢になったのであれば、多少は家にお金を入れたいというのも正直な気持ちだった。

 長年鈴に勉強を教えていたこともあり、誰かに勉強を教えること自体は嫌いではなく、慣れたものだった。実際のところ自分の指導スキルがどの程度のものなのかは分からないが、これまでに担当した生徒からも、そして鈴からも特に不満が上がっていないところを見るに、人並みには出来ていると判断しても良さそうだ。


「じゃあ、兄様、ベッドに寝て?」


「流石に疲れた?」


「少し……」


「そっか。おいで」


 鈴に勉強を教えていたので、当然現在地は鈴の部屋で、鈴の部屋ということはそこにあるのは鈴のベッドなのだが、今更俺たち兄妹に寝ているベッドがどちらのベッドなのかを気にするような理由も意味もなかった。

 鈴のベッドに横たわり、続いてベッドに入ってきた鈴を抱きしめる。少し甘やかしすぎな気もするが、それを良しとしたのは他でもない自分自身。鈴を責めるのはお門違いというものだろう。


「今日は……どっちの部屋で寝る?」


「兄様の、部屋」


「好きだね、俺の部屋」


「兄様の匂いが、するから」


「俺の匂い、か」


 鈴に対し、わがままを言ってもいいと言ってからというもの、これまでは数日に一回程度のペースだった添い寝が、毎日の習慣へと姿を変えていた。大抵の場合寝るのは俺の部屋で、週に1回あるかないかという頻度で鈴の部屋での添い寝が発生する。

 鈴は俺の匂いが好きだと言ってくれるが、自分では自身の匂いも、自室の匂いも良く分からない。しかしまあ、鈴の部屋に入ると自分の部屋とは違う、鈴の部屋特有の匂いはするので、俺の部屋にもそういったものは確かにあるのだろう。

 自分の腕の中で抱きしめられている鈴の匂いを嗅いでみる。部屋と同じ匂いが、するような、しないような。そしてどこか、安心する匂いだった。確かに今、鈴は自分の腕の中にいるのだと、視覚や触覚以外でそう感じられて、安心した。

 鈴にとっての俺の匂いも、願わくは、そういうものであってほしいと思った。



 ◇◇◇◇◇



「ん……寝ちゃってたか」


 枕元に置いてあったスマホを見ると時刻は午後5時過ぎ。寝ていたのは大体1時間ぐらいだったらしい。

 特にこの後予定がある訳ではないが、そろそろ夕飯の支度をしなければ母さんが帰ってくる時間に間に合わない。別に間に合わせなければいけない理由もないのだが、本来は休みの土曜に出勤し、我が家の家計をたった一人で支えている母さんには、それぐらいの労いはあっていいだろう。もっとも、料理を作るのは俺ではなく鈴なのだが。


「鈴、そろそろ起きな」


 抱きしめるように背中に回していた手で、鈴の背中を軽く叩く。気持ちよさそうに寝ている鈴を起こすのは少し気が引けるが、ここで起きるのが遅れて、大急ぎで夕飯の支度をする鈴を見るよりはマシだ。


「……ぅ、ん……? にい、さま……」


「おはよう。もう5時だから、そろそろ起きよう」


「もう……そんなじかん。ごはん、つくらなきゃ……」


 まだ若干寝起きで怪しい所はあるが、鈴は寝起きの良いほうだ。数分もすれば料理を作れるくらいには覚醒するだろう。

 ふらふらとした足取りの鈴を軽く支えながら一階まで降り、目を覚ますため顔を洗いに行った鈴を見送って、何をしようかと考える。

 何か特別な理由がなければ鈴は料理を手伝わせてはくれないだろうし、そもそも俺の腕前では手伝いどころか邪魔にすらなりかねない。かといって何もしないでいるのは気が引けるし時間がもったいない。人間、普通に生活していれば暇な時間が出ることぐらいある。こういったときは大抵、風呂場の掃除など鈴がやり残していた家事を終わらせたりするのだが、今日は休日ということもあり、鈴は困ってしまうほど完璧に家事をこなし終わっていた。

 することもないのにうろうろされても、それはそれで鈴の邪魔になる気がして、現状役立たずな兄はテレビでも見て大人しくしていようかと考えたのだが、結局のところ、そうはならなかった。暇にはならなかった。


 突然、ズボンのポケットが振動を始める。勿論それは、今履いているズボンにバイブレーション機能が備わっているとかそういうことではなく、より正確には、振動しているのはズボンのポケットの中に入れてあったスマートフォンだった。通知を知らせる一度限りの振動ではなく、継続的な振動は着信を示していた。

 考えてもみれば、使い始めたその瞬間からマナーモードにしていたため、電話の着信音というものを聞いたことがないな、と訳もないことを思いつつ、画面に表示された発信者を見る。

 電話をかけてきたのは、家庭教師として働くために契約を交わしている会社の事務所からだった。


「お疲れ様です。音無です」


「こんばんは、音無先生。急に電話して申し訳ない」


「いえ、大丈夫です。何かありましたか?」


「いやいや、そんな大したことじゃないんだけど、あいや、大したことなのかな。ともかく、音無先生って先週で生徒さんへの指導終わってたよね?」


「はい、終わってますよ」


「それでね、音無先生の条件に合いそうな生徒さんがいるんだけども、受け持ってみる気はないかな、とね」


「それはもちろん大丈夫ですよ」


「ありがとう! 差し当って、一度事務所まで来てほしいんだけど、いつなら空いてるかな?」


「そうですね……」


 壁に掛けてある時計に目を向けると、時刻は17時20分。

 事務所まで行って話を聞いて帰ってくるまで、正味1時間半もかからないだろう。普段の夕飯が19時ごろに出来上がるので、今日も大体同じぐらいの時間を見て鈴も調理しているはずだ。


「今から行っても大丈夫ですか?」



 ◇◇◇◇◇



 学校の先生が、自分が受け持つ生徒を選べるのかどうかは、学校という括りの中で教師をしたことのない俺には何とも分からないけれども、少なくとも家庭教師には、生徒を選ぶ権利がある。などと言うとあらぬ誤解を招きそうなので付け加えると、予め自分が受け持てる生徒の条件を会社側に提出し、それにそぐわない生徒は回ってこない、というだけの話だ。

 俺が会社側に提出している条件は、教える範囲は高校までの範囲であること、自分の最寄り駅から指定した区間内に生徒の家の最寄り駅があること、この二つだ。

 基本的に教える相手は高校生以下であることがほとんどなので、一つ目の条件は正直あってないようなもの。二つ目の条件は単純に、自宅から遠いと教えに行くのが大変なので、無理なく向かえる範囲に限定している、ただそれだけの話だ。

 会社側からすれば相当仕事を回しやすい家庭教師だと思うのだが、別に実際のところがどうであれ、仕事が回ってくるのならどう思われていたって構わない。


 何はともあれ、そんな条件にしていれば回ってくる生徒は自宅から近い範囲になるわけで。場合によってはもちろん、最寄り駅から数駅以内とかそんなレベルではなく、近所と言っても差し支えないような場所に担当する生徒の家がある場合も、ないわけではない。

 とはいえ、自宅から数キロの県内にどれだけの学生がいるのかは知らないが、偶々家庭教師を雇おうと思っていて、偶々俺が契約している会社のホームページを覗いて、そこで家庭教師を雇おうと思った人物が、偶然知り合いだったなど、一体どれほどの偶然だろう。


 事務所で渡された資料によれば、今回担当することになるのは、高校一年生の女子だそうだ。

 名前を、佐藤彩花。

 小さい頃からの知り合い、所謂幼馴染である佐藤一樹の妹。

 彩ちゃんであった。

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