第10話『ホットケーキ』

 平日に比べて休日の起床時間は遅めなことが多い。より具体的には、目が覚める時間は変わらないが、ベッドから出る時間が遅くなる。

 学校や仕事など、平日ではベッドから出ざるを得ない理由があるのに対し、予定の入っていない休日は、ベッドから起きなければいけない理由があまりない。

 だからこそ起床時間がいつもより遅くなるのだが、今日は目が覚めても起きられない理由があった。


「結局、ずっとこうしてたな……」


 目を覚まして最初に俺が知覚したのは、窓から差し込む朝日の光ではなく、寝ている間ずっと抱きしめ合っていた鈴の体だった。

 右腕は鈴の背中に回され、左腕は鈴の枕になっていた。

 幸せそうに寝ている鈴をそのままにしてあげたい気持ちもあるが、流石に一晩中腕枕をしていたせいで左腕が限界を迎えている。

 鈴を起こさないようにゆっくりと、左腕を鈴の頭からずらす。すると、止まっていた血流が再開した証として腕に強い痺れが襲ってきた。

 少し指を動かしただけでも、痛いようなくすぐったいような独特の感覚が。

 これは、しばらく起きられそうにない。


「すぅ……ん……」


 特にすることもないので、鈴の背中を呼吸のリズムに合わせて優しくトントンと叩く。

 そうしているうちに鈴の呼吸音につられて、二度寝を誘う睡魔が襲ってきた。

 もうこのまま寝てしまおうか、なんて思っていた時だった。


「鈴〜、お母さんはお腹が空きました〜」


 母さんがノックもせずに部屋に入ってきたのは。


「休みの日だから遅くなるのは分かるけど、流石に9時にもなると、お母さんお腹が空いて倒れそうに――」


 そんなことを言いながら近づいてきた母さんは、ベッドを見下ろして俺と鈴がどんな体勢で寝ているのかを理解した。

 そして、懐からスッと携帯を取り出すと、無言で2回カメラのシャッターを切った。


「……なんで写真撮った? それも2回」


「親が子供の写真を撮るのがそんなにおかしい?」


「普段は撮らないくせに……」


 もちろん、写真を撮られて困ることなんてないのだが、二十歳過ぎにもなって妹と抱き合って寝ているところを撮られることに恥ずかしさを覚えないと言えば嘘になる。


「やっぱりあたし、朝ごはんは自分で用意するわ」


「必要なら起きるけど」


「いいのいいの。律はそのまま鈴といてあげて」


 そう言って母さんは、まだ寝ている鈴の頭を撫でて優しく微笑んだ後、


「鈴のこと、よろしくね」


 それだけ言い残して部屋を出て行った。


「……言われなくたって、分かってるさ」


 昨日の夜、改めてそれを約束したばかりだ。

 鈴が鈴らしく、鈴のままでいられるように。

 大袈裟かも知れないが、鈴の望みであれば何でも叶えてやりたいと思っている。

 昨日の夜鈴に伝えた「わがままを言ってもいい」というのは、決してその場限りの口約束ではない。


 差し当たって今は、昨日の夜から続く鈴との約束を守ることにしよう。



◇◇◇◇◇



 鈴が目を覚ましたのは、それから30分程後のことだった。


「……ん、ふぁぁ……んぅ」


「おはよう、鈴」


「おはよ……にいさま……」


 存在を確かめるかのように抱きついてくる鈴を抱きしめ返す。


「いま、なんじ……?」


「9時半過ぎってところかな」


「もうそんなじかん……ごはん、じゅんびしなきゃ……」


「母さんは自分で用意して食べるってさ」


「にいさま、は?」


「俺はまあ、まだもう少し後でも良いかなって」


「……なら」


 そう言って鈴は起き上がりかけた体を再びベッドに預ける。


「もうすこしだけ……このままで、いい?」


「もちろん」



 ◇◇◇◇◇



 大学の課題を一通り終わらせた頃には時刻は14時を過ぎていた。

 鈴に昼食としておにぎりを作ってもらったが、若干の物足りなさはやはりある。

 何か軽く食べようと二階の自室からリビングに降りると、鈴がテレビを見ていた。番組を見るに、以前やっていたものの録画だろう。


「兄様、休憩?」


「いや、課題が終わってお腹空いたから、何か軽く食べようかと思って」


「じゃあ――」


「いいよいいよ、鈴はテレビ見てな」


 甲斐甲斐しく世話を焼こうとする鈴を宥めて、キッチンに向かう。

 テレビを見ていた鈴だが、それは別にすることがなかったからテレビを見ていた訳ではない。

 朝起きてから家事を始め、母さんと俺の昼食を作り、三人家族には少し大き過ぎるこの家を掃除し終わって、ようやく出来た鈴の自由時間が今なのだ。むしろ休憩が必要なのは鈴の方だろう。


 何か手軽に食べられるものがないかと冷蔵庫や食品が入った棚を眺める。軽く食べられるものは幾つかあるが、どれもあまりピンとこない。

 昼食後のこんな時間に食べるのだから、どうせなら食事というよりおやつのようなものが良い。

 そう考えて色々と漁っていると、目に付いたものが一つあった。

 最近あまり作っていなかったし、鈴もいるし丁度良いかもしれない。


「鈴、ホットケーキ食べるか?」



 ◇◇◇◇◇



 普段我が家の食事事情は鈴に任せっきりではあるが、稀に俺が料理をすることもある。

 鈴ではなく俺が作る料理の中の一つに、ホットケーキがある。

 別に俺が鈴よりもホットケーキを作るのが上手いという訳ではない。なのに何故ホットケーキは鈴ではなく俺の担当かというと、かつての習慣が関係している。


 鈴がまだこの家に来て直ぐの頃。

 中々鈴と仲良くなるきっかけが掴めなかった俺は、様々なものを利用した。

 色々なゲームに誘ってみたり、外に連れ出してみたり、とりあえず話しかけてみたり。どれも鈴は拒絶しなかったが、特別喜んでいる様子もなかった。

 そもそも、6歳も年上の異性といきなり兄妹だと言われて、はいそうですかと受け入れるのは難しい。小学1年生から見れば小学6年生は大人に見えるように、鈴からすれば俺は気軽に仲良くなれる相手ではなかった。


 そんな状況だったが、鈴が唯一自分から興味を示したものがあった。

 それがホットケーキだった。

 特別なきっかけは何もない。それこそ今のように、ただ不意に、何か甘いものが食べたいと思っただけだ。鈴のためではなく、自分のために作ろうと思っただけだ。

 しかし鈴が興味を示したのは、俺が鈴と仲良くなるために起こした行動ではなく、自分自身のために起こした行動だった。きっと世の中というのはこんな風に、ままならないまま回っているに違いない。


 鈴と兄妹になる前、母さんが仕事で遅い場合などに自分の食事は自分で用意していたため、料理の腕前は一般的な小学生よりは上だったと思う。少なくとも、ホットケーキぐらいは生焼けにせず、焦がしもせず作れるぐらいの腕前はあった。

 喫茶店で出てくるような、分厚くふわふわなものを作ろうと思えばそれなりに大変だろうが、一般家庭で作られるホットケーキなど、既に諸々混ぜ合わせてあるホットケーキミックスに牛乳と卵を加えるだけの簡単なものだ。調理に使う器具も比較的少なく済むため、作る機会はそれなりに多かったはずなのだが、鈴が来てから作るのはその日が初めてだった。


 音無家に来たばかりの鈴は、部屋に篭ってばかりで、用がなければ出てくることはほとんどなかった。当然その日も、鈴は部屋に篭っていた。にもかかわらず、ホットケーキが出来上がる直前でリビングに降りてきたのは、女の勘というやつなのか、それともただ単に甘い匂いに釣られてきたのか。なんにせよ鈴はタイミング良く降りてきた。

 普段ならそのままテレビ前のソファーに座るか、降りてきた理由に関わることを始める鈴が、ピタリと階段を降り切ったところで動きを止め、キッチンに向かってきた。

 視線の先には、丁度焼き上がった4枚目を重ねて、4段になったホットケーキがあった。


「………………」


「……食べる?」


「…………!」


「座って待ってて、準備するから」


 ダイニングテーブルの定位置についた鈴は、目をキラキラとさせながら素直に待っている。いつの間にか手にはフォークが握られており、準備万端だった。


「俺が切ってもいい?」


「んっ」


 大きく首を縦に振ったのを確認してから、鈴でも食べやすい大きさに等分していく。バターやメープルシロップも、鈴の了承を得てからかけていく。


「はい、どうぞ」


「わぁ……! いただき、ます……!」


 ホットケーキを頬張る鈴を見ながら、俺も自分の分に手をつける。

 特別に美味しいわけではない。特別なことなど何もしていないのだから当たり前だ。

 普通に作って、普通に美味しくできたホットケーキ。

 ただ、美味しそうに食べてくれる鈴を見ていると、以前よりも少しだけ、美味しいような気がした。


「ありがとう、律さん」


「どういたしまして」



 ◇◇◇◇◇



 それ以来、ホットケーキの担当は俺ということになった。とはいえ俺の方からお願いして鈴に作ってもらうこともあるので、そこまで厳密な決まりというわけでもない。あくまでもそういう習慣であるというだけだ。ちなみに言うまでもないことだが、鈴が作ったホットケーキの方が美味しい。それも圧倒的に。


 俺がホットケーキを焼いている間に鈴が食器など諸々の用意をしてくれていたので、出来上がってから食べ始めるまではかなりスムーズだった。


「それじゃ、いただきます」


「いただき、ます」


 自分で作った方が美味しいはずなのに、鈴はいつだって美味しそうに食べてくれる。まあ、別に美味しくないものが出来上がったわけではないし、どうあれ美味しく食べてくれた方が嬉しいものであることに変わりはないのだが。


「今度は、私が、作るね」


「楽しみにしてるよ」


 お世辞ではなく、本当に。

 店では千円出しても食べられないようなクオリティーのものが家で食べられるのだから、楽しみでないはずがなかった。

 考えてもみれば、こうして鈴とゆっくり会話するのも久しぶりな気がする。いや正確には、昨日の夜と今日の朝ベッドの中で会話はしているのだが、しかし昼間にこの後の予定を考えず、時間の経過に神経を使わなくて済む状態で会話するのは久しぶりだった。日数にしてほんの三、四日の期間を挟んだだけで久しいと感じるかは人によるだろうが、少なくとも俺は久しぶりだと思った。

 そしてその、あまり会話が出来なかった期間を寂しいと感じていた事実に、自分も中々シスコンが極まっているなと思う。シスコンであることを自覚し、シスコンであることを特に問題だと思ってもいないところに、シスコンが極まっているなと思った。

 義理の妹に向ける感情が果たして兄妹愛なのか、それとも別の何かなのか、今の自分にはいまいち判別が付かなかった。付けるべきではないと思った。

 その感情がなんであれ、鈴に向ける感情に変わりはなく、変えるつもりもないのだから。


 皿に2枚乗っていたホットケーキを食べ切り、鈴も残すところ0.5枚といったところで、タイミング悪く――本人にしてみればタイミング良くなのだろうが――母さんが2階から降りてきた。

 休日の、それも昼食後。家では自堕落な母さんはきっと部屋で寝ているだろうと思ったからこそホットケーキを作ったのに、食に貪欲な母さんはそれを見逃すような愚は犯さなかった。


「あ! 2人でホットケーキ食べてる! 道理で良い匂いがすると思った。あたしの分は?」


 こうなるともう、選択肢はない。


「……今から作るよ」


「私も、手伝う」

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