第9話『望み』

 カリギュラ効果、という心理効果がある。

 特定の物事を禁止したり、制限を加えたりすると、かえって興味をもってしまうというものだ。

 鶴を助けたお爺さんも、亀を助けた青年も、禁止されたことには抗えなかった。


 襖を開けてしまったお爺さんと、箱を開けてしまった青年。

 その2人と私に違いがあるとすれば、2人は他の人から制限をかけられたのに対して、私は自ら制限をかけたという点だろう。

 他人に駄目だと言われたこと。

 自分で駄目だと決めたこと。

 どちらがより耐え難いかは人によるだろうけど、私にとっては、誰かに禁止を言い渡された方がずっと楽だ。

 兄様に禁止されたなら、私は絶対にそれを破らない。

 自分でかけた制限は、耐え難くなるとすぐに解除してしまう。


 私は扉を開けた。



 ◇◇◇◇◇



 数時間前に訪れた部屋の扉の前に立ち、ゆっくりとドアノブに手を掛け、ひねる。

 蝶番が小さく悲鳴を上げるたびに動きを止めて、自分がギリギリ通れるだけの隙間をようやく作った私は、扉と壁の隙間に体を滑り込ませた。

 完全に部屋の中に入った私は、開けた時と同じようにゆっくりと、部屋の扉を閉じた。


「はぁ……」


 小さくため息。

 本当に私は堪え性がない。それも、兄様のことになると特に。

 昔はもっと、我慢ができたはずなのに。

 痛くても辛くても苦しくても、我慢できたのに。


 足音を立てないようにゆっくりとベッドまで歩く。兄様は壁を背にして横向きに眠っていた。

 出来る限り音を立てないようにしながら、掛け布団の中に体を侵入させる。

 中は兄様の体温で温かくなっていた。

 完全に体を布団の中に入れ切ると、兄様と向かい合うようにして横になる。


 眠っている兄様の顔が近くにあって、全身が兄様の匂いに包まれて、兄様の体温を感じられる。

 我慢できずに私は、近くにあった兄様の手を握った。


 本当は、我慢しようと思ってたのに。

 兄様の邪魔を、しないようにしてたのに。


「……ごめん、なさい」


「どうして、謝るんだ?」


「――――!」


 さっきまで閉じられていた兄様の目は開かれていて、私が一方的に握っていた手は、優しく握り返されていた。


「寝てた……ふり?」


「結果的にそうなったけど、寝付けなかっただけだ。それで、どうして俺の部屋に? ――って、聞くまでもないか」


「ごめん、なさい」


「だから、どうして謝るんだ?」


「兄様の、邪魔、しないようにって、思ってたのに」


「俺の邪魔、ね。まあ確かにここ最近は忙しかったけど……」


 兄様はそこで言葉を区切ると、少し考えてから、口を開く。


「よし、鈴、良いことを教えておこう」


「良いこと……?」


「人間ってな、寝てる時は何も出来ないんだ」


「…………え?」


 寝てる時は何も出来ない。

 それはあまりにも当たり前の話だった。人は呼吸が出来なければ死んでしまうとか、地球上では重力という力が働いているとか、そんなレベルの話。


「どういう、意味?」


「そのままの意味。寝てる時には何も出来ない。当然、課題もできない」


「……あ」


「鈴が俺の邪魔をしないようにって気を使ってくれたのは嬉しい。けど、一緒に寝るぐらいなんの邪魔にもならないし、もっと言えば、俺は自分が勉強をしてる隣で鈴がゲームをしていようと本を読んでいようと、邪魔だとも迷惑だとも思わない」


 スッと、握り合っていない方の手が私の頭に伸びてきた。

 優しく、手櫛で髪の毛を解かされる。


「だから、変に我慢する必要はない。鈴はもう、何も我慢しなくて良いんだ」


 兄様の言葉は凄く嬉しい。

 けど、嬉しいけど、それでも私は。


「……私は、嫌われたく、ないの。わがままを、言って、鬱陶しいな、って、思われたく、なくて」


 今でも十分面倒な妹だって分かってる。

 だからこれ以上、兄様に甘えたら私は、きっと、面倒だなって、鬱陶しいなって、思われてしまう。


 私は、もう。


「もう、大切な人に、嫌われたく、ない……」



 ◇◇◇◇◇



 それは、鈴のもう一つの傷。

 鈴が、この家に来ることになった理由。


 俺の実の父親は、俺がまだ小さい頃に癌で帰らぬ人となった。

 けれど、鈴の母親は違う。

 鈴の母親は、今でも存命だ。

 つまり、片親となり再婚したのは親を亡くしたからではなく、両親が離婚したからだった。

 そして、鈴が母親ではなく父親に引き取られたのは、経済的な理由のみならず、母親に鈴を任せられない理由があったからだ。


 それが、鈴のもう一つの傷。


 鈴は、母親に愛されなかった。


「鈴……」


 自分より一回り以上小さい体を抱きしめる。


 これまでにも、同じようなことは何度もあった。

 けれど、自分の気持ちを証明するのは難しい。

 人の気持ちは常に移り変わっていくもので、10年先も同じ愛情を注げる保証はない。

 そして、今口にした言葉が、本心である保証は、どこにもない。


 鈴も、俺のことを信頼していないわけじゃない。

 しかし、一度拒絶された痛みを、恐怖を、悲しみを知っている鈴は、あと一歩のところで自分の心にブレーキをかけてしまう。

 鈴の少し過剰とも言えるスキンシップには、自分の心のブレーキを取り除くためでもある。


 どこまでなら、許されるのか。

 相手の真意は、どこにあるのか。

 ゆっくり、ゆっくりと、徐々に心の距離を縮めてきた。


 俺にできるのは、鈴にも分かるように、歩み寄って見せることだけだ。


「俺は、鈴のことを嫌わない」


 そんな保証はどこにもなくても、断言する。


「俺は、鈴のことを愛してる」


 鈴はもう、様々なものを背負い過ぎた。

 そんな鈴に俺が与えるべきものは、愛情以外にはないと信じているから。


「俺は、ずっと鈴のそばにいる」


 鈴が、1人で立って歩けるようになるまで。

 もう大丈夫と、自ら俺の元を離れていくまで。

 ずっと支え続けると、あの日、約束したから。


「妹のわがままぐらい、全部答えてやる。だから、鈴はありのままの自分でいて良いんだ」


 もう二度と、自分の気持ちを偽らなくて済むように。

 もう二度と、一人で泣かなくてもいいように。

 そのためには俺は、鈴の兄になったんだから。


「本当に……いいの? わがまま、言っても……」


「いいよ」


 それだけは、何度問われても変わらない。


「じゃあ……」


 鈴は俺の胸にうずめていた顔を上げると、小さく望みを口にした。


「……これからも、一緒に、こうして、眠ってほしい……」


「分かった」


 子供じみた習慣だとか、高校生にもなってとか、そんなことは今はどうでもいい。

 鈴がそれを望むなら、望まなくなるまで叶え続けてやりたい。

 それが俺の望みだから。


「あの……もう一つだけ、わがまま、いい……?」


「いいよ、なに?」


「今日は……ずっと、こうしてて、ほしい」


 こう、っていうのは、抱きしめているこの状況のことだろうか。

 確認の意味も込めて少し力を入れて抱きしめると、鈴も抱きしめ返してくる。


「じゃあ、今日はこのままで。……おやすみ、鈴」


「おやすみ、なさい。兄様……」

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