第7話『きっかけ』
遠慮しない。とはいっても、一体何に対して遠慮しないのか。私は今、兄様に対して、何を遠慮しているのか。
私は、どうしたいんだろう。
コーヒーを飲み終わった後、たっぷり20分ほどリビングで悩み続けた私は、『兄様の側にいること』が自分の望みだと定義した。
そうと決まったのなら話は早い。兄様は部屋にいるのだから、部屋を訪ねればいい。
階段を上がって一番奥の部屋。そこが兄様の部屋。
扉をノックしようと手を持ち上げた瞬間、不意に不安が頭をよぎる。
――迷惑だったらどうしよう。
――私がいることで気が散るかも知れない。
――邪魔だって言われたら、どうしよう。
「っ……」
『遠慮する必要はないのよ。家族なんだから』
「お母さん……」
大丈夫。今までお母さんは一度だって嘘は吐かなかった。
だから、大丈夫。
扉を3回ノックする。返事はすぐに帰ってきた。
「どうぞー」
部屋の中は少し肌寒かった。
どうやら、エアコンを点けてないみたいだ。
「どうかした?」
パソコンでの作業を止めて兄様は尋ねてくる。
ただ、その問いに対する答えを、私は持ち合わせていなかった。
側に居たかっただけで、もっと飾らずに言えば寂しかっただけで、これといった用があるわけではない。けど、それをそのまま言うのは、少し恥ずかしかった。
「え、と。本、読みたくて。ここで読んで、いい?」
だから、それっぽい理由を作る。
本を読むために兄様の部屋へ来るのは今までにも何度かあったことで、そこまで不自然な理由でもないはずだ。現在時刻が夜の9時過ぎでなければ。
「別にいいよ。ちょっと、俺はやることがあるから相手出来ないけど……」
「大丈夫。気に、しないで」
「じゃあ、ベッドにでも座ってて。好きなの読んでていいから」
そう言って兄様は作業に戻る。チラッと目を向けると、パソコンで何か文章を書いているみたいだった。何を書いているかまで盗み見ることはしなかった。多分、そんなことしても怒られないだろうけど。
兄様は画面を見ながら、手元は見ずに文字を打ち込んでいく。ブラインドタッチ、というやつだ。
私もパソコンを使うことはあるけれど、ネットサーフィンや動画サイトで動画を見るぐらいのもので、ブラインドタッチは出来ない。
私の家には、デスクトップパソコンが2台と、ノートパソコンが2台の、計4台のパソコンがある。
兄様がデスクトップパソコンとノートパソコンを1台ずつ持っていて、お母さんがノートパソコンを1台。そして、リビングに共用パソコンとして、デスクトップパソコンが1台置いてある。
共用といっても、兄様とお母さんは自分のパソコンを持っているので、共用パソコンは実質私専用になっている。
詳しいことは分からないけど、リビングに置いてあるパソコンは古い物のようで、しきりに兄様とお母さんが買い替えようと話をしているのを聞く。大してパソコンを使いこなせていない私にとっては、今の性能でも十分すぎるぐらいなのだけど。
「……あの、鈴。やっぱ何か用事ある?」
「……? ない、けど」
「なんか、ずっとこっち見てるから。何か言いたいことがあるのかなって」
「……なんでも、ない」
そうだった。私は兄様の部屋に本を読みにきたことになってるんだった。
ベッドから立ち上がると、本棚に目を向ける。
兄様の部屋には本がたくさんある。壁部分はほとんど本棚に埋め尽くされていて、その本棚にもぎっしりと本が詰め込まれている。
といっても、種類ごと綺麗に仕分けられているので、散らかっているようには見えない。何というか、図書館みたいな感じだ。
種類は大きく分けて3つ。
小説、漫画、その他の括りだ。
小説の棚には時代小説からライトノベルまで、漫画の棚には少年漫画から少女漫画まで、その他の棚には絵本から参考書まで、様々な本が収められている。
私が読むのは大抵小説か漫画で、その他の棚には手を付けない。昔、興味本位で『初心者でも分かる』と書かれた哲学書を手に取ったことがあるけど、開始2ページでよく分からなくて棚に戻したのを覚えている。私の理解力は初心者以下だった。
それ以来私にとってその他の棚に入っている本は、自分には難しすぎるものが多い気がするという理由で、読む本の候補にすら入れなくなった。もちろん絵本なんかは子供向けなんだろうけど、そもそも絵本を読むような年齢でもないし、参考書とビジネス書の間に挟まっている絵本は、ただの絵本のはずなのに難しそうに見えてくる。
――じゃあ、何で兄様は絵本を持ってるんだろう……?
「…………?」
考え始めて数秒、この疑問が自分だけでは答えの出ないものだと気付いた私は、何となく目に付いた漫画を手に取った。
確か、今ものすごく人気がある漫画だった筈だ。アニメ化もしていて、今は映画が公開中とかで、テレビのニュースなんかでも頻繁に名前を聞く。
学校でもクラスメイトが話をしていたような、気がする。
せっかくだし、読んでみようかな。
第1巻を手に取り、ベッドの上に座ってページをめくる。
「………………」
カタカタとキーボードを叩く音。
漫画のページをめくる音。
モーター音のような低く響く音。
……モーター音?
部屋を見回してみると、私が部屋に来たときは付いていなかったはずのエアコンが動いていた。そういえば、部屋もさっきより暖かい。
兄様は何事もなかったようにパソコンに向かっている。
こういう些細な気遣いが出来るところが、兄様とお母さんはそっくりだ。
親子なのだと、実感する。
私は、どうだろう。
周りから見て、お母さんと親子に、兄様と兄妹に、見えるだろうか。
…………いや、兄様と兄妹はともかく、お母さんと親子には見られない。主に見た目が原因で。
私自身、私服のお母さんと並ぶと、お世辞抜きで姉妹にしか見えない。
前に家族全員で買い物に行ったとき、たまたま兄様と別行動をしていたら、ナンパされたことがある。お母さんと2人で。
別に、ナンパしてきた人たちに同情する気は無いけれど、お母さんの年齢が40歳手前だと知った時の顔は、正に驚愕といった具合で少し面白かった。
私が回想に耽っていると――もう漫画はほとんど読んでいなかった――兄様が急に椅子から立ち上がる。
そして、どこへ行くわけでもなく、部屋の中をウロウロとし始めた。
これは、兄様の癖だ。
何かを考えていたり、頭の中を整理していたり、そういう時兄様はどこへ行くでもなくウロウロと歩き回り始める。じっとしているよりも動いていた方が考えがまとまるから、らしい。
そしてこれは、兄様が本当に集中している証拠でもある。
もう、部屋に戻ろうかな。これ以上は邪魔になっちゃう。
漫画を閉じて、兄様が椅子に座り直したタイミングを見計らって立ち上がる。
「兄様、おやすみ」
「え? ああ……おやすみ」
漫画を元の場所に戻して、一度も振り返らず、私は自分の部屋に戻った。
◇◇◇◇◇
「……てっきり、今日はここで寝ていくもんだと思ってたんだけど」
どうも、当てが外れたらしい。
やはり、鈴が兄離れ出来ていない以上に、俺も妹離れが出来ていないようだ。
ここ数日、鈴と添い寝をしなくなった。
おそらく、忙しそうにしている俺に鈴が気を遣っているんだろう。
今まで毎日のように続いていた習慣がぱたりと途絶えると、どうしても寂しさを感じる。
しかしまあ、いつまでも続けているような習慣ではないのも事実。
「案外、こういう些細なことがきっかけになるのかもしれないな」
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