第5話『誰のせいでもない』

 鈴の作った晩御飯――メニューは予定通りハンバーグだった――を食べ終え、俺は今、風呂から出たところだった。

 と言っても、晩御飯の後色々とすべきことを済ませてから風呂に入ったので、現時刻は午後11時。寝るには少し早いような気もするが、起きていても特にすることがない。尤も、やらなきゃいけないことなんて、作ろうと思えば幾らでも作れるのだが。


 二階にある自分の部屋に戻ると、明らかに入浴前の自室とは変化しているところがあった。

 具体的に言えば、ベッドの上。掛け布団が人ひとり分ぐらいの不自然な膨らみを形作っていた。

 中にいるのが誰か、そんなの考えるまでもない。

 掛け布団をめくると、背中を丸めて壁を背にし、横向きに寝る鈴の姿があった。手にスマホが握られているところを見るに、先に布団に入って俺を待っていたが寝落ちした、といったところだろう。

 起こそうか。寝かしておこうか。

 幸いと言うべきか、鈴は壁側に寄って眠っているので、このままでも寝られないことはない。


「……まあ、いいか」


 ベッドに潜り込んでいたということは、今日も一緒に寝るつもりだったんだろう。鈴がそれを望むのなら、俺の方に異議なんてあるはずがなかった。 


 ゆっくりと、鈴を起こさないようにベッドの上へ体を滑り込ませると、枕元にあるリモコンを操作して電気を消す。

 自分と鈴に布団をかける。

 俺は体を横にして、鈴と向かい合うような体勢になる。

 無防備な鈴は口が少しだけ空いていて、すぅすぅと規則正しく静かな寝息を立てていた。

 本当は、寝る前に昼間のことを鈴に謝ろうと思っていた。

 俺が何も言わずに車に乗れば、鈴が取り乱すのは考えるまでもないことだ。乗るのが一瞬のこととはいえ、連絡をする手間を省くべきではなかった。


 俺は、鈴の兄なんだから。


 鈴の兄である俺が、妹である鈴を泣かしちゃいけない。


 鈴を笑顔にするために、俺は兄になったんだから。


「……ごめんな」


 左手で軽く、起こさないように鈴の頭を撫でながら、ほとんど無意識にそう呟いていた。


「にいさまは、わるくない」


 そんな声とともに、俺の左手の甲に鈴の右手が添えられる。


「っ。悪い、起こしちゃったか?」


「おきてた……ねそうだった、けど」


「寝たふりだったのか……」


「ん」


 鈴の声は普段よりも更にゆったりとしていて、聞いているこっちまで眠くなりそうだった。

 俺の左手に添えられたままの鈴の手は、もっと撫でろとでも言うように俺の手を操作する。それに逆らうようなことはせず、鈴に求められるまま、しばらく鈴の頭を撫で続けた。

 5分ほどそうしていると、鈴は徐に自分の頭を俺の胸元に寄せてきた。


「ぎゅって、して?」


 上目遣いでお願いをされて断れるはずもなく、鈴の頭を抱え込むように抱きしめる。

 何だこの可愛い生物。

 夜の鈴は、昼間よりも甘えん坊だ。

 昼間なら、手を繋いでと言ってくることはあっても、抱きしめてと言ってくることはほとんどない。

 二人だけのプライベートな時間だからなのか、眠くて上手く頭が回っていないからなのかは分からないが、ベッドの上での鈴は要求が普段よりも大胆だ。

 正直、妹でなければ手を出していたかもしれない。


 俺の胸元に顔を埋めたままの鈴は、その状態のまま、すんすんと匂いを嗅いできた。

 風呂から上がったばかりなので、臭いってことはないと思うんだが……。


「……ふとんと、おなじ。にいさまのにおい」


「臭うか?」


 俺の問いに、鈴は首を横に振ることで答える。


「だいすきな、におい」


 自分ではよく分からないが、鈴が好きだと言ってくれるなら、とりあえずはそれで良いか。


「……そういえば、最初に鈴が布団に潜り込んでたのは――」


「ん、ふとんのなか、にいさまのにおい、いっぱいで、あんしんする」


 自分の匂いを鈴が好きだと言ってくれる。

 嬉しいような恥ずかしいような。むず痒い変な感覚だった。


「にいさまは、わたしのにおい、すき?」


「え? ……どうだろ、あんまり意識したことないな」


「かいでみて?」


 そう言うと鈴は俺の手の中から離れていき、今度は逆に、俺のことを胸に抱き抱えた。


「……鈴」


「ん……?」


「胸、当たってるけど」


 というか、俺の顔、埋まってますけど。


「いつもの、こと」


 抱きつかれて腕や胴体に胸が当たるのと、顔を胸に押し付けるのとではだいぶ意味が変わってくると思うのだが、少し寝惚けが入った今の鈴にとっては些細なことらしい。

 抜け出そうにも、割とがっちりホールドされている。どうやら匂いを嗅ぐまで離す気はないらしい。


 妹の胸元の匂いを嗅ぐなんていう変態じみた――じみた、ではなく事実変態である――行為をするつもりがあろうがなかろうが、人間という生き物は呼吸をしなければ生きていけない。

 妹の匂いを嗅がないことと引き換えに死を選ぶことは、流石に出来なかった。


「………………すぅ」


「ん……っ、ふふっ、くすぐったい」


 まず最初に感じたのは、フローラルな柔軟剤の匂い。続いて、家族全員が共有で使っているボディソープの残り香。

 そして最後に、そのどちらとも違う仄かに甘いような香り。

 何かに例えられないその匂いは、柔軟剤やボディソープと比べて特徴のない微かな匂いであるにも拘わらず、俺はその存在をしっかりと知覚出来た。

 今まで鈴の匂いなんて意識したことはなくて、だからこうして匂いを嗅いだのも初めてのはずなのに、その匂いはどこか懐かしく、安心感があった。

 前にどこかのタイミングで、鈴の匂いを嗅ぐ機会があったのだろうか。それとも、無意識のうちに体はその匂いを記憶していたのか。

 妹の顔に胸を埋めたまま意識が思考の海に落ち始める。そんな俺を引き上げたのは、鈴の言葉だった。


「にいさまは、わるくない」


 最初に聞いた言葉と、同じだった。


「わたしが、にいさまのたちば、なら、せんしゃぐらいで、いちいち、れんらくしない。だから、にいさまはわるく、ない。


 あの、たいみんぐで、わたしが、かえってきたのは、ぐうぜん。だから、わたしもわるく、ない。


 これで、いい?」


 鈴は言い終わると、ゆっくりと俺の頭を解放して、元の位置――俺の胸元に顔を埋める位置に戻る。


 妹に、慰められた。


 昼間の出来事が、ずっと心に引っかかってた。

 買い物中も、食事中も、入浴中も、寝る前の今だって。

 鈴はそれに、気づいていたんだろう。


 俺が悪いことにしないと鈴が気にして自分を責める?

 本当に気にしていたのは、俺の方じゃないか。

 必要ないことにまで無理して責任を負おうとしたのは、俺の方じゃないか。


 兄、なのにな。


 まだまだ、未熟なことだらけだ。


「ごめ――」


 ごめんな。そう言いかけて、口を閉じる。

 今言うべきは、その言葉じゃない。

 慰めてもらったなら、感謝するべきだ。


「ありがとう、鈴」


「どういたしまして、にいさま」

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