第3話『鈴は、律の妹なんだから』
「ただいまーっても、誰もいないか」
俺が大学から帰ってきたのは午後3時を回った頃。母さんは勿論、鈴もまだ帰ってきていない。
鈴が帰って来るのは大抵午後4時を過ぎてからだし、母さんも遅くなることは少ないが、それでも帰宅時間は午後6時を過ぎている場合がほとんどだ。
買い物に行くのは鈴が帰ってきてから。つまり、少なくとも1時間程度は自由な時間が生まれるわけだが――。
「することがないな」
大学生というのは、かなり時間に余裕がある。サークルや部活に入っていれば、時間を持て余すということも少ないんだろうが、俺はそのどちらにも所属していない。
バイトはしているが、今日は入っていないし、何より俺のバイトは夕方から夜にかけてなので、仮に今日バイトがあったとしても、今しなければならないことはない。
とりあえず部屋に荷物を置いてから、リビングのソファーに寝っ転がる。
テレビを見ようにも、今の時間帯では面白い番組はやってないだろうし、かといってゲームをする気にもならない。
短時間で終わるものではなく、どうせなら、普段あまりしないようなこと。
「………………そうだ」
ソファーから起き上がり、小物が色々と入っている引き出しへ向かう。
目的のものは直ぐに見つかった。
「洗車でもしよう」
◇◇◇◇◇
自慢ではないが、我が家の敷地はそれなりに広い。
具体的にどれぐらい広いかと聞かれると、非常に答えづらいのだが。我が家の敷地には、総部屋数が12の二階建ての家が建ち、同じく二階建ての小さな倉庫に、車が3台入る車庫。加えて、多少本格的な家庭菜園が出来る程度の庭もある。
この敷地は、元々俺の実の父親が両親から相続したもので、家も古い日本家屋だったのだが、築年数がかなり経っていることもあり、数年前全面的にリフォームされた。
昔はこの敷地に加えて畑もあったらしいのだが、現在は駐車場に作り替えられ、我が家の収入源の一つとなっている。
古い日本家屋特有の広い敷地のおかげで、近所への迷惑を考えずに洗車ができるだけのスペースがある。
俺は、車庫から車を庭の手前あたりまで出すと、洗車の準備に取り掛かる。
先ほど、車が3台入る車庫、といったが、現在家にある車は乗用車が1台のみ。それもほとんど使われていないのが現状だ。俺が前に乗ったのは…………前回洗車をした時だったような気がする。母さんは時々仕事場に乗っていくことがあるが、大雨の日や特に急いでいる時など使われる場面は限定的で、普段は電車で通勤している。
元々我が家には、軽自動車、ミニバン、乗用車の3台があり、母さんも通勤には毎日車を使っていた。
では何故、今では乗用車1台しかなく、母さんもほとんど車を使わなくなったのか。
それは、鈴が理由だった。
俺と鈴が兄妹になったのは、俺の母親と、鈴の父親が再婚したことがきっかけだ。
しかし、今の俺には、親は母親しかない。
それは鈴の父親が、再婚後に事故で亡くなったからだ。
雨の日の自動車事故だった。
事故当日、鈴と義父さんは、同じ車に乗っていた。雨が強かったため、鈴を小学校へ送り届けてから、義父さんは会社へ向かうつもりだったらしい。
小学校へ向かう途中の、大通りの交差点での出来事だった。
速度違反を起こした自動車が、雨の影響で信号を止まりきれずにスリップ。交差点を通過中の義父さんが運転する車に突っ込んだ。
死者は、自動車を運転していた男性と、義父さんだけだった。
どうやら、自動車は運転席に突っ込んだらしく、助手席の後ろに座っていた鈴は軽症で済んだ。
ただ、それがいけなかった。
意識を失うほどの怪我や衝撃を受けていれば、鈴は目撃せずに済んだのだ。
ひしゃげた運転席の中で潰れた、父親の無残な遺体を。
それ以来、鈴は乗り物にほとんど乗れなくなった。それどころか、事故直後は車を見るだけでパニックを起こしてしまうため、外出すら出来ない状態だった。
しかし今は、電車やバスは、俺や母さん、友達など、誰かと一緒であれば乗れるようになった。
ただ、自動車だけは、誰と一緒でも無理だった。自分が乗るだけでなく、俺や母さんが運転することも、鈴は嫌がった。
ただ、現実問題、俺はともかくとして、仕事をしている母さんが一切車に乗らないというのは不可能だった。だからこそ鈴も、母さんが車を運転することには、理解を示してくれている。
しかし、俺が運転することだけは、中々許容できないようで。
とはいえ、俺が運転免許を取得することを許可してくれた以上、どうしても駄目というわけではないんだろう。まあ、免許取得の説得にはかなり苦労したが。
事故で潰れた軽自動車は廃車に。元々あまり使っていなかったミニバンも維持費がかかるため売ってしまった。ただ、乗用車だけは何かがあったときのために残してある。
そんな理由で、3台あった車は1台にまで減ったわけだ。
「さて、こんなもんかな」
水と洗剤とスポンジで車体を洗い、泡を水で流してから、乾いた布で水垢が残らないように綺麗に水滴を拭き取る。
やり方があっているかは分からないが、記憶の中の義父さんは、確かこんな風に洗車をしていたはずだ。
時刻は午後4時前。ぼちぼち鈴が帰ってきても良い時間帯だ。
車を車庫に戻してエンジンを切った、その時だった。
車のフロントガラス越しに、鈴が帰ってきたのが見えた。
不味い。そう思い、慌てて車を降りようとする。こんな時まで律儀に装着していたシートベルトが、今はただただ鬱陶しい。そうして、俺が車から降りた頃には、鈴は車の前まで辿り着いていた。普段はゆっくりと動いているくせに、こんな時だけ素早い。いや、こんな時だからこそ、なのだろうか。
瞳からは、涙が溢れていた。
「兄……様。くる、ま、車は、わ、わたし……だめ、なんて、駄目なんて、言わない……から、でも……のる、なら、前もって……っ」
「鈴、ちょっと話を聞いてくれ。俺は――」
「言って、くれれば……がまん、する、から、っ。ひつ、よう、って、わかる、から、だから、おねが、い、おねがい……にいさま、っ」
こうなると、もう駄目だ。鈴にこっちの声は聞こえない。義父さんが亡くなったばかりの頃に逆戻りだ。
あの頃の鈴は俺にとって、まだ『妹』ではなく、『年下の女の子』の『鈴ちゃん』だった。
鈴ちゃんは、いつも泣いていた。
頭を撫でても、手を握っても、いくら慰めの言葉をかけても、鈴ちゃんは泣き止まなかった。
どうしたら良いのか分からず、途方に暮れていた俺に、母さんは教えてくれた。
けれどその行為は、年下の女の子に許可もなく行ってはいけない気がして、俺は躊躇った。
そんな俺を見た母さんは、一言。
『鈴は、律の妹なんだから』
もう俺は、躊躇わなかった。
「鈴――」
ひたすら俺に懇願し続ける鈴を、両手で抱きしめる。気温はまだまだ暖かいのに、鈴の体は濡れた子犬のように震えていた。
「……にい、さま」
「ごめん、鈴。ちょっと、洗車しようと思っただけなんだ。けど、車に乗る以上、予め伝えておくべきだった。ごめんな」
「ちがっ、にいさま、は、わるく――」
「ごめんな。鈴」
鈴だって、好きで取り乱しているわけではない。心と体がぐちゃぐちゃで、どうにもならなくて、辛いんだ。
この場は、俺が悪いってことにしておかないと、きっと鈴は自分を責める。
何も悪くないのに、取り乱して俺に迷惑をかけたと、自分を責めてしまう。
だから今は、どっちも悪かった。そういうことにしておく。
そして落ち着いたら、俺からもう一度謝ろう。
悪いのは全部、俺なのだから。
「鈴、ごめん」
「ううん……わたし、こそ、ごめん、な、さい」
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