「第6章 こんな所で何座り込んでるの」(5)

(5)


 目の前にいるのは、確かに娘の由香だった。家から出たのと変わらず制服に通学カバンを肩に掛けた姿だった。


「どうして、ここに? 学校は?」


 混乱する頭でそう質問する大樹。もっと他に聞きたい事は山程あるのに、脳がまともな質問を打ち出せずにいた。


「そんなの。お父さんだって同じでしょ。会社は?」


「いや、えっと……バスに乗り遅れて」


 追い詰められて単純な答えしか出せなくなる。

 ところが、単純に返した事で余裕が生まれたのか少しずつではあるが、脳がまともに動き始める。

 由香がどうしてココにいるのか。灰色の本に書かれた未来がズレてしまったのか?


 いや、今日まで書かれていた事には忠実に守ってきた。写真を撮って、何度も確かめた。むしろ、書かれていない事をしたからか? せいぜい思い浮かぶのは会社でのマニュアル作りや身辺整理。

 自分が死んだ後、少しでも残された人々が楽になるようにした行い。


 身勝手に死んでしまった自分の罪滅ぼし。


 その行いが未来を変えてしまったのか?


 正常化された脳が様々な可能性を考える。大樹はゆっくりと立ち上がった。あんな事があっても世界は何も変わらない。当たり前のように雲は流れて空は青い。


 立ち上がった大樹に由香は、通学カバンを開けて灰色の本を取り出す。

 本当に何て事ないぐらい簡単に。


「別に灰色の本に書いてある未来は、何も変わってないよ」


 由香が灰色の本を持っている。未来の事を知っている。せっかく正常化された脳が今度こそ、完璧にフリーズした。こんなに頭が真っ白になったのは、生まれて初めてだった。

 その様子を見て、由香がプッと吹き出す。


「お父さんのそんな顔初めて見た。取り敢えず一旦、家に帰ろ? 全部話すから」


「あっ、ああ……」


 話をするという由香の言葉に納得して、二人は家に帰る事になった。灰色の本は、彼女が再び通学カバンにしまう。本が見えなくなると、それだけで彼女が纏っていた非日常感が影を潜めた。


 住宅街を二人して歩く。数メートル進んだ所で途中でハッとした顔になった由香が、慌てた大樹の手を掴んできた。


「だって逃げそうだから。もしかしたら、その辺を走ってる車に向かって走りに出すかも知れないし」


 灰色の本に書かれている未来を強引に叶えようとしている。由香の目には大樹はそう映っているようだ。しかし今の彼には、もうそんなの力がない。


「大丈夫。そんな事はしないから」


「いや、信じられない」


 由香を安心させようと思って言ったのだが、まるで信用されていない。

 まあ、当たり前か。と、大樹はため息を吐きながらそう考えた。一歩、また一歩と足を進ませる。そして彼の右手を娘が掴む。


 娘と手を繋いで歩くなんて何年振りだろうか。


 大樹は朝の住宅街を歩きながら、ふとそんな事を考えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る