「第6章 こんな所で何座り込んでるの」(6-1)

(6-1)


「ただいまー!」


 玄関のドアを開けて由香が元気良く声を上げる。二人共出て行ったから当然誰からも返事はない。その事を何とも思わない彼女はローファを脱いで、洗面所へと向かう。


 大樹も遅れて革靴を脱いだ。スタスタと廊下を歩く由香に家に帰る直前で手を離されたのを今更ながら少し惜しいと思ってしまう。彼女が出てきたタイミングで彼も洗面所へ向かい、手洗いとうがいを済ませた。


「リビングに行って」


「あ、ああ」


 由香に言われて大樹は、荷物を持ったままリビングへ。

 遮光カーテンが閉まり、太陽光が入らず、電気が消えている為、真っ暗なリビング。それでも数分前まではいたので、まだ微かに温かみが残っていた。

 出て行った時は、もう二度と戻って来ない気でいたのに、まだ大樹は夢を見ているような現実味がない気分だった。


 大樹がリビングの電気を点けてカーテンを開き、ソファに腰を下ろす。


「お父さんもコーヒーでいい?」


 台所から由香の声がした。それに「ああ、お願い」と返した。コポコポと音を立てて、ハンドドリップされたコーヒーが用意される。途端にコーヒーの良い香りがリビングに充満していく。まるで、朝の再現のようだった。


「はい。お待たせ」


 出来上がったコーヒーが入ったマグカップ二つと小さなキットカットをトレーに載せた由香がソファ前のローテーブルに持って来た。


「キットカットだ」


 目の前に置かれたコーヒーから立ち上る香りよりもキットカットの方に声が漏れてしまった。


「何か甘い物があった方が良いと思うし、キットカットならコーヒーにも合うかなって。でもお父さんが食べてるイメージがあんまりないけど」


「いや、そんな事はないよ。食べる食べる」


 大樹は首を振って否定する。由香は「そう、ならいいや」と彼の否定をあっさりと受け入れた。そう言えば、何年も前に父と灰色の本について最初に話した時もコーヒーとキットカットだった。こんなところまで遺伝するのか。


 そう感想を抱いた大樹は、マグカップを手に取ろうとする。すると由香が「待って」と制止した。


「えっ?」


 まさかココで止められると思わなかったので困惑していると、由香が電話の子機を持って来た。


「今日、学校を休むから。先にその電話をしてから飲んで」


「ああー、分かった」


 部屋の壁掛け時計を見ると、現在の時刻は八時五十分。確かにそろそろ電話はした方が良いだろう。大樹は頷くと由香から子機を受け取り高校に電話を掛けた。

 職員室に繋がり、由香の担任と代わってもらい、彼女が風邪を引いてしまって休むという連絡をする。連絡が遅れて申し訳ないと電話口の担任に謝って、電話を切り終えた。

 現実味がない頭でも受話器の向こうから聞こえてくる学校の雰囲気に自然と口が動いた。


「はい。電話したぞ」


「ありがと」


 子機を由香に差し出すと、彼女はそれを受け取り、元の場所まで戻しに行った。

 戻って来た由香が大樹の隣に座る。

 そして「お父さんは会社に連絡しなくて大丈夫?」と聞いてきた。小さく鼻から息を吐いてから、ポケットからiPhoneを取り出して、服部係長に電話をかける。


『おはようございます。島津です。すいません、ちょっと昨夜から熱があって、朝も引かなかったので、今日は一日休みます。後でまた俺から和田と高木の両名にフォローを連絡を入れます。あっ、いえ。こちらから掛け直すので、はい。ありがとうございます、大丈夫です。それでは失礼致します』


 服部係長との電話を切ると、次は和田に電話を掛けた。


『あ、和田? おはよう、島津です。ごめん、今日ちょっと熱出たから休むわ。客先からの外線には来週に対応するって伝えて。メールも今日は返せないって言っておけば大丈夫だから。報告書の資料は八割作ってる。後は、高木君だけで作れるから。一応、完成したら送信する前に和田がチェックしてあげて、それでいいや。うん、悪い。じゃあ、また」


 二人に電話を掛けて、会社の休む連絡を済ませる。元々、死ぬつもりだったから、予め資料を作っていたのが功を奏した。あれなら残った二人でも充分に完成させられる。


「終わった?」


「ああ。ごめん」


 今度こそ大丈夫だろうと、大樹はマグカップに手を伸ばしコーヒーに口を付ける。慣れ親しんだ我が家のコーヒー。今朝飲んだので最後のはずだったのに、まさかまた飲めるとは思わなかった。


「さっき、コーヒー淹れる時に分かったけど。お父さん、洗い物したでしょ?」


「……あっ、した」


 最後だからといつもはしない洗い物をした。そうか指摘されるのか。気まずい空気がコーヒーに混ざる。由香がため息を吐いた。


「立つ鳥跡を濁さずって事?」


「まあ、最後ぐらいはって思ったから……」


「何それ。馬鹿みたい」


「ごめん」


 大樹は素直に頭を下げる。彼がすぐに謝ったのでこれ以上、怒れない由香は不満そうな顔でコーヒーを飲んでいた。そして二人でコーヒーをしばらくの堪能する。

 口からコーヒーの香りがする程になった時、彼女が「あっ、そうだ。待ってて」と一旦、リビングから出る。


 肝心の灰色の本は、リビングに置かれていた通学カバンに入っているのに何を忘れたんだろうか。彼女が再びリビングへ入る。その手には、美咲のMacBookがあった。


 美咲の願い通り、彼女のMacBookは死後、由香に渡した。

 それを由香本人は主に自分の部屋でずっと使っていて、今まで持ち出す事はしていなかった。本当に久しぶりに見た。前の持ち主がこの世からもういなくても何も変わらず、そこに存在しているゴールドのMacBook。


 それを見ているだけで、いとも簡単に美咲の笑顔が頭に浮かぶ。


 由香はそれをローテーブルに置いて腕を組む。


「さて、どこから話したらいいかな。いざ、話すってなると順番が難しい」


「由香のペースでいい。時間はあるんだから、全部説明してくれ」


 大樹がそう言うと、由香は「分かった」と一回頷く。そして通学カバンから灰色の本を取り出して、MacBookの隣に置いた。


「まず、前提としてお母さんはこの灰色の本を知っています」


「美咲がっ!?」


「うん。お母さんの日記に書いてあったから」


 由香はMacBookを開いて、パスを入力する。そしてFinderの中にあった、Wordファイルを開いた。タイトルには【美咲日記】と書かれていた。

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