「第6章 こんな所で何座り込んでるの」(3)
(3)
予め自分の命日が決まっているというのは、ある意味ではとても助かった。
何故なら、それまでにやるべき事を全て済ませておく事が出来るからだ。灰色の本に書かれている事は勿論、空いた時間で他に出来る仕事を順次片付けた。
水曜日、灰色の本に書かれていた通り、和田が休んで2日目。大樹は高木と彼の仕事のフォローに追われていた。和田が中心となって関わっていた仕事もあり、出来る限りのフォローはしているが、逆にこちらの案件が中々進まない。
時刻は二十三時を過ぎている。既にフロア内に大樹と高木以外の社員はおらず、二人が座っている席以外は、照明が落とされていた。
「島津さん、代行会議の議事録出来ました。確認をお願いします」
「あいよ」
高木に言われて彼が作成した議事録に目を通す。以前から何度か代行会議の経験があるので、今日も任せて正解だった。回数が増えた事で洗練されて見やすくなっている。
「……よし。大丈夫」
「ありがとうございます」
「先方には俺からメールするよ。どう? 今日は帰れそう?」
「はい。これで何とか帰れると思います」
まだ水曜日だというのに高木の顔からは金曜日かと思うくらいに疲れが見えていた。高木がこれまでに残業したのは、定時から二時間が最長だ。
二十三時越えはまだ経験がない。
「ごめんな。疲れる事させて」
「いえ、大丈夫です。良い経験ですよ」
「一応アドバイスとしても言っておくと、二十三時退社は何度か経験すると、体が自然に慣れてくる。そうしたら定時までがあっという間に感じるから」
これまで経験を高木に説明する。それを聞いて彼が小さく笑った。
「覚えておきます。じゃあ、すいません。お先に失礼しまーー」
「ああ。あ、そうだ」
大樹は聞こうとしていた事を一つ思い出した。彼の言葉に高木が首を傾げる。何かを頼めば仕事はしてくれるだろうが、あまりにも効率が悪そうだった。
「何です? 何かありました?」
「いやいや。別に急ぎじゃないんだけど、ウチのチームでやる業務マニュアル。一新したんだ。共有サーバーにあげといたから、暇な時に目を通してくれる?」
「……あ、はい。分かり、ました」
マニュアルの確認をしてほしい、それも新人に。予想外の仕事を頼まれた高木が、あまり納得をしていないようだった。普段ならそういうのは上手く隠しているのに今日は、疲れのせいで見えてしまった。
「どうして自分がチェックするんだ? って顔をしてるな」
「えっ! あ、すいませんっ」
指摘されて慌てて謝る高木。その様子がおかしくて大樹は笑った。
「別に謝る事はないさ。高木君にチェックを頼むのは新人だから、このマニュアルが一番新鮮に見えてくれるだろう。違和感があったら、すぐに指摘出来る」
「なるほど。でも、責任重いですよ」
「大丈夫だって。最後には服部係長にもチェック頼むから」
自分で終わりじゃない。それが分かった高木は口から安堵の息を漏らす。
「安心しました。でも凄いですね。最近忙しかったのに業務マニュアル作っちゃうなんて」
高木に言われて大樹は首を横に振る。
「別にそんな凄くないよ。基本的には前に高木君に渡した物の修正版だし。最初にたたき台を作ったのは俺だから。最後まで責任持って完成させないとって思っただけ」
何て事ない風を装って大樹は業務マニュアルを作成した経緯を説明する。
服部係長達に一度は見てもらっている業務マニュアル。あの時に手を加えられたのは、あくまで当時に作成した範囲。
今回は、項目を増やして全体のページ数も増やした。本当は、来年の新入社員が入社するまでに完成させようと思っていた。だが、そうも言っていられなくなったので、今週隙を見て完成させたのだ。
「では、お疲れ様です」
「はい、お疲れ様」
先に高木が帰った。帰り際に「明日もあるんですから程々に」と言われて、苦笑いをするのは苦しかった。
大樹は残りの仕事を一人で片付ける事にした。和田のフォローは終わっているので、自分の後始末に追われている。取引先とのメールデータを共有サーバーに格納しておき、誰でも開けられる状態にしておく。
他にも今まで時間が出来た時にしておこうと思っていた雑務を片っぱしから進めていく。誰もいないフロアで作業を進めていると、デスクに置いていたiPhoneが鳴る。
『はい。もしもし』
『あ、お父さん。まだ仕事?』
電話の向こうは由香だった。今日はかなり遅くなるから夕食はいらないと夕方にLINEをしているので、大丈夫だと思ったが心配させてしまったようだ。iPhoneをデスクに置いてスピーカーにして、仕事をしながら通話する。
『ちょっと忙しくてな。遅くなるから夕食はいらないってLINEしたろ?』
『うん。でも、こんなに遅いのはお母さんが死んで初めてだから……』
美咲が亡くなってからも灰色の本のおかげで自分は帰れていた。
それがこういった弊害を生んでしまったのだ。
『ごめんな。俺も早く帰りたいんだけど、そうもいかないんだよ。今、フロアに誰もいないから話がしながら仕事しようか?』
『……別にいい』
『そうか』
話しながら大樹はキーボードを叩き続ける。その音が由香にも伝わっていた。しばらくすると、彼女の方から『もう電話切る。仕事頑張って』と言われて通話が切られた。
誰もいないフロアで熱心に仕事を続ける。
二年も三年も前の案件の管理データの補足や、前任者のいい加減な案件のデータも修正を続けた。雑務でも探せばいくらでも出てくるもんだ。仕事をしながら、大樹はそう思った。
この日、家に帰れた時には二十四時を過ぎていた。帰り際にコンビニで買ったおにぎりを部屋で食べて、寝支度を済ませると、すぐにベッドで横になった。
「昨日は、一体何時に帰ってきたの?」
翌朝、少し不機嫌な由香に朝食を出されながら、そう聞かれた。気まずい空気を感じつつと、熱いコーヒーを啜って口を開く。
「えっと、十二時ぐらいかな?」
「……晩御飯は?」
「コンビニで買ったおにぎりを寝る前に部屋で食べた」
「はあ?」
大樹がそう言うと、由香が声を出して驚く。
「コンビニのおにぎりを食べるくらいなら、作っておいたのに」
「いいって。食べてすぐ寝たかったし」
「今日は早いの?」
「うーん。まだ分からない。遅くなるならまた連絡する」
本当は今日も遅くなるのが確定している。でもそんな事は、現時点でとても言えなかった。
「分かった。でも遅くなるのが分かったらすぐに連絡して。ご飯作って部屋に置いとくから。コンビニで何か買うとかは止めて」
「はいはい」
心配してくれているのは伝わっているので、それ以上は言えない。大樹は素直に従って由香が作ってくれたトーストを齧った。
仕事だけじゃなくて、身辺整理も行い始めた。
銀行口座の暗証番号やクレジットカードの番号。
いつも使っているMacBook Proのパスワードを一つに書いた紙をデスクに置いておく。自分が死後、由香が見つけられるように。
そうして大樹は、当日までの最後の数日を過ごしていた。
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