「第5章 お願いしていい?」
「第5章 お願いしていい?」(1)
(1)
美咲の入院生活が始まると、いくら大丈夫だと説明しても双方の両親が家事の手伝いをするようになった。いくら仕事に追われても、流石に申し訳ない気持ちが強くなっていく。
その為、彼女の手術が終わると、これ以上は自分達でやる。
助けてほしい時はこちらから頼むと言って、丁重に断った。
実家のフォローが無くなる代わりに家事をするようになったのは由香だった。中学三年生の彼女は、周囲に教わりながら、家事の殆どを行うようになった。
掃除、洗濯、食事、アイロン。いつもはダラダラしていた由香が、学校から帰ると率先して動くようになった。
自分の勉強もあるんだから、そこまで全部やらなくていいと、大樹は話したが由香は聞かず家中の事をこなしていった。
朝、美咲の病院にお見舞いに行ってから、出勤するのとは逆で、由香は学校からの帰りにお見舞いに行っているようだ。そこで家事を美咲から教わっていた。
こっそり夜、泣きそうな声で通話しているのも見てしまったが、その事情を聞くまでは出来なかった。
大樹は、金曜日の夜になると変わらず、ウイスキーを持って灰色の本を開く。
変わってしまった未来は、そのまま続いている。だけど、仕事や家の事を考えると開かない訳にはいかなかった。
開いて、写真を撮って寝る。習慣化した現象。
だが、心労はこれまでの比ではない。
万が一、美咲が死ぬと書かれていた時の事を考えると、堪えられない。毎週、祈るような気持ちでページを開いて、死なない事が分かると写真を取り終えてから、ウイスキーを一気に飲み干して、崩れるようにベッドに倒れる。
そんな日々を過ごしていた。
「あのね、大樹。欲しい物があるの」
とある朝のお見舞いの日。美咲が唐突にそんな事を言い出した。
「うん、いいよ。何?」
「まだ何かを聞いてない内から買ってくれるの?」
大樹の了承に美咲はクスクスと笑った。
「そっか。でもまぁ一度、了承したから大丈夫。買ってあげましょう」
「MacBookが欲しいの、安いグレードので構わないから。ダメ?」
美咲が首を傾げる。大樹は、ゆっくりと首を横に振った。
「良いよ。今日、仕事の帰りに買っておく。けど何に使うの?」
正直なところ、大樹は美咲がMacBookを欲しがっているのを灰色の本を通じて、あらかじめ知っていた。
でも書かれていたのはそこまで。どうして欲しいのかは書かれていない。
「小説を書きたいなって」
「小説?」
大樹の言葉に頷いて、キーボードをカタカタと叩くジェスチャーをする美咲。彼女の手は、入院する前より確実に細く、白くなっていた。その事に気付いても気付かないフリをして、大樹は素直に驚いた。
「美咲が小説を書きたいなんて知らなかったよ」
「実は、高校から大学の三年生までは書いていたんだ。でも就活が忙しくて止めちゃってて。逆に今なら時間があるから」
「……完成したら読ませてくれる?」
大樹がそう尋ねる。すると、美咲は少し痩けた頬で笑顔を見せた。
「もちろん! むしろ大樹に読んでほしい」
「ありがとう。楽しみにしてる」
大樹がそう言うと、美咲は腕を組んで二、三頷く。
「とうとう長年温めてきた私の最高のアイディアが日の目を見る時がきたなぁ〜。作家デビューか。莫大な印税とか入ってきたらどうしよう」
「こらこら。まだ早いぞ」
ポジティブに夢を膨らませる美咲に笑いつつ、大樹はそう突っ込んだ。
「それにMacBookがあれば、由香とのLINEでやり取りがちゃんと出来るから。あの子から、よく家事を教えてって頼まれるんだけど、iPhoneの小さい画面だと、時間がかかるの」
「それは重要だ」
自分の知らないところで、どんどん成長していく由香に大樹は、微笑ましく思う。その気持ちが消えない内に腕時計を見た。
「そろそろ会社に行かないと。今日は午前中からミーティングがあるんだ」
「そうなの? ごめんね毎朝、来てもらって。嬉しいけど、無理はしないでね?」
申し訳ない顔をこちらに見せる美咲の不安を打ち消すように大樹は、彼女の頭にポンっと手を乗せる。
「無理なんてしてない。俺がやりたくてしてる事なんだ。それに仕事は順調だよ。前に話さなかった? 高木君っていう新人が入社してきてね」
「ああ、前に話してた子?」
「そうそう。彼がだいぶフォローしてくれてるんだ。まだ入社したばかりで分からない事も沢山あるはずなのに。前年度のデータも全部見て吸収してくれてる。本当、助かってる」
「そうなんだ。私からもお礼が言いたいくらい」
「伝えておくよ、じゃあ行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
家にいる時と変わらない挨拶を交わして、大樹は出勤する。
病室を出てナースステーションを通り、顔馴染みになった看護師達に頭を下げる。エレベーターを待ち、時間を確認した。今ならまだ全然間に合う。
エレベーターが到着してドアが開く。エレベーターには誰も乗っていなかった。大樹一人で乗るには広すぎるエレベーターの壁に体を預ける。
全て慣れてしまった。
家を出て会社ではなく、病院に行く為に普段降りない駅に降りる事もそこからも街並みも病院の消毒液の匂いもリノリウムの床も病室の匂いも。
手術は成功したのに、変わらず元気がない美咲にも。
「はぁ」
大樹はそれらため息に変えて、エレベーター内に吐き出す。
一階に降りる前に別の階に止まって、ため息は流れて行った。
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