「第4章 目をつむってただけだから」(5-3)

(5-3)


 定時の水曜日、地下鉄は空いていた。だが、シートに腰を下ろす事はせずにドア付近に立って過ごして、最寄り駅に到着するとすぐに地下鉄から降りた。


 最寄り駅の改札を抜けると、駅前にあるスーパーに寄り、iPhoneで調べながらお粥の材料を買った。


「ただいまー」


 玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。大樹は最初、誰もいないのかと思った。

 しかし電気を点けて、玄関に置かれた靴を見ると、美咲のと由香のがあって、二人とも家にいる事が分かる。

 安心した大樹は革靴を脱いだ。視線を上げた廊下の先にあるリビングはちゃんと明かりが点いていて、漏れた光が暗い廊下を照らしていた。


「ただいま」


 洗面所で手洗い、うがいを済ませてから、リビングのドアを開けると、そこにはiPhoneを触りながらソファに座る由香がいた。制服でいる事から彼女も帰って来てから、それ程時間は経過していないように窺えた。


 由香は大樹が帰って来ると、顔を上げる。


「おかえり」


「お母さんは?」


「部屋で寝てる。さっき冷蔵庫にあったウィダー飲んでた」


「そうか、分かった。よし、お粥を作るか。待ってろ、すぐに着替えてくる。由香もお粥で良いか? それとも何か出前でも取るか?」


 大樹はお粥を食べるつもりだったので、昼間に由香にLINEした時に何も聞かなかった。もし、彼女が出前を取りたいと言うなら、自分もそれに合わせて一緒に食べればいい。彼がそう尋ねると、由香は首を左右に振る。


「ううん。私もお粥がいい、一緒に作りたい」


 一緒に作りたいと訴える由香の目線は強くて、大樹には断れなかった。


「いいよ。じゃあ一回、二人とも着替えようか。すぐに台所に戻って来る」


「うん」


 大樹の許可を貰って、笑顔になった由香はすぐに部屋へと戻って行った。買ってあげて以来、どこへ行くのも常に持っているiPhoneをソファに置いたままで。

 それだけ美咲を心配しているのが伝わる。


 大樹も部屋に帰り、部屋着に着替えてから、リビングへ。

 リビングへ戻る前に一度、美咲の部屋のドアを開けて彼女の様子を窺う。部屋は真っ暗で眠っているようだった。起こしては悪い、そう考えてすぐにドアを閉める。


 リビングに戻り由香と二人でお粥を作り始めた。

 一人暮らしの時に何回か作った経験はあるが、結婚してから一回も作っていない。iPhoneでスーパーで材料を確認する時にも確認したお粥のレシピサイトを頼りに二人で作っていく。きっと美咲が後ろから見ていたら、色々言いたくなるだろうなと思いつつ二人は、お粥を完成させた。


 戸棚にあった小さな土鍋にお粥を入れて、大樹は美咲の部屋へ向かう。(由香が自分が持って行くと言ったが、風邪が伝染するかも知れないからダメだとストップをかけた)ドアの前でノックを二回。彼女からの返事はない。


「美咲、入るぞ」


 そっとドアを開けて、彼女の部屋へ。ベッドで眠っていた彼女は、大樹が入って来た音で目を覚ました。


「あっ、お帰りなさい」


「ただいま。お粥作ったけど、食べられるか?」


 デスクのスタンドライトを点けると、オレンジの明かりが部屋を包む。美咲はベッドからそっと体を起こした。サイドテーブルには薬とポカリスウェット。そして、空になったウィダーが置かれていた。


 美咲の顔色は朝よりも明らかに悪くなっている。それでも彼女は大樹に、笑顔を見せてくれた。


「由香とお粥作ってきたんだ。二人で味見しながら作ったから、味は大丈夫なはず」


「ありがとう。二人の料理が食べられるなんて、ラッキー」


 サイドテーブルに置かれていた物をデスクに置いて、代わりにお粥を載せたお盆を置く。


「よっこいしょ」


 美咲がゆっくりと体を起こしてサイドテーブルへ向けた。大樹が彼女の背中を後ろから支える。彼女の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。


「結構、汗かいてるな。後でお湯で濡らしたタオル持ってくるよ」


「うん、ありがと」


 疲れ切った様子の美咲。顔は笑顔だが彼女の手は、中々レンゲに伸びない。


「起きたばっかりでまだ食欲は湧かないか」


「……ごめん。温かい内に食べたいんだけど」


「良いんだ。美咲の体調が一番大事なんだから、食べれる時でいい。部屋に置いてて平気か? 匂いとかダメなら一回リビングに持って帰るけど」


「……ごめん」


 申し訳なさそうに美咲が頭を下げる。少しでも反応が遅れると、意図していない感情を思われる可能性があるので、大樹は「大丈夫」とすぐに顔を左右に振った。


 水だけを置いて、お粥が入ったお盆を持って部屋を出て行く。出る時に「食べたくなったら、いつでも構わないからLINEで言ってくれ」と美咲に言うと、「うん」と弱々しく首を縦に振った。


 何も食べないより何かを胃に入れてほしかったが、無理に刺激して吐かれてもしょうがない。今は美咲の希望を叶える方が優先だ。

 大樹はそう考えて部屋に戻る。リビングに戻ると、お粥を持って帰ってきた大樹に由香が心配そうな顔を向けた。


「お母さん、食べれないの?」


「あまりお腹空いてないって。仕方ない、起きてすぐだったし。少し時間を置いたら食べたくなるかも知れない。それまで待とう」


 大樹はお盆ごと、台所の一角に置いた。


「さて、母さんだけじゃなくて俺達も食べるか。今、皿によそうから」


「うん」


 大樹の言葉に弱々しく頷く由香。それは彼女なりに気を使っている証拠だった。

 美咲はインフルエンザではないにしろ、いつものより厄介な風邪にかかってしまったようだ。


 大鍋の蓋を開けると、まだ充分にお粥は温かい。これなら温める必要はない。卵と鰹節の良い香りが目の前に広がる。

 大樹は温まった鍋から二人分の取り皿にお粥をよそった。

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