「第4章 目をつむってただけだから」(6-1)

(6-1)


 翌日も美咲の風邪は一向に治らず、それどころかどんどん悪化していく。

 かかりつけの病院で処方された薬を飲んで、僅かに回復した食欲でお粥を食べる。家の事は、何も心配しなくていいからと安心させる事しか出来ない自分が酷くもどかしかった。


 結局、美咲の熱はまだ下がらず、加えて節々が痛いと言う訴えもあり、書いてもらった紹介状を元に総合病院で検査を受ける事になった。

 検査当日は有給を取り、美咲に付き添った。こんな出来事は、灰色の本のどこにも書かれていなかった。


 大学病院で検査を待っている間、待合室のソファに座る大樹。膝の上には会社のノートパソコンがあり、リモートで仕事を行っていた。

 当たり前だが、会社にいるより進みはずっと遅い。灰色の本で作った時間的猶予も使い切ってしまって、仕事が後手へ後手へと回ってしまう。和田と高木がフォローに入ってくれているおかげで何とか維持出来る現状だった。


 ノートパソコンの右下には日付と時間が表示されていて、今日は金曜日だった。夜にはまた灰色の本を開いて、来週の未来を確認する作業に入らなければならない。


「はぁ」


 大樹は小さくため息を吐いて、ノートパソコンをパタンと閉じる。未来を見始めてから、この一週間が一番長く感じた。今まではビデオの早送りのように勝手に進んでいた日々が砂時計のように遅い。

 やっと金曜日だという気持ちすらあった。今夜には確認が出来る。


 大樹がそう考えていると、看護師の女性が大樹を呼んだ。先生から検査結果の話があるとの事。「分かりました」と答えて、大樹はノートパソコンをビジネスリュックにしまって、案内された部屋に入る。


 白髪混じりの短髪に黒縁メガネを掛けた男性の医師から、美咲の検査結果について話を聞かされる。

 彼女の病名と入院の手続き、手術のスケジュール。

 それと五年生存率について。


 説明されている一つ一つの単語の意味は理解出来ているのに、頭に留まらない。

 穴の空いたポイで金魚すくいをしているような感覚だった。途中、何度も「大丈夫ですか?」と聞かれて「はい」と仕事で培った顔で返事をする。


 美咲は既に病室にいるとの事。書類等の手続き関係を済ませて、大樹は帰る前に彼女の病室へと向かった。個室ではなく四人部屋だったが、どのベッドも空いていて、大きい部屋の隅にポツンと美咲一人が眠っていた。


 大樹が美咲の寝顔を覗いていると、気付いた彼女がゆっくりと目を覚ました。


「ごめん。起こしたか?」


「ううん。目をつむってただけだから」


 美咲の顔色は家で寝ていた頃よりも若干良くなっていた。その代わりに左腕には点滴が繋がっていて、着ている服も空色の患者衣に変わっていた。


「顔色、ちょっと良くなってる」


「本当? やった嬉しい」


 横になりながら、美咲が弱々しい笑顔で喜ぶ。


「私が着てた服。足元の紙袋に入ってるから、持って帰ってくれる?」


「ああ」


 二人の間でそれだけを交わして、沈黙が流れていく。それがとても嫌なものに感じて、大樹は「ほらっ」と口火を切った。


「家の事は本当に心配しなくていい。この数日で由香も手伝ってくれるようになったし、俺だって一人暮らしの経験があるんだから家事ぐらい余裕だよ」


「ふふっ。本当に?」


 元気付けようとした余裕という発言に美咲が静かに笑う。そんな事が嬉しかった。


「もちろん。だから美咲は体を治す事だけに専念してほしい」


「うん。手術するのは、もう決まってるんだよね?」


「大丈夫。手術さえ出来ればすぐに治るさ。だからまずは体力の回復に努めてくれ。辛いけど、皆で頑張ろう」


 そう言って大樹は美咲の手を握る。すると彼女も握り返してくれた。


「ありがとう。でも先生も言ってたよ。発見がとても早くて凄いって。風邪と似てるからって見過ごしてしまう人が多いのにって」


 美咲の言葉に大樹は胸が締め付けられる思いになる。

 違うんだ。俺が余計な事をしたからこんな事になってるからで。

 本来は、インフルエンザで終わる予定だったんだ。


 喉元まで出かかったその言葉を飲み込む。唾液がとても毒ように苦くて吐き出したかった。けれど、無理をして飲み込んだ。少しむせたけど、咳のフリをして逃げた。


「あらら大樹も風邪? 私が言うのも何だけど、すぐに病院に行かないとダメだよ」


「何言ってるんだ、ココが病院じゃないか」


「あっ、そう言えばそうか」


 突っ込まれて、自覚した美咲はクスクスと笑う。それにつられて大樹も笑った。二人して少し笑ってから、「さて、」と大樹は腰を上げる。


「そろそろ帰るよ。明日からは出勤前に顔を見に来る。何か必要な物があったら、LINEして。叶えられる願いは何でも叶えるから」


「わーい、ありがとう。またLINEするね」


「ああ。じゃあまた明日な」


「うん。また明日」


 美咲と別れて、大樹は座っていた待合室に一度、腰を下ろした。

 これからやる事が沢山ある。

 会社への連絡、由香への連絡とフォロー、親族への報告。

 考えれば考える程、無限に積み上がっていく。


 思わずクラッとしたが、幸い自分には灰色の本がある。

 あれがあれば、取り敢えずは大丈夫だ。一度、裏切られてしまったにも関わらず、大樹は今なお、灰色の本による未来を信じていた。

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