第20話
「ハ、――、ハンス……今この場で答えを出さずとも良いのです」
声も身体も震えている彼女は、初めて国を出て外国の王侯貴族や聖職者達と見えた連合主催の夜会に出席した時、或いは二年前にこの王都への侵入を許してしまった聖職者達、その頭目たるルチアーノ大司教を前にした時以上の、掛け値無しに全力の意志力を注ぎ込んで心を抑え込んでいた。
だが、そこまでしても普段政治の席で見せている笑みとすら比べられないほど無理が透けているような、まさに『見ていられない』笑みしか作れておらず、衣を強く握って身体に走る寒さとは別種の震えを抑え込む姿は、親とはぐれて道に迷った幼子のようだった。
「教団が表立って動き出した以上我が国としても立場を明確化せねばなりません。明日から一週間後には御兄様達が戻ってきますのでそれまでに考えが変わったのならば私の元に来て下さい。その時は今までのように秘密裏に訪問する必要はありません」
早口に捲し立てて反論と嗚咽を抑え込んだセフィーは、耐えかねて溢した雫を見られないように、或いはハンスから初めて向けられた攻撃的な視線から逃れるように背を向ける。
その凍えたように震える小さな背中を前に、少年騎士は沈黙したままだった。
「――……先に戻ります。貴方は此処から直接戻りなさい」
何かを期待するような沈黙を打ち破った少女は、短く言い残すと微かに雫を散らしながら通路が潜む物陰へと走り去って行った。
対して、足早に駆けて行く白い後姿を見送る事しかできず、月光が降り注ぐ石畳の上に取り残される形となったハンスからは、先程まで眼や身体に宿っていた力が抜け――それどころか枯草と見違えるほど虚ろな気配が漂っていた。
冬が明けてから幾許も無いこの時期に吹く夜風は、凍えたように力無く佇む彼の心身を蝕むかのように白染めの石道を吹き抜けると、青と緋色の裾を落ち欠けの木の葉のように揺らす。
と、不意に少年の放散する空気が固く張り詰めた。
育て親からの
そのまま野山で獲物を追うように気配を殺して音も無く訓練所の裏口へと回り込み、扉の開閉音さえさせずに建物内へと侵入した。
「――勘違い……じゃぁなさそうだな」
静謐が支配する建物内に漂う微妙な気配の残り香を嗅ぎつけたハンスは、その残滓を辿って屋外戦闘場に通じる扉の前を横切り、上階へ続く階段を上った。
寝込みを狙う暗殺者の如く無音のまま移動する彼が辿り着いたのは、上階の広間、そこの屋外戦闘場を見渡せる大窓の反対側にあるはめ殺しの小窓だった。
この広間に辿り着いた時点で、ハンスは建物内が既に蛻の殻であるとほぼ確信していたが、悪趣味な覗き魔の手掛かりを探る為にも足は止めなかった。
そうして、小窓の方から漂ってくる匂いを嗅ぎながら射し込んでくる月明かりの中へ踏み出した瞬間、ハンスの足裏から床板の微かな軋みが響いて彼は反射的に歩みを止めたのだが、その音に思い当たる節があったらしく神妙な表情で足元の床板を見詰めていた。
(セフィーに……その、迫られた時に聞こえてきたのはコレか……しかも、漂ってんのは胡椒やらシナモンやらの香辛料に、肉とかオリーブとかさっき喰った食べ物の残り香ばっか……)
何度か踏み鳴らして納得したハンスは視線を窓枠へと戻して近寄り、その窓から先程の密会現場を見下ろせる事を確認しつつ、周囲の床や壁や窓を手早く調べていった。
(窓ガラスに付いた手跡の高さが大体俺の首辺りって事は、身長は六フィート前後ってトコか……そんで壁に引っ掛かってた糸屑は緋色、……つまり、覗き魔は身長六フィート前後で、緋色地の服着てさっきの祝勝会に出てたヤツ、ってワケか……、んん、緋色? 王国騎士制服のマントか?)
自分の分析結果に肩透かしを食らったハンスは、放られた玩具を見失って首を傾げる仔犬のように首を捻っていた。
(てっきり教団の人間か
手掛かりを辿ってそのまま狩りに移行しようとしていた矢先、犯人が味方側の人間――王国にとって外部に教団と言う強大な外敵が居るおかげで、国内の首脳部は王家を中心に一枚岩と呼べるほどの団結状態にある――と知って脱力してしまったハンスだが、先程の王女殿下との遣り取りを思い出して一人で勝手に消沈していた。
ハンスにとって王女殿下から受けた要請は、それこそ雷に打たれるような衝撃的なものだったのだ。
それが一転して大陸中を巻き込む大戦争の話へすり替わった所為で、感慨に浸る間も無く断る羽目になってしまい、彼の頭は滅茶苦茶になっていた。
それこそ、『すぐ近くに居た筈の窃視犯に八つ当たりして発散しよう』などと物騒極まりない事を考えてしまうぐらいに。
しかし、その目論見も未遂に終わってしまった今、ハンスの脳内は再び激しく乱されていた。
即ち、騎士としての地位と名を下賜して下さった主君の要請を断ってしまった後悔と、自身の故郷を奪い去ったのと同じ『地獄』を引き起こそうとする主君への抵抗感の二つによって、である。
……それ以外の要因など皆無である。
全く、断じて。
そもそも、ハンスがこの王国へ戻ってきた――彼が生まれた農村はエルレンブルク領内だった――当初、旅人を辞める気など、増してや戦争で生計を立てる兵士、それも故郷を滅ぼした者達と同じ騎士になるつもりなんか欠片も無かった。
だから、二年前の
そうやって参加してしまった
寧ろ、ハンスだからこそ……
いずれ代々続く仕事と共に継ぐ筈だったライ麦畑も馬や羊も、小さな農村の中だけが世界の全てだった幼い彼をいつも温かく迎えてくれた両親ごと失って、自身が辿る筈だった生き方を何もかも亡くしたハンスだからこそ……
そして、偶然出会った老人から数年がかりで叡智と戦う術を授けられ、未来に対する様々な可能性――人生の選択肢を得てしまったハンスだからこそ、世襲制が当たり前のこの御時世で自分の生き方に迷い得たし、今現在も望まざる事ながら頭を悩ませているのだ。
(……やっぱ、断るべきじゃなかっ――
「……いや、今更何言ってんだ下らねぇ」
ふと、身の内で迷いに付け込むように漏れ出した後悔と騎士にあるまじき欲の
(何が『下らねぇ』だよバカ野郎。その『下らねぇ』言葉の所為で、テメェの『下らねぇ』未練の所為で泣かせちまったんだぞ。セフィーの前で騎士になっておいて、セフィーに貰った名を語っておいて、テメェの方こそ今更何言ってんだ! あんな顔させちまうぐらいなら、下らねぇ未練なんか棄てちまえ。なぁ、『ハンス・
「アホか、それこそ『下らねぇ』。テメェが身に付けた力も知識も、全ては皆に助けられたこの命を生かす為のモンだろぉが。それを他人の、それも好き好んで戦争なんぞ起こそうとするイカレた王女様の為に使う気かよ。『下らねぇ』どころか最低だクソッタレッ」
自らに投げ付けられた問いを文字通り斬り捨てるかのように、苦々しく歪んだ顔のまま左腰に吊るした二振りから一つを抜き放ち、一般的な刀剣よりも短めな一フィート強の刀身を月明かりの元に晒した。
(いぃや、テメェはさっき教団の拷問殺人を弁護してたが、本気でアレを戦争よりマシだって思ってんなら、イカレてんのはテメェだよ、ハンス・ヴィントシュトース。ロームルでの事を思い出せよ。あの悲鳴と哄笑を聞けば、あんな街中で流されちまった血と涙を見れば分かんだろぉ? アレの正体は法に則った正当な裁きなんかじゃぁなく、教団の御偉方が自身にとって都合の悪い連中を
――ビュッッッ!!!!!!
「うるせぇよ。誰かが死ななきゃいけないってんなら、争いを引き起こした張本人達がッ!! 剣を振り回した連中こそが死ぬべきだろうがッ!! 何も知らずただその日その日を懸命に生きていただけの人間がッ、踏み躙られて良いワケがねぇんだッ!!」
唐突な風切り音は青緋の少年騎士がガラス窓に映った虚像の首に一閃を振るった音だったが、幸い、少年に幾分かの理性が残っていたらしく、その一振りで壁や窓が斬り裂かれるような事態には至らずに済んだ。
ただまあ、今のハンスの姿を見る者が居れば……きっと彼の精神状態を心配しつつ、何も言わずに生暖かい眼差しを向けて去るか、教団関係者なら教会へ連れて行ってから有り難い説法を聞かせてあげるのだろう。
耳が痛くなるほど静まり返った空気の中、暫しの沈黙の後で自らの奇行にやっと意識が向いたらしいハンスは、『下らねぇ』と吐き捨てるように嘆息し、月光を鈍色に染める黒い刃を二本目の柄が伸びる鞘へと納めた。
「……何にしろ、今ココで考え続ける必要はねぇ、か……取り敢えず、さっさと戻って寝ちまうか……ブルンベルク兄妹との約束もあるワケだし……」
さっきまでの独り言よりも若干音量を下げつつ口にした言葉は、そうして口に出す事で意識の切り替えを図っていたのだろう……成功するかどうかはさて置いて。
踵を返して降り階段を見据えたハンスは、月明かりの届かない部屋隅と同じような暗く沈んだ表情のまま、重くなった靴底を引き摺るように歩を進めて行った。
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