第15話

「……二年前のフライブルク防衛戦を覚えていますよね? 見習い騎士エクスワイヤだった貴方が初めて出兵し……そして、幾万の敵が迫る撤退戦でのが認められて騎士となった、あの戦いです」


 微妙に強調された部分に宿る少女の機微に苦笑してしまいそうになりながら、それを隠すためにハンスは星が輝く黒い天蓋を仰いだ。


「勿論。あの戦いを生き残ったおかげで、君から『疾風ヴィントシュトース』の名を貰ったんだからな」


 再び王女へと向けられた少年の顔にあったのは、一瞬前までの誤魔化すような苦笑でも、普段の強気な片頬上げの笑みでもなく、年齢よりも一層幼く見えてしまうほどあどけない喜色満面のはにかみ顔だった。


 窺うように上げていた目線を奪われ、図らずもその屈託の無い笑みを脳裏に焼き付けていたセフィーだったが、ハンスがそれに気付く前に両眼を強く瞑って煩悩を振り払うと、何とか気を取り直して応答を再開した。


「そ、その撤退戦が始まる直前、王国騎士大隊敗北の報せが届いた事で王宮内は蜂の巣を突いたような大混乱となりました。何しろ半世紀もの間、常勝不敗の称号を恣にしていた王国騎士団の敗北など、私を含め誰一人想像しておりませんでしたからね」


 微妙に上ずり掛けていた語り始めを聞いて内心首を傾げていたハンスだったが、後半の口調に自嘲の響きが混ざっていたのが看過できず、咄嗟に口を開こうとした。


 しかし、彼が声を発する前に静かに翳した掌でそれを抑えると、セフィーは『大丈夫です』と言わんばかりの淡い笑みを浮かべた。


「結局は私達が具体的な対応に移った直後、フランキス軍の潰走が報告されて事無きを得ました……ただ、その『具体的な対応』が問題でした」


 一旦言葉を区切ったセフィーは語りながら己の失策を思い出して悔しげに息を詰まらせたが、気遣わしげなハンスの顔をこれ以上曇らせない為にもすぐに応えを再開した。


「各領地を警護する第二や王都内を守護する第一を除く三部隊を結集した騎士大隊が敗れたとなれば、フランキスの進軍を阻める戦力は我が国には存在しません。となれば、我が国に残された道は各地に散った第二と王都の第一の二部隊で勝算の低い戦を続けるか、連合の、いえ、教団の政治的干渉を許してでも聖騎士団の協力を取り付けるかの二つに一つでした」


 努めて何でもないふうを装うセフィーを前に、ハンスからはいつもの軽口は出て来ない。


 それどころか、アイクやファルカが見たら別人が化けているのではないかと疑いそうなほど神妙な顔付きで、王女殿下の鈴が鳴るような声音で紡がれる話に聞き入っていた。


「私達はこの国を守る為にリスクを承知で後者を選びましたが、想定していた通り、協力を取り付ける見返りとして教団側から幾つかの条件が提示されたのです」


「その条件の一つがさっきのってわけか……確かに戦で消耗しちまった直後の王国騎士団だけが国防の要ってんじゃぁ、勝った所ですぐまた別のトコに攻め込まれてたかもしんねぇから、何も間違っちゃぁいねぇ……いや、寧ろ、正しい判断だったと思うがな。それに、戦の責任は作戦やら方針やらを決めた指揮系統にだけじゃなく、俺達みてぇな現場で実際に戦況を左右する立場に立った連中だって負うべきだろ? だから、まぁ、そんな暗い顔する必要ねぇさ」


 教団に対して付け入る隙を作ってしまったと、自らの選択を悔いているセフィーを前に、ハンスの舌はいつも以上に滑らかで、その声色はやっぱり柔らかである。


 それらに励まされたらしいセフィーはもう一度彼との距離を縮め直すと、表情に微かな悪戯っぽさを漂わせつつ古傷や剣ダコで硬くなっている温かな掌を捕まえた。


「――やっぱり、貴方は優しくて誠実ですね……でも、どうせ庇ってくれるのでしたら『自分達が全部背負うべきだ』くらいに言ってくれても良かったでしょうに……」


「ぃ、いや、流石に政治素人の脳筋が一から十まで背負えるほど、国の命運ってヤツは軽くねぇだろ? そ、それに、権力には剣も槍も分が悪いだろぉし……」


 詰め寄られて触れられて、再び窮地に立たされたハンスにはセフィーの冗談をいつもの皮肉で流す余裕さえ消し飛んでいたようで、彼の返事は『らしさ』の欠片も存在しないがその分だけ素が現れた切り返しとなっている。


 緊張で上擦った声音となんとも覇気の欠けた口調になってしまったハンスが赤い頬を隠すように顔を背け、しかし、両手が捕まっている所為で動揺した時や誤魔化したい時に見せる頬の傷を掻く癖ができず、その代わりなのか、傷がある左頬を小刻みに痙攣させてしまっており、それを間近で覗くセフィーの口元は中々に緩んでいた。


「御免なさい、悪巫山戯が過ぎました。確かに騎士には騎士の務めが、為政者には為政者の務めがありますからね」


 素直な謝罪とは裏腹に捕まえた両手を胸元に抱き寄せて離さないセフィーは、自らの頬に赤色を上らせながらも、そっぽを向いたままの傷顔を見上げる。


 すると、少女の目論見通りの光景が彼女の目に飛び込んできた。


 具体的には、王女殿下の柔らかな感触と春の夜風の元に居るとは思えないほど上気した温もりに仰天したハンスが、囚われた両手を見下ろして目を見開きながらも無理矢理振り解く事もできず、さりとて顔を緩ませるわけにもいかず途方に暮れている姿である。


「そう、私には決断を下した責任があります。それに、一国の王女として国の為にこの身を捧げる覚悟も済んでいます。ですが、このまま教団の思い通りに事を運ばせてしまえば、いずれ遠くない内にこの国は教団の手に堕ち、他の連合国と同様に一国家としての繁栄も民の幸福も何もかもが失われる事でしょう」


 彼の様子に気付いていなかったかのように顔を伏せたセフィーは、滔々と言葉を紡ぎながら抱き寄せた掌を逃がさないように握り締める掌へ更に力を籠める。


 この時点で漸く普段より一回りも二回りも積極的過ぎるセフィーの態度に違和感を覚えたハンスは、断崖を繋ぐ吊り橋並みに揺さぶられまくって絶不調な思考を押して、彼女の真意を推理するが、


「――ですので、ハンス、この国の未来の為、延いてはこの国に住まう全ての人々の為に、貴方の力を貸してほしいのです。引き受けて頂けますか?」


 ただでさえ綱渡り状態だった頭に、王女殿下直々の要請までもが畳み掛けてきてしまっては、流石の『真紅の疾風ブルート・ヴィントシュトース』も、


「――っ、も、勿論、セフィー直々の御指名とあれば何だってやって見せるさ」


 数多の敵影が蠢く戦場へ単騎で挑むその姿勢が嘘のように、二つ返事で唯々諾々と従ってしまうだけだった。

 更に言えば、迂闊にも要請の内容を確認せずに、だ。


「……有難う御座います、ハンス。でしたら――


 いや、基本的に王族の命令に対して仕える側の騎士は絶対服従なのだから、命令の内容に是非など言えないし、そうでなくとも、今の首振り人形――勿論、縦振りである――と化しているハンスに否など言える筈も無いのだが、それでも、今回ばかりは王女様が何を頼むつもりなのか予め確認しておくべきだっただろう。


 何故なら、意を決したように羞恥で赤く染まる顔を上げ、数インチ先の赤面を見詰めたセフィーが――



「――わ、私の……夫になって下さいっ!!」



 ――などと言い出したのだから。


 翠の瞳が真っ直ぐ見上げる中、今度こそハンスは完璧に言葉を失い、比喩でも冗談でもなく思考を白滅させられていた。

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