第16話

 カエルム教は大陸一の勢力を有する宗教組織だが、その起源はさほど古くはない。


 元々は千年以上前に実在したとされる『神に遣わされた救世主』を信仰する大陸発祥の宗教だったのだが、およそ四百年前に発生した大厄災によって大陸全体で人口の三分の二が絶滅した事件を受け、その宗教は急速に力を失った。


 大陸各地で発生した力持つ国々での民衆への自由意志の弾圧とも言うべき支配的統治と、その国々が自国の勢力拡大を目論んで引き起こした大規模な戦乱。

 その戦乱を見計らったかのように発生した異常気象による大飢饉と、枯野に燃え移った炎のように大陸中へ広がった疫病。


 身分も能力も老若男女さえも問わずに降り注いだ厄災は、当時の様子が綴られた文献にて黙示録の顕現として描かれており、人々は藁にも縋る思いで祈りを奉げたが、その祈りが聞き届けられる事は無く、バタバタと死人が積み重なっていったらしい。


 大陸中に諦念と絶望が満ちるまで大した月日は掛からなかったそうだが、誰もが救いを齎さぬ無意味な信仰を捨てたその時、まさにカエルムからのものとしか思えないような救いの手が差し伸べられたのだ。


 カエルム教の聖書によれば、は旧約聖書に登場する純白の翼を持つ天の御使いそのものと言える姿だったと綴られている。


 その超常の存在は救いを求める人々の祈りに応え、生者の為に厄災を振り払い、死した者達の魂を天の国へと導いたと伝えられており、その天使の降臨によって権威を取り戻した教団はその名を天導祝福カエルム教と改めて再興を果たしたのだった。


 このような経緯で大陸中に広く浸透したカエルム教は当然の如く各地に拠点を持っていたが、神聖イウロピア帝国崩壊後から連合発足までに勃発した戦乱によって、連合設立当時のエルレンブルク王国内では教団所有の建築物が殆ど失われていた。


 しかも、連合発足と同時期に行われた賢者による技術的文化的革新により、王国内に於ける教団の影響力が排され、教会の建設計画は国内でも辺境の地へと追いやられていたのだ。


 だが、二年前のフランキス帝国の大規模侵攻で得た『譲歩』により、教団は王国の首都であるクヴェレンハイム内での教会建設を推し進める事に成功しており、つい十ヶ月前に完成したその建物は教団関係者にとって王国内での新たな活動拠点となっていた。


 教団本部から大司教の地位を与えられたリカルド・ルチアーノもまた、王宮を囲む城壁のすぐ傍に建てられたその教会施設を利用している一人なのだが、今彼が居る部屋は彼が背負う肩書には相応しからざる薄暗く陰気な雰囲気を持つ個室だった。


「――――――――――――………………………………」


「……そうですかそうですか、このような夜更けに態々有難う御座いました。御蔭で我々も貴方も救われる事でしょう」


 授与式や祝勝会ではゴテゴテとした宝飾品を身に着けていたルチアーノだが、それらの面倒事も終わり、その会場からも帰って来た以上、重苦しいそれらを身に着け続けるつもりなど無いらしく、今は白地に金の刺繍が施された高位法衣のみを纏っている。


 そんな彼が居る二ヤード四方の小部屋は、扉の反対側の壁が衝立を挟んで隣の部屋と繋がっており、その薄壁によって顔を隠した教徒の罪の告白を受け、その者の悔い改めと回心を認めた神から授かった『悔悛の秘蹟』を受け渡す告解室だった。


 本来なら週に一度開かれる『主日の礼拝ミサ』開催前後に教団から任命された神父がこの部屋に入り、教徒達の告白を受ける事になっていたが、『秘密を打ち明ける場所』と言う性質上この部屋の機密性は高く設定されており、それを利用する為に法衣の老人はこの部屋を選んでを迎えていたのだ。


「――――――――――――――――――………………………………………………」


「フフ、フフフ、そうですねそうですね、至急対策を執るとしましょう。貴方にも御手伝い願えますかな?」


 衝立に阻まれて微かに籠った響きのある客人の報せを受け、ルチアーノは綿と絹織によって滑らかなで柔らかな造りの背凭れを持つ肘掛け椅子へ身体を預けつつ満足そうな笑みを溢した。


 その声音も正面の相手には見えていない表情も、普段人前で見せているものと同じ穏やかさに包まれていたが、衝立を挟んで簡素な丸椅子に座る客人はその笑い声に何とも言えない不気味さを感じ、一瞬だけだったが思わず言葉を濁らせてしまった。


「、――――――………………」


「ええ、ええ、我らが往く先に神の祝福があらん事を――」


 不安、或いは恐怖を誤魔化すように短い言葉を残して席を立った客人を慈愛に満ちた声で送り出すと、残された法衣の老人は座したまま手を伸ばして衝立上部の扉を閉め、衝立の前に取り付けられた簡易机の神の血ワインで満たされたグラスを手に取った。


「いやはや、神ならぬ身の愛は何とも業の深いものですねえ」


 予め客人を待つ間の肴としてボトルごと持ち込んだそれを静かに乾すと、日向で寛ぐ好々爺と言った風情で微笑む老人の背後からノックの音が届いた。


 それを聞いた所で席を立つ事も表情を変える事も無く、教団有数の権力者はボトルを傾けてグラスを満たしながら入室を許可する。


「――入りなさい」


 短いが素っ気無さなど欠片も感じられない優しげな声に応じて扉を開けたのは、首元や裾などが白い布で縁取られたカエルム教の神父服を纏う大男だった。


 三十代前半から中盤ほどと見られるその男は、明らかにただの聖職者らしからぬ厚みのある身体をしていたが、八フィート近い巨体を巧みに操って四隅の灯火を全く揺らさずに素早く入室すると、紅い美酒の香りなど気にせず淡々と報告を開始した。


「失礼します。ルチアーノ大司教、御指示通りに手配の方は完了致しました。また、黒羽部隊コルウスマヌス暗殺部門ロストルム』から二十名が現地に到着したと報告が上がっております。それから、此方が本部からの書簡になります」


 望み通りの順調な報告に軽く酔いが回り掛けていた頬を更に緩めた老人は、男の立ち位置では見えないと分かっていながらも策の成功を祝うように大形な動作で頷き、背後から差し出されていた書簡を受け取った。


 年相応に老けた顔から意図的に表情を消している巨漢も、その態度を当たり前のものとして受け止めている。


「結構結構。これで教皇様も御歓びになるでしょう……これは……!!」


 ルチアーノは丸められた羊皮紙を見て――いや、その羊皮紙を留める紅い蝋を見て驚愕に硬直しながら絶句した。


 何故なら、その封蝋に刻まれていたのは教団に於いて教皇に次ぐ権限を持つ枢機院の紋章であり、即ち、この羊皮紙が教団中枢直々の文書である事を示していたからだ。


 ヴァスコールの教団本部に飾られていた紋章と同じものが刻まれた封蝋を剥がし、書簡を丁寧に広げた老人の顔からは酔いの朱が抜け去っており、彼は背後に控える壮年神父の存在など忘れたかのように、身を乗り出しながら綴られた文字列に視線を走らせた。


 一分と待たず読み終えた羊皮紙から視線を外し、そのまま脱力したように天を仰ぐ老人は知らずに溜め込んでいた息を吐き出して余裕を取り戻したらしく、再び柔和な笑みを浮かべると書簡を簡易机に預け乗せた。


「――――――成程成程、これは早急にを手に入れなければなりませんね……ジルベルト聖騎士長、このような夜更けに御苦労様でした。明日からまた忙しくなりますから、今夜はゆっくり休まれると良いでしょう」


「ハッ。失礼致します」


 背凭れから軽く身を乗り出して労いの言葉を掛けるルチアーノに、直立不動の神父は背筋を伸ばしたまま丁寧な一礼を返すと、入ってきた時と同じく隙の無い動作で告解室を後にした。


 再び一人残される形となった法衣の老人は、皺だらけの顔に浮かぶ笑みを更に深めながら徐にグラスへと手を伸ばし、燭台に淡く照らされるだけの室内でも紅く煌めく水面を弄ぶように揺らす。


「さてさて、まさか事此処に至って再びあの異端者が絡んでくるとは……これも神が定められた運命という事でしょうかねえ……?」


 攪拌されて空気中に振り撒かれた芳醇な香りを楽しみながら透ける器を口に運ぶルチアーノは、先達からの引継ぎも含めて数十年単位で繰り広げてきた策の成功を確信し、それを祝うように杯を乾していった。

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