第14話

「――えぇ~っと、その、改めまして、こんばんは、セフィー……それと、ただいま」


 気不味そうに左頬の傷を掻きながらハンスが式典での挨拶を返すと、一瞬驚いたセフィーは『クシャリ』と擬音が聞こえてきそうな表情で頷いてから真っ直ぐに彼を見詰めた。


「……はい。お帰りなさい、ハンス……」


 ハンスとしては衆目に晒されていた昼間の対面で口にできなかった言葉を返しただけなのだが、王女殿下の何かを堪えるような不自然な力みが見える笑みを見て、咄嗟に前へ踏み込んだ。


 しかし、微かに潤んだ瞳まであと一歩の所で足が縫い付けられたかのように動かなくなってしまう。


「あぁ~、あのな、セフィー……その、大丈夫だってっ。今回だってドコも怪我してねぇしっ。普段みてぇに後ろの方で楽してただけだしっ。だから、その、なんだ……そんな顔、してくれるなよ……」


 どうしていいか分からない、と言った心情が丸分かりな身振り手振りを交えて語るハンスだったが、セフィーの表情は好転しない。


 彼女にとって彼が出兵した防衛戦は公私どちらの面でも一大事であり、戦場の状況は逐次報告を上げるよう厳命していた。


 つまり、戦争孤児のハンスが双方の犠牲者を一人でも減らすべく、戦争の早期終結を狙って単身で敵陣中枢に乗り込んだ事も、その直後に無謀としか言えない大群との交戦に及んだ事も既知の出来事なのだ。


 そんなハンスの心馳を承知しているセフィーには、彼が真実を告げずに暈した発言をした事について責める気など皆無だった。


 だとしても、一歩間違えば帰ってこなかったかもしれないと言う憂惧や、五体満足のまま傷一つ無く無事に帰って来てくれた事に対する安堵なども合わさった為に、彼女の心は千々に乱れていたが。


「……私も、約束が守れませんね……御免なさい、ハンス」


 微かに滲んだ涙を払ったセフィーは、対面の騎士自身から両親と故郷を失った時に負ったと聞いた頬の傷痕に手を伸ばしつつ、何とか笑顔を見せようとした。


 だが、琥珀色の瞳に映るセフィーの顔は、今にも泣きだしそうに歪んだ痛ましい笑顔だった。


「や、約束って……『何処に行っても必ず無事に帰ってくるから、今度からは笑顔で迎えてくれ』ってヤツか? アレはそんな大仰なつもりなんか無くてだな……その、だから、別にそこまで気にする必要なんかねぇって」


 顔に伸びた手を避けるわけにも、増してや払うわけにもいかず、鼓動を速めながらもどうにか逃げずにその場に留まり続けるハンスは、彼女が言う『約束』をしたその日の密会は終始涙目で大変だったなぁ、と逃避的な思考を巡らせていた。


「でも、貴方は『必ず無事に』と、その言葉を今までずっと守ってくれているのに……」


「いや、まぁ、俺もまだ死にたくはねぇし、それなりに心得もあるからってだけで、君に強要させたいわけじゃ――


「強要だなんて言わないで」


 不意に伸びた少女のもう片方の手が傷の無い頬を撫で、少年の言葉を途切れさせた。


「貴方に出会えて、貴方が此処に居てくれて、私はとても幸せです。貴方が騎士団で頑張っていると聞けば私も励まされますし、こうしていられる時間は私にとって何物にも代え難いものです……ですから、貴方に少しでも御返しがしたいと想うこの心は、決して義務や責任で生じたものではありません」


 琥珀色の瞳を真っ直ぐ見詰める翡翠色の瞳はさっきまでの怒り顔とは真逆の熱を帯び、少年騎士の頬に添えられた白く嫋やかな手に宿る力は微かに増していた。


「貴方は如何ですか? ここで過ごした二年は……私と出会ってからの二年は、貴方にとってどのようなものでしたか?」


「そ、それは……お、俺にとっても、その、アレだ……た、大切だ」


 見目麗しい王女殿下の熱烈な視線と頬を包む柔らかな掌に追い詰められ、普段なら『二年っつっても、半分ぐらいは遠征やら出兵やらで街から出てたし、その間は会うどころか声すら聞けなかったけどな』などと言った揚げ足取りをかましそうな場面にも、まるで借りてきた猫のように大人しく素直に言葉を返していた。


「本当、ですか? 今の言葉に偽りは無いと、騎士として剣に誓えますか?」


「あ、ああ、勿論だ」


「なら……証明して下さいッ。今、此処で!」


 何処か切迫した響きのある要求を受けて大きく目を見開いた少年騎士とは逆に瞼を下ろしてしまったセフィーは、爪先で身体ごと己の顔を持ち上げると、旅路や戦場の日差しで焼けた肌に大きな傷が刻まれた愛しい相貌へ詰め寄り、白雪の肌に咲いた薄紅色の花弁を寄せるように顎を上げた。


「――なっ!??!!? ……ど、どぉやっ、て――っッッっッ――!?!!!!」


 少年の方から事へ及ばせる為に敢えて一インチ先で止められた唇は、まるで魅了の魔力でも放っているかのように月光を反射して妖しく輝き、ハンスの意識を沸騰させるには十分な破壊力を内包していた。


 しかも、王女殿下のガラス細工のように繊細でありながら大人の女性として成長を遂げつつある柔らかな身体は少年騎士の胸板へと押し当てられており、ただでさえ眼前の光景に一杯一杯なハンスが気付いた時には、味覚以外の感覚全てがセフィーからの刺激で満たされていたのだ。


 彼女の超越的な美貌に呑まれたハンスの主観で言えば、それこそ『瞬く間に』追い詰められた格好なわけで、驚愕に包まれた彼はただ絶句するだけである。


 この状態で抗えるほどの胆力(?)は、流石の『真紅の疾風ブルート・ヴィントシュトース』でも持ち合わせておらず、彼が生唾を呑む音が互いの鼓膜に届く中、遂に少年の唇が少女の唇へと重ねられ――



「――悪い、セフィー……そんな状態の君に、こんな事できねぇよ」



 普段の精彩さが立ち消えた少年騎士の掠れ声は、唇を触れ合わせる寸前で浮上した意識が王女の身体から伝わる微かな震えを捉えた為に発せられたものだった。


 彼は左右から頬を挟む小さな手を、その震えを押さえるように優しく包み込むと、それらをゆっくりと下ろしてから、彼女の両肩に掌を添えて微かに揺れる身体を支えながら自身の身体を退き離した。


 潮が引くように遠ざかる気配を追って瞼を持ち上げたセフィーは、真っ赤な顔を背けて気まずそうにしているハンスを見て、留めていた涙を一滴だけ溢してしまった。


「――――ハンス…………」


「――セフィー、その、だな……聞かせて、くれるか? さっきの……祝勝会で大司教とやらが言ってたアレは、一体何だったんだ?」


 彼女自身溢してしまった涙――勿論、ハンスはそんな事に気付いていないが――を目撃した所為で憚るようにたどたどしい口調になってしまった問いだが、向き直ったハンスの眼には彼の真剣さを感じさせる鋼のように鋭い光が宿っていた。


 その凛とした琥珀色の輝きに射抜かれ、今度はセフィーの方が視線を外して俯いてしまうのだった。

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