六話
ヒルデは忍び込んだ物置き部屋、そして台所のある居間を一通り掃除し終え、ふうっと息を吐き出す。
「綺麗になったわね。……ギュンターさん、掃除終わりましたよ」
「助かるよ。この目だと掃除が隅々まで行き届かなくてな」
「お役に立ててよかったです」
「そろそろできあがるから、部屋の窓を閉めて、食器を並べてくれるか」
台所で火にかけた鍋の中をかき混ぜながらギュンターは言う。その側にある窓の外は群青色に染まり、もう日が暮れて夜の帳を降ろそうとしていた。
ギュンターの厚意でしばらく家に隠れさせてもらったヒルデだったが、何もせず、ただぼーっとしているのも申し訳なく思い、不法侵入したお詫びも兼ねて部屋の掃除を申し出たのだった。これを喜んだギュンターは、働けば腹が減るだろうと夕食をごちそうすると言い、そして今に至っていた。
ヒルデは空気の入れ替えのために開けていた窓を全部閉め、棚から二人分の食器を取り出して食卓に並べる。
「さあ、できたぞ」
ギュンターは湯気が立ち上る熱々の鍋を食卓に持って来る。すでに慣れたことなのか、椅子にぶつかったり置く場所がずれることもなく、ギュンターは鍋敷きの上にしっかりと置いた。
「肉と野菜が入ったスープですね。いい匂い……」
食欲をそそる香りを一嗅ぎしてからヒルデは皿にスープをよそる。その隣にパンとワインを置いて夕食の場は整った。
「本当にありがとうございます、ギュンターさん。迷惑をかけてしまったのに夕食までいただけるなんて」
「気にするな。よければ一晩泊まっていっても構わない」
「ほ、本当ですか?」
「部屋なら余ってるからな。あんたの都合で決めてくれ」
食卓に着き、二人は向かい合って食事を始める。長年独り暮らしだというギュンターは思いの他おしゃべりで、食事の最中も会話は途切れなかった。ずっと独りだと、ヒルデはやはり話し相手が恋しくなるのだろうかと感じながら、話題はギュンターの若い頃へと移っていく。
「――もう何十年も前のことだがな、私は以前、魔法使いを目指してたんだ。正確に言えば、魔法戦士ってやつだ」
「そうだったんですか。じゃあ魔法を使うことが?」
「今はもう無理だ。そもそも素質がなくてな。魔法戦士の夢は諦めるしかなかった」
素質がないと自覚して諦めるというのはレヴィンと同じで、魔法使いを目指す者ではありふれたことでもある。知識ばかりあっても、魔法を扱う素質がなければ魔法使いとしては一生半人前からは抜け出せない。持って生まれた素質に恵まれることも、魔法使いを目指す上では必要なのだ。
「諦めて、次は何を目指したんですか?」
「特に目指すものはなかった。その挫折があまりに重くて、次の夢を描くことができなかった。でも魔法に関わることはやりたいと思ってな。とりあえず生活のために魔法製品工場で働いてた。だが……」
ギュンターの声と表情が暗くなる。
「急に病気になって、何日も寝込んで、それでも治らず入院したんだが、やっと高熱が下がったと思ったら、目の前が何も見えなくなってたんだ」
「病気のせいで……少しも、見えないんですか?」
「わずかな光以外は何もな。色も輪郭も見えない」
突然失明して視界に何も映らなくなってしまったら――想像するだけで辛さがわかるが、当人は周りの想像以上に辛く、苦労も尽きなかったことだろう。
「退院後の生活は大変だったんじゃないですか?」
「仕事はできなくなり、楽しめる娯楽もなくなった。だが障害者手当が支給されるから最低限の暮らしだけはできてるよ」
「娯楽がないのも辛いですよね……ギュンターさんはお料理ができるから、それを趣味にしてお友達に振る舞ったりしたらどうですか? こんな美味しいスープなら皆喜んでくれますよ」
そう言ったヒルデにギュンターは首を横に振る。
「私に友達と呼べるやつはいない。目が見えなくなってから皆、私に変に気を遣うようになってしまってな。連絡もしなくなって久しい」
「そうですか……せっかくお料理が上手なのに、何だかもったいない」
「そうだな……まあ友達ではないが、今度ネリーに振る舞ってみてもいいかもしれないな」
「ネリー?」
「私の姪だ。親族の中で唯一私のことを気にかけてくれる娘でな。月に一度は必ず様子を見に来てくれる」
「その姪御さんにお料理を出せば、絶対喜びますよ」
「そこまで言ってくれるなら……次の機会にやってみるか」
少し照れくさそうに、だが笑みを浮かべてギュンターは言うと、スープの野菜をすくって口に入れた。それを見てヒルデも笑顔になる。
「……私も、挫折とまではいかないけど、最初の夢を諦めて今は別の夢を追ってるんです」
「前はどんな夢を追ってたんだ」
「治療魔法師です。でも夫と出会って、その研究を手伝うことにしたんです」
「研究って何の?」
「魔法科学で、魔法を使った薬を作ってます。詳しいことは言えないんですけど」
「ほお、魔法科学か」
ギュンターが面白そうに呟く。
「知ってるんですか?」
「いや、一時期、魔法科学にも興味があった時があってな。だが私は頭より身体を動かすほうが性に合ってるから、大して勉強はしなかったが」
「そう言っても、魔法の勉強はされたんでしょ? 当時はどんなふうに魔法を覚えたんですか?」
「今も昔も変わらない。教師の指導でひたすら反復練習だ。そのうちコツをつかんで安定して使えるようになった。だが私は高度な攻撃魔法がどうしても覚えられなくてな。何百回と失敗を繰り返した。そのうちそれが素質のない証拠だと気付かされて、私の夢は終わったわけだが……」
ギュンターはワインをちびりと飲むと、小さな溜息を吐く。
「あの頃はアカデミーへ行って貴重な資料を読むのが目標の一つだった。魔法戦士になるにはあそこに収められた魔法目録の大半を習得する必要があったからな。覚えの早いやつは教師から教わる前にアカデミーへ行って、一足先に魔法を勉強することもあった。今の私が行く理由なんかないが、それでも一度はアカデミーに行って見てみたいものだ」
「一般資料室ならいつでも行くことはできるんじゃないですか? あそこは確か外部の人間にも開放されてたはず」
「そうだが、私が見たいのはより高度で専門的な資料室のほうだ。そこは魔法に関わる学習か研究、あるいは仕事をする者でなければ入室許可が得られない、特別な資料室なんだよ」
これを聞いてヒルデはふと思い出す。以前レヴィンが研究発表会を見にアカデミーへ行った時、貴重な資料を見せてもらったと興奮して帰宅したことがあった。レヴィンは研究者だから、おそらくその特別な資料室へ入れてもらい、普段は見れない資料を見ることができたのだろう。
「死ぬまでに行ってみたいが……ふっ、私は自分が思うほど、夢を諦め切れてないのかもな。どうしたって叶わないっていうのに……」
「叶わなくたって、いつまでも夢を見るのは自由ですよ」
「しかし格好悪いだろ」
「何の努力もしないで諦めるほうがよほど格好悪いです」
「私には魔法の素質がないし、目もこんなだ」
「一般的には素質が重要視されてますけど、すべてがすべて素質に左右されると私は思いません。魔法にも様々な種類があって、言わば向き不向きだと思うんです。ギュンターさんは攻撃魔法は不向きだったかもしれないけど、それ以外の魔法なら安定して扱える可能性があると思うんです。試してみたことはありますか?」
「……いや、当時は攻撃魔法だけを一心不乱に覚えようとしてた」
「なら今からまったく別の魔法を習得してみたらどうですか? 独学でもいいですし、学校へ習いに行ってもいいと思います。そうすればアカデミーで入室許可を得られる日も夢じゃなくなります」
「だがな、この歳で新たな魔法など……」
「年齢を言い訳にするのは格好悪いですよ?」
うっ、と言葉に詰まるギュンターだったが、軽く頷くと微笑んだ。
「……このまま独り、平坦に終わって行く人生だと思ってたのに、まさか家に入り込んだ赤の他人にやる気を起こされるとはな。何があるかわからないものだ」
「本当に、明日には何があるかわからないものです」
二人は笑い、おしゃべりを続けながら夕食を終えた。
「……その目は、もう治らないんですか?」
流しで食器を洗いながらヒルデは何気なく聞いた。
「医者に言われて投薬治療はしてたが、ほとんど効果がなくてやめてしまったよ」
ヒルデの横で洗った食器を布巾で拭きながらギュンターは答える。
「魔法治療をしたことは?」
「いいや。あれは費用が高すぎて無理だ」
「試してないんですね。じゃあ私が試してみてもいいですか?」
「あんたが? しかし……」
「お金なんて取りませんから。さっき言ったように、私は以前治療魔法師を目指してて、ある程度の治療魔法は扱えます。治らなくても悪化することはありませんから、少しやってみてもいいですか?」
「うーん……そう言ってくれるなら、やってもらってもいいが……」
ギュンターは半信半疑な口調で承諾する。
「まあ試しですから。じゃあやってみましょう」
濡れた手を拭い、ヒルデはギュンターの手を引いて椅子に座らせる。
「目を閉じて、そのままでいてください。顔に少し触れますね……」
ギュンターの閉じた目の上にヒルデの手が軽く重なる。そこに意識を集中させれば、手のひらからほのかな光が広がり始める。普段から切り傷などを負えば魔法で治すこともあるヒルデだったが、こうした重い病を治療するのは初めてのことで、申し出たのはお詫びの一つでもあったが、果たして自分の治療魔法が通用するのかどうか、それを試したい気持ちもヒルデの中にはあった。
「……目の奥が、温かくなってきた……」
「魔法が効いてるのかもしれません。あともう少しだけやってみます」
久しぶりに長く魔法を使い、ヒルデの額に見えない汗が滲む。そして数分後――
「……ギュンターさん、ゆっくり目を開けてみてください」
手を離したヒルデに言われ、ギュンターはゆっくり、静かに両目を開いていく。
「おお……これは……」
瞬きをしながらギュンターは驚いたように正面を見つめる。
「視界はどうですか?」
「わずかだが、見える。物の輪郭や色がうっすらと……」
「ほ、本当ですか? 部屋の中が見えますか?」
「ああ。壁や机が……」
そこまで言ってギュンターは急に言葉を途切れさせた。
「……ギュンターさん? どうしたんですか?」
「見える、と思ったが……いつもの視界に戻ってしまった。これは一体……」
戸惑うギュンターにヒルデは残念そうに告げる。
「見えたのは治療魔法が一時的に効いてただけのようですね……私の魔法では完治につながる治療は無理みたいです。ごめんなさい……」
でき得る治療魔法と力を注いだものの、これが自分の限界と知り、ヒルデは肩を落としつつも言う。
「でも、魔法で一時的でもよくなったのはいい兆候です。私よりも腕のある治療魔法師なら完治できる可能性もありますよ」
「そうか。この目はまだ治る可能性があるか……ヒルデさん、あんたは優しい人だ。こんな老人を励ましてくれて」
「そ、そんなおこがましいことをしてるつもりは……」
「何もおこがましくなどない。私は感謝してるんだよ。一瞬見えた時にあんたの顔を見て礼を言えばよかった」
「何もできてないのにお礼なんて、いいですから……」
目が見えたところで顔はどうしたって見えないのだ――ヒルデは笑って返すしかなかった。
その晩、ギュンターの言葉に甘えたヒルデは一泊させてもらうことにし、ベッドを使ってくれという厚意は断って毛布だけを借り、物置き部屋で眠りについた。夜の闇に紛れてハンスの元へ戻ることも考えたヒルデだが、師であるブフナーに何か吹き込まれて、自分を捕まえる側に変わっていることも考えられるため、戻るのは諦めることにした。
それにしてもとヒルデは追って来た男性達を思い返す。あれは何者なのか。レヴィンを誘拐した実行犯かはわからないが、少なくとも関わりがあり、行方を知っていそうではあった。ブフナーと知り合いのようだったが、見た雰囲気は研究者らしくはなかった。どちらかと言うと戦士のように体格はよかった。そう言えば追って来る時に魔法を使っていたのを思い出し、ヒルデの脳裏にはギュンターの言っていた魔法戦士という言葉がよぎった。
魔法戦士……その名の通り、武器だけでなく魔法も駆使して戦う者で、王国軍や組織の私兵、傭兵などでも見かける一般にも知られている職業だ。もしそんな相手だとすれば、ヒルデでは到底太刀打ちできないだろう。そうでないにしても、向こうは攻撃魔法が使えた。初歩的な魔法しか使えないヒルデは抵抗する術もない。あの男性達を追うにはかなりの危険が伴うのを覚悟しなければならないだろう。そうして追って捕まりでもしたら、もうレヴィンと会えない可能性もあるかもしれない。ヒルデにとって捜す自由を奪われることが、今は一番怖いことでもある。こんな時、透明な身体が役に立つと思うが、誰にも見えなくても裸で街中をうろつくのは、やはり大きな抵抗があり、ヒルデの気は進まなかった。もっと違う方法でレヴィンを捜そうか――頭の中で様々考えているうちに、ヒルデは眠りに落ちるのだった。
「――叔父さん、ギュンター叔父さん、いる?」
隣の居間から聞こえる女性の声でヒルデは目を覚ました。ちらと窓を見ればすっかり夜が明けて明るくなっていた。半分寝ぼけた頭のまま身を起こして、今の声は誰だろうと思い、ヒルデはハッとする。ギュンターは目が不自由だからばれずに済んだが、そうでない人間なら服を着た身体はすぐに見つかってしまう。慌てたヒルデは立ち上がり、服を脱ぐかどこかに隠れようかと考えたが、再び窓を見やり、このまま立ち去ることにした。最後にギュンターに一言挨拶ぐらいしたかったが、ぐずぐずしていたら女性がやってきかねない。面倒なことになる前にすみやかにここから出て行ったほうがいいだろう――優しい恩人に申し訳なさを感じながらも、ヒルデは窓に手をかけ、静かに開けた。
「あ、叔父さん、おはよう」
「……ネリーか? 先週来たばっかりで、もう来たのか?」
「こっちのほうに用があったから、ついでに見に来ただけ。どう? 何か必要な物ある? あれば買って来るけど」
「ありがとう。先週ので間に合ってる。……そうだ。客人を紹介しよう」
「客人? 誰かいるの?」
「ああ。昨日来てな。いろいろしゃべったらいい人なんだよ。物置き部屋に泊まらせてるんだが――」
「家に泊めたの? 叔父さんの親しい人なの?」
「いや、昨日初めて会った人だが……」
「ええ? ちょっとそれって大丈夫なわけ? 危ないんじゃない?」
「警戒するような人ではない。治療魔法でこの目を治そうとしてくれた優しい人だよ」
「だからってすぐに信用するのは……見て来ていい?」
そう言うとネリーは足早に物置き部屋へ向かい、その扉を叩いた。
「あの、失礼します。入りますよ」
ガチャリと開けて入ったネリーは部屋を見回す。が、どこにも人の姿は見当たらない。しかし片隅に無造作に置かれた毛布を見つけ、確かに人が寝ていたことは確認する。
「ヒルデさん、すまないな。この娘が姪のネリーで――」
「叔父さん、そのヒルデさんって人、いないけど」
「え? いない? それはおかしいな……」
ギュンターは物置き部屋の入り口で首をかしげる。
「何も言わずに出て行くような人には思えないが……」
「相手が女性だから油断したんでしょ。実は泥棒だったんじゃないの? 盗まれた物がないか見てくる」
「そんなはずはない。ヒルデさんは悪い人間ではない。確認なんかしなくていい」
「昨日会ったばかりの人をどうしてそこまで信用できるの? 一応確かめておかないと」
「だからいいと言ってる。大丈夫だ」
「私が気になるの! 叔父さんは静かにしてて」
「お前はヒルデさんのことを知らないだろ。余計な世話を――」
窓から出て行った後、二人が自分のことで口喧嘩を始めているなど、ヒルデは知る由もなかった。
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