五話

 前に立つ男性は一歩前に出るとヒルデを見つめながら聞く。


「なぜ我々を尾行した? まあ、こちらから出向く手間が省けて助かったが」


「出向くって、どういうこと……?」


「ヒルデさん、この者らはあなたに話を聞きたいそうだ。だから――」


「この者らって……ブフナーさん、やっぱり友人の用事を済ますというのは嘘だったんですね」


 これにブフナーはしどろもどろになって言う。


「う、嘘ではない! いや、つい友人と口走ってしまったが、顔見知りではあって、すべて嘘というわけでは……」


「五分待つように言ったのは、この人達に私を会わせるため、ですか?」


「あ、ああ……だが、騙す意図はなかった。わしはこの者らにただ協力できればと……」


「……協力?」


「いや、そういうことではない。わしはあなたの夫が連れ去られておったとは知らなくて、今日初めて話で聞いて――」


 すると横に立つ男性はブフナーをじろりと見やると声をさえぎって言った。


「ブフナーさん、あなたの言葉は誤解を招きそうだ。今日はもうお帰りくださって結構です。今回のお礼は後日させていただきますので」


「そ、そうか、わかった」


 そう言うとブフナーはそそくさと立ち去ろうとする。


「待って! ブフナーさん、あなたは夫の誘拐に関係してるの? それだけははっきり――」


「関係などない。それと、誘拐ではなく連行だ」


 男性の発した言葉にヒルデの見えない目が瞠目する。その間にブフナーは彼女を気にしつつもその場を離れ、帰って行った。


「……あなた達が、レヴィンを連れ去った犯人なの?」


「だったら何だ」


「レヴィンを返して。今すぐに!」


 これに男性は肩をすくめる。


「それはまだ無理だ」


「まだって……じゃあ返すつもりはあるっていうの?」


「それは本人次第だな」


「本人が一体どうすればいいのよ。誘拐、強盗までして、あなた達の要求は何?」


「だから誘拐ではなく連行だ。資料も盗んだのではなく、没収しただけだ」


 偉そうな物言いにヒルデは苛立ちを含みながら言う。


「犯罪者のあなた達に何の権限があるのよ。治安警備の衛兵だって勝手にそんなことできないはずでしょ? あなた達は何者なの?」


「我々は犯罪者ではない。そう呼ばれるべきなのはあなたの夫のほうだ」


「レヴィンはただ自分の研究をしてただけの被害者よ! 証拠もなく嘘を言わないで!」


 男性はやれやれと言いたげに小さく息を吐く。


「あなたの夫が何をしたのか、我々が何者なのか、大人しく付いて来ればすべてわかる。そこでいろいろと話を聞かせてもらいたい。ヒルデ・レーワルト」


「そこに、夫はいるの? 会わせてくれるの?」


「もちろんだ。会わせよう」


 そう言い、男性はヒルデの返事を待つ。言うことを聞いて付いて行けばレヴィンと会える。それはヒルデが望むことで頷きたい気持ちも強くあったが、冷静な思考はまだ信じることのできない男性に疑いを向けていた。何せヒルデは夫が誘拐されたあの場にいたのだ。研究資料を奪われ、レヴィンが連れ去られる音と気配を恐怖の中、終始聞いていた。その時の感情を思い出すと、そう簡単に男性の言葉を信じることはできなかった。人を騙そうとする人間は相手に嘘の優しさを見せて誘導するものだ。男性はレヴィンと会わせると、まさに望み通りのことを言ってヒルデを誘導しようとしている――駄目だ、とヒルデは思った。考えても信じることはできなかった。レヴィンと会える保証もないのに無防備なまま付いて行くのは危険過ぎると感じた。それに男性達はヒルデの尾行に気付くほど警戒していた。それは何か知られたくない、やましいことを抱えているからではないのか。レヴィンに会えるというのは誘導のための餌である可能性が高い――ヒルデはそう判断した。


「……そんな興味を引く言葉に、騙されたりしないわ」


「騙してなどいない。本当のことだ」


「信じられない。レヴィンを誘拐した人間なんて」


 頑なな態度を取るヒルデに、男性は表情を険しく変えた。


「では、一緒に来て、夫とは会わないのか?」


「どうせ行っても会えない……そうやって私を騙すつもりでしょ?」


「どうすれば信じる?」


「レヴィンをここに連れて来て。でなきゃ私は帰って衛兵にこのことを話すわ」


「そうか……」


 男性は溜息を吐くと、ヒルデの後ろに控える仲間に目配せする。


「……できないようね。じゃあ私は失礼す――」


「それは困る。話を聞かせてもらわなければ」


 男性はヒルデの腕をつかみ引き止める。それに驚いたヒルデは咄嗟に振りほどく。


「やめて! 何を――」


 だがすかさず仲間の男性がもう一方の腕をつかんだ。


「放して!」


「大人しく来てくれないのなら、力尽くで引っ張って行くしかない」


 男性は懐から布を取り出すと、それをよじり、ヒルデの顔に近付ける。これで口を塞ぎ、レヴィンと同じように誘拐する気か――恐怖を覚えながらも、ヒルデは布を押し込まれる前に抵抗を試みた。


「いやっ!」


 空いている手を振った瞬間、男性の目の前で無数の光が弾け飛んだ。


「なっ――」


 バチバチと音を鳴らし、光は男性二人に降りかかる。これに怯んだ二人はそらした顔を手でかばう。上手く行った――ヒルデは隙を突き、つかまれた腕を振りほどいて走り出す。遊びで覚えるような単純な魔法で、目くらまし程度にしか使えないものだが、逃げる隙を作れれば十分だった。


「くっ、魔法を使えたのか。逃がすな!」


 だが目くらましの効果もほんの一瞬で、二人の男性はすぐにヒルデを追いかける。路地を抜ける前に早々と追い付かれ、男性の手がヒルデに伸びる。


「一緒に来い!」


 肩をつかみ損ねた手は首に巻かれたマフラーをつかみ、そして引っ張る。一瞬首が後ろへ引かれるが、マフラーはスルスルと外れ、ヒルデから離れて行った。まずい、と思い足が止まりかけるも、今はマフラーどころではないとさらに勢いを上げた時だった。


「あっ……!」


 つばの広い帽子がふわりと浮き上がり、ヒルデの頭から脱げてしまった。さすがに慌てて落ちた帽子を拾うが、スカーフで覆っただけの状態では顔全体を隠せるわけもなかった。


「……! 顔が、ない……?」


 すぐに気付いた二人は驚愕して凝視する。だがそのおかげで追って来る足が鈍り、ヒルデはもたつきながらもどうにか逃れることができた。


 路地を出てからもヒルデは駆け続ける。すれ違う通行人に怪訝な目を向けられるが、構っている暇はない。マフラーを失って口元を隠すことができなくなったヒルデは、左手で隠して走り抜ける。とりあえず目に付いた道を進もうと角を曲がろうとした瞬間、背中に衝撃と軽い痛みが走り、ヒルデは息を呑んだ。


「やめろ! こんな人の多い場所で魔法なんか使うな!」


「だが早く止めなければ――」


 追って来る二人の声を聞きながら、ヒルデはそれでも走り続ける。そして内心で驚いていた。自分だけではなく、あの二人も魔法が使えたのだ。背中の衝撃はおそらく攻撃魔法だろう。軽い痛みで済んだが、それがもし動きを止めるような魔法なら――このまま走って逃げ続けるのは危険だと思ったヒルデは、狭い路地に入り込み、どこかに隠れて男性達をやり過ごそうと考えた。


「こっちにいるのはわかっているぞ!」


「出て来たほうが身のためだ!」


 見えない背後から二人が呼びかける。その声に急かされるようにヒルデは辺りを見回し、隠れられそうな場所を探す。必死に逃げている間にまた住宅地に戻って来たようで、周囲にはレンガ造りの家々が多く見える。道から外れ、生け垣を分け行って、民家の裏などを通り、追っ手の目に付かない場所はないかと探していると、視線の先に一軒の家の窓が見えた。その窓は半分ほど開いており、中の部屋にも人影は見えない。男性達もさすがに家の中まで捜しに来ないだろうと思う一方で、入り込めばハンスと同じ不法侵入をすることになる。ヒルデは迷うも、迫る二人の恐怖が強く背中を押した。今だけ。ほんの短い間だけなら――自分に言い聞かせたヒルデは真っすぐ開いた窓へ向かった。


 顔をのぞかせて中を確認してみるが、やはり人影はない。周囲に人がいないのを見てからヒルデは窓に手をかけ、身体を滑り込ませた。


 忍び込んだ部屋はなかなか広いが、埃をかぶった家具やがらくた、色あせた本などが置かれているだけで人が使っている気配はない。壁と床も汚れが目立ち、長く放っておかれているのだとわかる。おそらく何年も物置き部屋になっているのだろう。そんな様子をいちべつしてから、ヒルデは念のため入って来た窓を閉め、そして床に座り込んで外から身を隠した。


「――どこへ行った」


「まだ遠くへは行っていないはずだが」


 しばらくすると、近くを通る男性達の声が聞こえて来たが、それはそのまま通り過ぎて行く。まさかすぐ側の家に隠れているとは思わずに、二人はその家の前を素通りして去って行った。気配が離れたのを感じてヒルデは窓越しに外を確認する。


「……誰もいない……逃げ切れた?」


 鳥の鳴き声が響くのどかな景色だけがあるのを見て、ヒルデはようやく安堵する。しかし見失ってくれたとは言え、まだ近くを捜していることだろう。もう少し様子を見たいところではあるが、いつまでも他人の家に隠れ続けるのも落ち着かない。男性達とは正反対の方向へ逃げれば大丈夫だろうか――そんなことを考えながらヒルデが窓に手をかけた時だった。


 部屋の向こう側からコツ、コツと人の足音が聞こえ、ヒルデの心臓は跳び上がった。追っ手にばかり気を取られ、家の中の住人のことなどまったく考えもしておらず、焦ったヒルデは急いで窓を開けようとした。だが焦り過ぎたせいで窓枠はガタガタと音が鳴ってしまう。


「……誰だ?」


 部屋の扉の向こうから、しわがれた男性の声が言った。ヒルデは反射的に動きを止め、窓からそっと両手を離した。このままでは見つかって、不法侵入者だと捕らえられてしまう――窓から出るのを一旦やめたヒルデは、ひとまず家具の陰にでも隠れようと移動しようとしたが、その前に部屋の扉はガチャリと鳴って、住人と思われる男性が扉を開けて入って来てしまった。


「………」


 白髪が多く混じった頭の男性は六十代ぐらいの体格のいい老人で、入るや否や黙って正面を見つめたまま立ち止まった。その正面には帽子で顔を隠したヒルデが息を殺してしゃがみ込んでいたが、老人の視線は彼女には向いておらず、窓を見るばかりだった。


「……窓が、閉まったのか?」


 老人はなぜかヒルデのことより窓のほうを気にして近付く。窓を開けたのはおそらくこの老人だろうから、自分で開けた窓が閉まってるのが不思議と思ったのかもしれないが、ヒルデにしてみれば、なぜ家の中に他人がいるのか、そのほうがよほど不思議なはずなのに、老人はまるでヒルデの存在に触れようとはしてこない。肌は透明であっても、今は服を着て脱ぎ捨てる時間もなかったのだ。ヒルデがそこにいることは見間違いようがないはずなのだが。


 ヒルデの目前まで近付いてきた老人は、窓枠を確かめるように触る。


「……やはり、閉まってるな……今日は風は吹いてないはずだが……」


 呟いた口調には少しの疑問が混じる。なぜ勝手に閉まったのかわからないようだった。その原因が目の前にいるというのに、老人の目にヒルデは微塵も映っていなかった。何ともおかしな状況ではあったが、本当に気付いていないのなら絶好の機会ではある。ヒルデは気付かれぬよう慎重に老人から離れると、ゆっくり立ち上がり、忍び足で部屋の扉へ向かった。存在を知られる前に玄関から出てしまえば――そう思い、老人の後ろを通り過ぎようとした瞬間だった。


「……誰だ!」


 気配に気付いた老人は振り向き様に手を振った。いきなりのことにヒルデは避け切れず、腕に当たった手は逃すまいと袖を強くつかみ捕らえてきた。


「ひっ……!」


 驚きと焦りでヒルデの口から思わず小さな悲鳴が漏れた。慌て過ぎて顔を隠す余裕のなくなったヒルデを、老人はじっと見つめた。


「……女か?」


 帽子の下の、向こう側がぽっかりと見える顔に老人は聞いた。透明なことがばれてしまった緊張を感じる一方で、顔がないことには触れず、最初に性別を聞いてきた老人に、ヒルデは若干の違和感を受けた。


「人の家で何してる」


 腕をがっちりつかむ手を魔法で振りほどくこともできたが、そんなことをすればやましいことがあると思われかねず、大事にしないようヒルデは正直に謝ることにした。


「ご、ごめんなさい。勝手に入り込んでしまって……でも物盗りとかじゃないんです! これ


には理由があって……」


「物盗り以外に理由なんかあるのか?」


「私、魔法使いの男達に追われてて、逃げて来た先にこのお宅の窓が開いてるのが見えて、それで咄嗟に……いけないこととはわかってるんですが、捕まるわけにはいかなかったから、つい……」


 ヒルデは老人の顔をちらと見る。視線は合わないが、真剣な表情でヒルデを見ていた。


「悪人に追われてたって言うのか?」


「ほ、本当なんです! 信じてもらえないかもしれませんが……。あの、すぐに出て行きます。盗んだ物がないか身体を調べてもらっても構いません。だからどうか――」


「追われてるなら、もう少しここにいたほうがいい」


「……え?」


 ヒルデはきょとんとして老人を見る。


「信じて、くれるんですか?」


「あんたの声に淀みはなかった。嘘は感じられない。だからゆっくりしていけ」


 思わぬ言葉にヒルデは一瞬驚くが、すぐに見えない笑顔を浮かべて言った。


「あ、ありがとうございます! こんな気を遣ってもらえるなんて」


「私が困ってる人間にしてやれるのは、こんなことぐらいだ。……あんた、名前は?」


「ヒルデ・レーワルトです」


「ギュンター・オッシュだ」


 そう名乗るとギュンターは右手を差し出し、ヒルデと握手を交わす。


「……ところでオッシュさん」


「ギュンターでいい」


「はあ……ギュンターさん、私の顔を見て、何も思わないんですか?」


 聞いたヒルデにギュンターは小首をかしげる。


「顔? あんたの顔がどうかしたのか?」


「どうって……見ての通り……」


 顔と呼べるものがまったくない顔――ギュンターがこれに一切反応しないのは、やはりヒルデからすると不思議でならなかった。


「見ての通り何だ? でっかい牙でも生えてるのか?」


 冗談にヒルデが怪訝そうに黙っていると、ギュンターは表情を緩めて言った。


「悪いな。私はあんたの顔を見たくても見れないんだ」


 そう言われてヒルデはハッとする。


「もしかして、目が……?」


 ギュンターは軽く頷く。


「使いものにならない目なんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る