二話

「……戻らない」


 窓からの陽光を浴びながらベッドで目覚めたヒルデは、身体を起こすや否や自分の両手をすぐさま確認したが、見えるのは昨夜とまったく同じ、寝巻の袖が宙に浮いている光景だった。身体の透明化は一晩寝ても元に戻ることはなかった。


 それでも昨夜、気持ちは途方に暮れながらも、この透明化だけは解こうとヒルデは努力していた。飲んだ薬を吐き出してみたり、治療魔法でどうにかならないかと自分に魔法をかけてみたり、様々試してみたものの状態は変わらず、残ったのは一晩寝て時間を経過させることだけだった。だがそれもたった今、失敗に終わったようだ。


 ヒルデは思わず頭を抱えた。薬の効果を消す解除薬の作成はまだ少しも手を付けていなかった。それは透明化薬が完成してから始めるつもりだったので、レヴィンがいなければ作成に必要な物は何もわからない。どこかに書き残しているかもと思ったが、研究部屋にあった資料から実験動物から、すべては持ち去られており、手掛かりを得るのは難しい。たとえそれを得て作成したとしても、ヒルデだけでは相当な時間がかかることだろう。彼女はあくまで助手で、研究の専門知識があるのはレヴィンなのだ。何にせよ、自力で透明化を解くのは、今は不可能と言えた。


 しかし身体が元に戻らないからと、いつまでも部屋にこもっているわけにもいかない。昨夜の強盗と夫の行方を捜さなければならない。だが当てもなく歩き回ったところで手掛かりが見つかるとも思えない。捜すならやはり街の住人に聞いて行くしかない、のだが……。


 ヒルデはベッドから降り、自分の身体を見下ろす。宙に浮いた寝巻以外、何も見えない。これではまるで幽霊のようだ。服だけが道を歩いている光景を想像すれば、住人達の反応も容易に想像できた。不気味な恐怖におののき、叫び、近付く者などいないだろう。これでは話を聞くことさえできない。昨夜の後悔がヒルデの胸にじわりと染みる。


 行方を捜すには住人をたずね回らなければならず、外に出ずに捜すことなどできない。どうにか怖がられずに話ができる方法はないものか――ヒルデは透明な身体を見つめながら考えた。


「……そうだ。服で隠せば……」


 思い付き、ヒルデはクローゼットを開ける。寝巻からブラウスとロングスカートの普段着に着替えると、そこに上着を羽織り、手袋をはめ、マフラーを巻く。これで身体はほぼ隠せたが、顔の上半分はまだそのままだ。クローゼットの中を漁り、スカーフを見つけたヒルデはそれで頭を覆い、顎の下で結ぶ。それでも目元が隠せていないと感じ、つばの広い帽子をかぶって顔に影を作る。その姿を玄関の鏡に映して確認してみる。


「ちょっと頼りないけど……とりあえず、隠せてるわね」


 身体は申し分のない出来だが、やはり心配なのは顔だ。眼鏡でもあればもう少しごまかせたかもしれないが、ヒルデもレヴィンも視力は悪くなく持っていなかった。鼻の辺りまでマフラーで隠し、目元はスカーフと帽子で作った影で見えづらくしたが、それでものぞき込まれたら何もないことがばれてしまいそうだ。しかしこれ以上隠すことはできず、これが今できる最善の対処だった。


「それにしても、へんてこな服装ね……」


 透明な肌を隠すために不自然な着こなしをしたため、見た目の印象は怪しさに溢れている。ただ一つ救いなのは、今が冬だということだ。夏でなくてよかったとヒルデは厚着する自分を見て思った。


「……よし、行くわよ」


 一息吐き、ヒルデは玄関扉を開ける。明るい光と冷たく爽やかな空気を感じて家を出た。あちこちに見える人の姿と視線に緊張しつつも、まずは近所の知り合いに昨夜のことを聞いてみることにした。


「……あ、おはようございます」


 歩いていると、家の前を掃き掃除している知り合いを見つけ、ヒルデは近付いた。


「え……?」


 手を止めた相手は怪訝な表情で見てくる。顔が見えないので誰だかわからないらしい。ヒルデはうつむき加減に話しかける。


「えっと、私です。ヒルデです。向こうの家の……」


 そう言うと相手はわかったようで、すぐに笑顔を見せた。


「ああ、ヒルデさんだったの? ごめんなさい、わからなくて。お顔がよく見えなかったものだから」


「そ、そうですよね。こんな帽子かぶってますから、わからないですよね」


「どこかへお出かけなの? 随分と防寒しているようだけど」


「そういうわけじゃないんですが、その……少し風邪気味みたいなので……」


「あら、無理しないで休んでいたほうがいいんじゃないの?」


「用事があるので、そうもいかなくて……あの、お聞きしたいことがあるんですが」


「ええ、何?」


「昨夜遅くに、この辺りで何か、怪しい人物を見たり聞いたりはしてませんか?」


「昨夜? 何時頃のこと?」


「正確な時間はわかりませんが、寝静まった深夜だと……」


「そんな遅い時間だと、私はぐっすり眠って何にも気付いてないわね。お役に立てなくてごめんなさい」


「いえ、こちらこそすみません……他の方にも聞いてきます」


 そそくさと離れ、ヒルデは他の知り合いにも話を聞いて回った。


「私は何も聞いてないわ」


「一人酔っ払いが騒いでたけど、それじゃないでしょ?」


「怪しい人? いたとしても真っ暗な深夜じゃねえ……」


 数人に聞くも、強盗やレヴィンと思われる人物を目撃した者はいなかった。深夜という時間帯では仕方がないのかもしれない。強盗の側も目立つような逃げ方はしないだろう。目撃者を捜すのは難しそうだった。やはり夫が誘拐されたと衛兵に伝え、捜索してもらうべきか――そう思ったヒルデだったが、この身体で話を聞いてもらうのは大きな不安があった。そもそも捜索を頼みに行けば身元確認の際に即ばれてしまうだろう。そうなれば誘拐事件どころではなくなってしまうかもしれない。この身体である以上、役人に頼ることはできそうにない。となると地道に手掛かりを捜す他なかった。


「……昼間なら、目撃者がいるかも」


 街の通りをとぼとぼと歩いていたヒルデの目に、宿屋の看板が映った。もし強盗がこの街の人間でなければ、宿屋に止まっていた可能性もあるのでは? どうしようもなくなっていたヒルデは、ほんのわずかな可能性に懸けて宿屋を回ってみることにした。見た目を怪しまれながらも話を聞くこと五軒目に、それは出てきた。


「――そう言えば、そんな感じの男性が一昨日まで泊まってたな」


 ヒルデが強盗達の容姿を伝えると、宿屋の主人は思い出したように宿泊帳簿をぺらぺらと確認し始める。


「うん、間違いない。一昨日の昼に二人部屋を引き払ってる」


「二人部屋ということは、男性は二人組でしたか?」


「そうだよ。二人で同じ部屋に泊まってた。何か仕事で来たとか言ってたかな」


 その二人組の客が強盗かもしれない。ようやく見つけた手掛かりにヒルデははやる気持ちを抑えながら聞いた。


「あの、その二人の名前を教えてください」


 これに主人はじろりとヒルデを見やった。


「え? 名前を? それは……」


「どうしても知りたいんです。お願いします」


「そこまではなあ……。勝手に教えて、何か問題でも起こされたら、俺の責任だろ? そうなったら困るからさ……」


「じゃあ、その二人がどこへ行ったか、聞いてませんか?」


「そういうのも、勘弁してくれないかな」


 主人はしかめた表情で言う。ここにきて見た目の怪しさが壁になった。顔をまともに見せないような女に、客の情報はこれ以上明かせないということだろう。さらに怪しまれて厄介な噂でも流されたら困ると、ヒルデは大人しく諦めて離れるしかなかった。


 その後も住人に聞いて回ったが、宿屋での情報以外の話は聞けず、ヒルデは家へ帰った。朝から何も食べておらず、グウと鳴って急かす腹のために昨日の夕食の残りのパンと冷めたスープで空腹を満たす。食後はどうやってレヴィンを助ければいいのか考え込んでいたが、気付けば窓の外は日が暮れて、もうすぐ夜を迎えようとしていた。何の手がかりも得られなかったと自分にがっかりしながらヒルデは寝支度をする。


「……はあ」


 寝巻に着替え、ベッドに横たわると、静かな部屋に大きな溜息が響いた。明日になっても自分にできることは同じだろう。強盗とレヴィンにつながる目撃者を捜すだけ。しかしそれでは今日を繰り返すことになってしまう。何か別の方法で捜さなければ手掛かりはつかめない。だがそれがわからない。やはり素人では限界がある。せめてこんな身体でなければ、捜索を頼むこともできたのに。すぐには見つからなくても、手掛かりの一つぐらいは得られたかもしれない。そう思うとヒルデの中にまた様々な後悔が湧いてきた。なぜレヴィンを助けに行かなかったのか、なぜ薬を飲んでしまったのか――頭の中で自問自答しているうちに、ヒルデはやがて眠りに落ちていく。心地いいまどろみに意識を引かれ、夢の入り口に差しかかろうとした頃だった。


 カタッという小さな物音がヒルデの意識を引き戻した。普段なら気にもしなかったかもしれないが、強盗に襲われ、夫を誘拐されたことで神経は過敏になり、わずかな音でもヒルデに気付かせた。そっと目を開け、聞こえたほうへ耳を傾ける。だが音は何も聞こえない。聞き間違いだろうかと思っていると、今度はガタッと大きめな物音が聞こえた。これにヒルデは一気に緊張する。やはり何かいる――身を静かに起こし、ベッドからゆっくり降りて、ヒルデは寝室の入り口から玄関のほうをうかがってみる。


 暗い景色には見慣れたものしかなく、動くものも見えない。物音はここから聞こえたのではなさそうだった。それにしても夜になると、なぜこうも緊張を強いられることが起こるのか。そう感じたヒルデの胸には強盗の恐怖がよみがえった。まさか、またあの強盗が来たのでは――そんな嫌なことが思い浮かび、ヒルデの足は重くなる。しかし物音の原因を探らなければ眠ることなどできない。鼓動を速めながらヒルデは玄関を通り、その奥の研究部屋をのぞいてみる。


「……!」


 扉のない入り口から中をのぞいて、ヒルデは咄嗟に両手で口を塞いだ。暗闇の中でうごめく人影に思わず悲鳴が漏れそうだった。その人影は研究資料が持ち去られて空っぽになった部屋をうろうろ歩き回っていた。暗過ぎて顔は見えないが、体格からして男性のようで、頭の動きからは何かを探している雰囲気を感じ取れた。本当に強盗がまた来たのか――身を引っ込め、壁に隠れたヒルデは恐怖に慌てて逃げようとした。だが後悔を刻まれた心がそれを止めた。このまま逃げたら何も変わらない。これはレヴィンの行方を知る大きな機会になるのでは? 前回のように隠れていては、また後悔するし、最大の手掛かりを失うことにもなる。怖くても、今は逃げてはいけない。レヴィンを助けたいのなら……!


 逃げ出す寸前の足を戻し、ヒルデは自分を鼓舞する。強盗を捕まえて夫を返してもらうのだ。怖がっている場合ではない。レヴィンの命が懸かっていると思えば、一人で立ち向かうことなど――そこまで自分を励まして、心の声は止まった。やはり怖いものは怖かった。一対一とは言え、相手は男なのだ。力で勝てる気はしない。部屋に踏み込んだ途端、すぐに気付かれて殴り倒されてしまいそうだ。不意を突くにも、広くはない部屋では向こうの視界から逃れることは難しいだろう。こちらの存在は絶対にばれてしまう――


 その時、ヒルデはハッとした。自分は何を考えていたのか。逆にばれない可能性のほうが高いのでは? 見下ろした身体のどこにも肌は見えない。暗闇に寝巻が宙に浮いている状態でしかないのだ。この寝巻を脱いでしまえば、もうここにヒルデという存在はいなくなって見えるだろう。誰にも気付かれない、完全に見えない存在となれる……これしかない。そっと後ろから近付いて羽交い締めにして捕まえれば……。


 ヒルデは静かに寝巻を脱ぎ、さらに下着も脱ぐ。それらが床に落ちると、そこにはもう誰もいなくなった。闇と空間に同化し、ヒルデの形は消えた。しかし姿はなくとも何も感じないわけではなく、裸になれば当然冬の寒さがこたえるし、何も身に着けていない恥ずかしさも湧いてくる。他人からは何も見えていないとわかっていても、人前で裸をさらすのはかなりの抵抗感を覚える。けれどレヴィンのためにはそんなことを言っていられない。再び部屋をのぞいたヒルデは男の様子を確認すると、音を立てないよう慎重に足を運び、部屋へと入って行く。


「ないなあ……」


 男は何もない棚や机の引き出しを順番に見て行きながらボソボソと呟いている。そこから視線を外さずに、ヒルデは男の真後ろへと移動する。探し物に夢中の背中に少しずつ近付こうと動いた時だった。


「……ん?」


 突然男が振り向くような素振りを見せ、ヒルデは息を呑んで動きを止めた。気配に気付かれたのか――慌てた気持ちが足を動かし、男との距離を取ろうと一歩後ろへ下がらせた。だがその一歩は床板を強く踏み込み過ぎ、運悪くギシときしむ音を鳴らしてしまった。


「!」


 これに男はピタリと止まり、じっと気配を探るように一点を見つめる。お互いが緊張し合い、自分の存在がばれてはいけないと息を殺す。しばらくそうしていたが、やがて男は警戒しつつも再び棚へ目を向け、探し物を再開させた。ヒルデは胸の中で安堵し、また男に近付こうと動き始める。もたもたしていると気付かれかねない。次は素早く、一気に捕まえてレヴィンの居場所を聞き出さなければ――そう考え、ヒルデは背中に忍び寄り、そこへ両手を伸ばした。


「何でないんだ……」


 男が呟いたと思うと、不意に踵を返してヒルデのほうへ移動してきた。まずい、と思う間もなく、男は見えないヒルデの手に正面からぶつかった。


「はっ……え?」


 男は当然驚き、後ずさる。何もないはずの空間で何かとぶつかったのだ。漏れた声には怯えと焦りが混じる。だがヒルデも同じように焦った。姿は見えないとわかっていても、こちらを振り向いた男に気は動転してしまい、あたふたと足踏みをしてしまった。その動く気配を男が近い距離で察しないわけがない。


「なっ……何だ……?」


 見えない存在に男は声をかけてくる。これでは見つかったも同然。だがここで逃げることなどできない。ばれてもいい。絶対に捕まえなければ――半ばやけになったヒルデは、棒立ちになっている男を取り押さえようと意を決してつかみかかった。


「うわっ、ぐっ……!」


 胸元をつかんで床に押し倒そうとしたが、やはり女性の腕力でそこまですることは無理だった。見えない力に押された男は混乱しながらも必死に抵抗し、胸元に絡むヒルデの手を力尽くで引き剥がした。ヒルデの身体はよろめき、背後の壁へもたれかかる。


「一体、何なんだよ……!」


 男は上ずった声を上げると、一目散に窓へ向かい、開いている隙間に頭を突っ込んで逃げようとする。おそらく男はこの窓から侵入したのだろうが、恐怖に慌て過ぎて窓枠に身体が引っ掛かり、じたばたともがいている。ヒルデはすぐに近付くと、その足をつかんで中へ引っ張った。


「わあああ! やめろ!」


 恐怖に怯える叫びを上げると、男はつかまれた足をめちゃくちゃに暴れさせ、ヒルデの手を解いた。その拍子に身体は窓の外へずり落ち、男は家から脱出する。


「ひいい……」


 足をもつれさせながら窓をいちべつすると、男は何度もつまづきながら駆け出して行く。その後を追いたかったヒルデだが、冬の空気と自分が裸だという状況にためらいが生まれた。しかしすぐに思い付き、ヒルデは男の背中目がけて魔法を飛ばした。遠ざかる背中に小さな光が見え、静かに消える。それを確認してヒルデは窓を閉めた。男にかけたのは目印の魔法。対象の物や人物にかければ数日の間、それのいる場所を感じ取れるという初歩的な魔法だ。男が気付いて魔法を解かない限りは追うことができるので、効果の切れる数日内に捜せば問題はないだろう。やっと手掛かりが得られそうだ――ヒルデは静かなやる気をみなぎらせ、部屋を後にした。

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