クリア!

柏木椎菜

一話

 淡い青色の透き通った液体を小瓶にゆっくり注ぎ入れると、レヴィンはそれを笑顔で見つめ呟く。


「……できた」


 蓋をして、中で揺れる液体をまじまじと眺める。


「おそらく、これが一番いい出来の薬だろう。やっと、完成した……!」


 喜びを噛み締めるレヴィンの横で、同じように笑顔を浮かべる妻のヒルデは、興奮する気持ちを抑えつつ努めて冷静に言った。


「まだ完成じゃないわ。動物実験で実際に効果が現れるか試してみないと」


「あ、ああ、そうだね。そこで確かめることができれば、本当の完成になる」


「でも今回の出来なら心配いらないわ。必ず成功していい結果になるはずよ。私はそう確信してる」


「僕もだ。僕も、この薬なら自信が持てる。今までにないぐらいにね。……ヒルデ、ありがとう。たくさん苦労をかけたね」


 そう言うとレヴィンはヒルデを労わるように抱き締めた。


「その言葉はまだ早いわ。完成を確かめてからじゃなきゃ」


「でもこれまで苦労をさせたのは事実なんだ。礼ぐらい言わせてくれよ。この薬を発表すれば、国中が驚いて、僕達は一気に注目の的になるぞ。そうなればこの苦しい生活ともおさらばできる」


「そう上手く行く?」


「行くさ。身体を透明にできる薬なんだぞ? こんなもの世界中を探したって見つからない。ひとたび発表すれば誰もが興味を持つはずだ。もしかしたら王宮からも声がかかるかも」


 子供のように目を輝かせて話す夫を、ヒルデは気が早いと半分呆れつつも、共に目標を達成できそうなことに幸せを感じていた。


 二人は学生時代に出会い、その後結婚をした。当初二人は魔法学を学んでいたが、魔法を扱う素質がないと感じたレヴィンは魔法に科学を絡めた魔法科学研究を始め、その研究者になった。ヒルデは治療魔法師を目指していたが、結婚を機にレヴィンの助手をすることを決め、今はそちらだけに専念していた。


 自分の夢を諦めてまでレヴィンを支えると決めたのは、ヒルデが彼の能力を高く評価しているからだ。まだ二十代と若く、研究者になってから日も浅いというのに、レヴィンは新しい発見をいくつもしていた。どれも小さなもので偉業と言えるほどではなかったが、しかし魔法科学に対する思考や技法への着眼点は他にないもので、ヒルデはそこに明るい将来を見い出していた。とは言うものの、レヴィン自身は大きな研究成果を上げるまでには至らず、数年もの間くすぶり続けていた。研究所に勤務しているわけでもなく、個人ではそれなりの成果を出さなければ研究依頼や援助も来ない。貯金が減るだけの生活を、ヒルデは得意の治療魔法で近所の怪我人を治すことで生活費をどうにか稼いでいた。


 そんなある日に、レヴィンはまた新たな技法を発見した。液体に魔法の効果そのものを溶かすことに成功したのだ。魔力を混ぜて液体の性質を変えることはあったが、魔法の効果を液体に付与する技術はレヴィンが編み出したものだった。これを応用すれば、魔法が使えない者でも、魔法を溶かし込んだ液体を飲むだけで自分の身に魔法をかけることが可能になるわけだ。この発見は大きな可能性を秘めているのは間違いなく、レヴィンの天才的な部分を証明できるものでもあった。しかし彼はこの技法を使って世間をさらに驚かせたいと、身体を透明にする薬を作ろうと考えた。それがどんな役に立つかはさておき、成功すれば驚愕され、各方面にかなりの影響を与えるに違いないだろう。人を透明にする魔法はないため、レヴィンはそれに近い魔法の文献を参考にし、そして試行錯誤の末、手応えのある薬を作ることに成功したのだった。動物実験を経て完成すれば、レヴィンの名は広く知れ渡り、魔法科学界を飛躍させた功労者として、近い将来表されるかもしれない。


「夢は膨らむばかりね。だけど今日はここまでにしておきましょう。外はもう真っ暗よ。続きは明日にして、遅い夕食を食べましょう」


「そうだね……喜んだら急にお腹が減ってきた。続きは夕食の後にしよう」


「夕食の後じゃなくて明日よ。今日は一日中薬を作って疲れてるでしょ? 明日のために休まなきゃ。ね?」


「嫌だって言ったら怒られそうだ……わかったよ。言う通りにする」


 苦笑いを浮かべるレヴィンの頭をヒルデは子供のように優しく撫でて笑う。


「研究結果はどこにも逃げないわ。さあ、行きましょう」


 ヒルデはレヴィンの腰に手を回し、並んで部屋を後にする。


 翌日から二人は早速ネズミを使った実験を始め、薬の効果を確かめ始めた。完成と言えるまでは長期の観察が必要だが、一日、二日と経っても、目印の首紐を付けた透明のネズミは活発に動き回る様子を見せ、今のところ大きな異変はなさそうだった。二人は交互に観察し、見えないネズミの状態や経過を記した。こうして実験はすこぶる順調に進むものと安心して二人は一日を終え、明日を迎えるはずだった。


 だがその日の深夜、玄関を叩く音で二人の目は覚めた。


「……こんな時間に、誰?」


 ベッドに横たわりながらヒルデは眠い目をうっすらと開ける。暗い部屋の中にはドンドンと急かすような音が響き続いている。


「普通の客じゃないかもしれない……」


 同じベッドの隣で寝ていたレヴィンは警戒する口調で言うと、一人ベッドから降りて部屋を出て行き、またすぐに戻って来た。そして手に持った物をヒルデに渡す。


「万が一があるかもしれないから、一応持っててくれ。僕達が作った大事な薬だからね」


 小瓶を受け取り、ヒルデは頷く。二人の研究の結晶とも言える薬だ。何があってもこれだけは誰にも渡せないし、まだ見せることもできない。警戒し過ぎかもしれないが、でもそれだけレヴィンはこの薬に研究者としての命を懸けてきたのだ。


「レヴィン、気を付けて。おかしいと思ったらすぐに扉を閉めて」


 わかったと頷き、レヴィンは玄関へ向かう。一体誰だろうとヒルデもベッドを降りて部屋の入り口から様子をうかがう。普通の客ならいいが、もし強盗だったら……いや、強盗なら扉を叩いたりしないだろう。だがこんな深夜に普通の客が訪ねて来るとも思えない。とにかく危険な相手でなければいいが――ヒルデは小瓶を握り締めながら、固唾を飲んで夫を見守る。


「……誰だ」


 扉越しにレヴィンは聞く。と、ドンドン叩く音はやみ、代わりに男性の声が聞こえた。


「ここを開けろ」


 威圧的な命令口調に、夫婦の表情は緊張に強張る。


「だから誰だ。名乗りもしない相手にここを開けることは――」


「開けないなら強引に開けさせてもらう」


「な、何言って――」


 その直後、扉の向こう側で何かが弾けるような音が鳴り、そして扉は開いた。


「誰だ! 勝手に入って来るな!」


 うろたえながら怒鳴るレヴィンを気にもせず、外から二人の男が押し入って来た。それを見てヒルデはすぐに壁に身を隠す。まさか本当に強盗なのか? 恐怖に身体が固まりながら、耳だけは玄関からの声を聞き続ける。


「レヴィン・レーワルトだな」


「そうだけど……無理矢理入るなんて一体どういうつもりだ!」


「今進めている研究のすべての資料を渡せ」


「……は? 進めてる研究って――」


「大人しく渡せば怪我をすることはない」


 男達は強盗だ。だが金品が目的ではなく、レヴィンの研究資料が目的――ヒルデは小瓶を両手で強く握る。自分はどうしたらいいのか、頭も心も焦るばかりだった。


「研究は僕の命だ。見ず知らずの人間に渡せるわけ――」


「状況を見ろ。いいから渡せ」


「断る。出て行ってくれ! さもなくば街の衛兵を呼んで捕まえてもらうぞ!」


「そうか……では勝手にやらせてもらう」


 そう言うと男はレヴィンに拳を振った。


「うぐっ……!」


 顔を殴られたレヴィンは小さな声を漏らしてよろめく。この声でヒルデは夫が暴力を受けたことを察し、身体をすくませた。


「さあ、研究資料を渡せ」


 殴られた頬をさすりながらレヴィンは男の顔を睨む。


「……嫌だ。絶対に」


 その答えを聞くと、男はすぐにレヴィンの腹を殴った。


「ごっ、ふ……」


 身体をくの字に曲げたレヴィンは、そのまま床に倒れ込む。その音をヒルデは震えながら聞いていた。苦しんで動けなくなったレヴィンを見下ろしながら男はもう一人の男に言う。


「先に資料を集めてくれ」


 おうと返事をして男は研究部屋へと向かって行く。このままでは大事な資料が奪われてしまう。けれどヒルデには止める術がない。しかもレヴィンの身まで危ない状況で、助けに行きたいが、男相手に勝てる自信など微塵もなかった。それでも夫を見捨てることなどできないと、ヒルデが覚悟を決めようとした時だった。


「レヴィン・レーワルト、お前には妻がいるだろう。どこだ。寝室か?」


 ヒルデの心臓は跳びはね、思わず息を止めてしまう。


「うう……妻、は……い、ない……」


 苦しそうな呼吸をしながら、レヴィンはヒルデを守ろうとしていた。それは様子をうかがっているであろう妻に、こっちへ来るなと伝えている。助けようと考えていたヒルデの足は、これを聞いてためらう。


「いないはずはない」


「本当、に……いない……」


 男は小さく息を吐く。


「まあいい。自分で捜す」


 そう言うと男の足音が寝室のほうへと近付いて来た。見つかってしまう――ヒルデは焦りながら部屋を見回す。ベッド、クローゼット、飾り棚、窓……窓から逃げられなくもなかったが、夫を置いて一人逃げるなど心が許さない。ベッドの下には靴や不用品を入れた箱が並んでおり、隠れることはできない。となると残る選択肢は一つしかなかった。ヒルデは急いでクローゼットを開けると、しまわれている服を端に寄せ、その中に紛れるようにしゃがんで隠れ、内側から扉を閉めた。しかし頭ではわかっていた。これは子供のかくれんぼではないのだ。クローゼットの中など簡単に見つかってしまうだろう。でも今のヒルデはここに隠れる以外に道はなかった。


「……やはりここにいるな。音が聞こえたぞ」


 寝室に入って来た男が言った。静かに歩き回る気配がヒルデの恐怖を煽り、じわじわと首を絞めてくるようだった。手足の震えが振動として伝わってしまうのではないかと、ヒルデは胸の前で合わせた両手にギュッと力を入れる。と、握っていた小瓶の中の薬がチャプンとわずかに音を立てた。これにヒルデの意識は釘付けになった。このままでは絶対に見つかる。でも、この薬を飲めば、もしかしたら……しかし完成間近とはいえ、まだ安全性は確認できていない。実験対象も動物の段階で、人間が飲んだらどうなるのか、身体に害がないとは言い切れない。けれど何もせず見つかれば、この薬もきっと奪われるだろう。ヒルデは究極の選択を迫られる。レヴィンの大事な研究成果を渡すのか、自分の身を守るために、どうなるかまだわからない薬を飲んでみるか――


 男の気配がクローゼットに近付いた。その恐怖に耐えられなかったヒルデは小瓶の蓋を開けると、中の薬を一気に口に入れた。無味無臭の液体をゴクリと飲み込み、置いてある服に隠れるように身を伏せる。男に見つかる恐怖と、薬を飲んでしまったわずかな後悔に、ヒルデの鼓動は早鐘を打ち続けていた。


 その時、クローゼットの扉が静かに開かれた。ヒルデは息を止め、置かれた服の間で身を伏せたまま、じっと動きを固まらせる。男の視線と自分のうるさい鼓動を感じながら、ただ時が過ぎるのを祈る。男は無言で中を調べ、ヒルデの前にある服をどかして奥まで確かめようとする。少しでも動けばすぐに見つかる至近距離。あまりの恐怖に目も開けられず、ヒルデは必死に息を殺し続ける。


「……ここではないのか」


 ぼそりと呟いた男はヒルデを見つけられず、クローゼットから離れて行った。そしてベッドの下や毛布をめくってさらに捜す。が、見つかるはずもなく、やがて諦めて寝室を出て行った。それを横目で確認したヒルデは深く息を吐き出す。まだ警戒は解けないが、それでも見つからなかったことは気持ちに若干の安堵を覚えさせた。


「おい、妻はどこへ行った」


 玄関前に戻った男は、床に倒れるレヴィンに再び聞く。


「だから、いないと……」


「嘘をついてもためにならないぞ」


「自分の目で、捜したんだろ? いないものは、いない」


 一貫するレヴィンの言葉に、男は迷うような表情を浮かべる。嘘なのか本当なのか判断がつかないようだった。


「どうした?」


 すると研究部屋から大量の資料を抱えて仲間の男が戻って来た。


「妻が見つからない。いるはずなんだが……」


「こっちの部屋にはいなかったぞ。逃げられたんじゃないのか?」


「かもしれない。寝室には窓があったし……仕方ない。今日のところは引き上げよう」


「ああ。こっちは残りの資料を運び出すから、お前はそいつを頼む」


「わかった。……そら、立て」


 男はレヴィンを立ち上がらせると、懐から取り出した縄で両手を縛り始める。


「こんなことして……僕をどうするつもりだ」


「お前にはいろいろ詳しく聞かなければならない。一緒に来てもらう」


「どこに連れてい――むぐっ!」


 レヴィンの声をさえぎるように、男はその口にねじった布を当て、頭の後ろで強く縛る。


「んー、んんー!」


「無駄な抵抗をする気なら、気を失わせてもいいんだぞ。さあ歩け」


 男はレヴィンの腕をつかみ、引きずるように家から出て行く。もう一人の男も研究資料を運び終えると、玄関扉をそっと閉めて立ち去って行った。


 家の中に静寂が訪れる。耳を澄ませ、強盗の気配がないのを確認すると、ヒルデはクローゼットの服の中からのそのそと這い出た。そして恐る恐る玄関へと向かう。


「……レヴィン……」


 そこに夫の姿はない。恐怖で助けることができなかったせいで、レヴィンは強盗に誘拐されてしまった。その事実を突き付けられ、ヒルデは途端に後悔し始めた。やっぱり隠れずに出て行くべきだった。たとえひどい目に遭わされたとしても、こうして一人残されるぐらいなら身をていしてレヴィンを助けるべきだった。薬など飲まずに――そう思ってヒルデはふと気付く。男に見つからなかったのは薬を飲んだおかげだったのだろうか。自分の身体は今どうなっているのか。


 玄関のすぐ横にかけられた丸い鏡の前へ、ヒルデは小走りに向かった。そしてその中に映った自分を見てみるが……暗い景色があるだけで、そこに自分の顔は映っていなかった。


「私が、いない……!」


 ヒルデは顔の映らない鏡に思わず手を伸ばす。と、その手も見えないことに気付き、自分の身体を見下ろす。着ている寝巻は見えるのに、その下にあるはずの肌がどこにも見えない。足を上げても、袖をまくっても、触ると感触はあるのに身体だけが見えない。まさに透明になってしまったとしか言いようのない状態……。


「……すごい……すごいわ! 薬は成功してる!」


 鏡に映らない自分と、見えない両手を交互に見ながら、ヒルデは興奮して喜んだ。これこそ望んだ薬の効果だった。人間でもしっかり効果が表れている。だから男はヒルデに気付かなかったのだろう。これをレヴィンが見たら、一体どれほど歓喜することか――しかし今はまったく喜べる状況ではないのだと、ヒルデは気持ちを戻される。レヴィンは誘拐されてしまい、自分は取り残されてしまった。しかも透明になった身体で。強盗の素性も目的も、夫が連れて行かれた場所もわからない。被害を訴えようにも、こんな身体では簡単に人と接するわけにもいかないだろう。ヒルデは置かれた状況の深刻さに改めて気付かされる。私はどうすればいいのか――暗い部屋にぽつんと立ったまま、しばし途方に暮れるしかなかった。

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