112(シオン視点)胸中
興奮とともに、僕は屋敷の廊下を進んでいく。
父がすんなり認めてくれたのは意外だった。
反対されても行く。
そう決めて臨んだ説得だったが、ああもうまくいくとは拍子抜けだ。
もし旅費や生活費の援助が得られなかったら、冒険者になってでも学費を稼ごうと思っていたのに。
「いろいろ思うところはあるけど、複雑だな」
父は言った。
悪評は自分だけが被ればよい、と。
母を亡くして以来信仰に依存し、子どもたちと必要以上の関わりを持とうとしてこなかった父だが、彼なりに子どもの将来を案じているということか?
「いや、だとしたら兄さ……ゼオンはどうなるんだって話になるけど……」
ハズレギフトを引いたことに対する信仰上の反発と、これまで優秀な跡取りとして育ててきた兄への愛情とがぶつかりあって、前者が勝ったということなのか?
あるいは――
「まさかとは思うけど、本気で僕たちが父の子じゃないと思ってるんじゃないだろうな」
母が他の男と関係を持っていたなんてことがありうるんだろうか?
そりゃ、夫婦のことが幼い僕やゼオンにわかっていたとは言えないかも知れないけど。
「やはり問題はゲオルグ枢機卿か……」
枢機卿の立場は領主の非公式な相談役というものでしかない。
だが逆に言えば、それだけの立場でしかないにもかかわらず、父が頼り切りになるような精神的な依存関係があるということだ。
「シオン様」
背後から声を駆けられ、僕は振り向く。
背後にいたのは、先ほども部屋にいたトマスである。
どうやら僕を追いかけてきたらしい。
「トマスか。さっきは助かったよ。ありがとう」
僕が素直に礼を言うと、トマスはやや驚いた顔で、
「もったいないお言葉にございます」
「トマスが僕の味方をしてくれるとは思わなかった。どうしてあんな口利きをしてくれたんだ?」
と、僕は疑問に思ってたことを訊いてみる。
だが、トマスの返事はにべもないものだった。
「勘違い召されぬよう。私は今でもゼオン様こそが領主になるにふさわしいと思っております」
まあ、そうだろうとは思ってた。
「じゃあなぜ」
「ゼオン様がここにいらっしゃれば、同じようにおっしゃられていたはずですので」
なるほど。ゼオンへの忠義の延長というわけか。
街のデモ参加者といい、この屋敷の使用人たちといい、もういなくなったゼオンのことがいまだに脳裏に焼き付いているようだ。
対して、僕はどうだ?
現にいまここに跡継ぎとして存在している僕に対し、どれだけの使用人が本心からの敬意を抱いてることか。
僕はつい、反発心がもたげてきて、
「はっ、どうかな。兄貴だって僕のことを憎んで……」
「ゼオン様はそんな器の小さな方ではございません。裏切られてなお、シオン様のことを案じておられることでしょう」
「そういうところが気に食わないんだよ、まったく……」
自分を酷い目に遭わせた相手のことを恨んだっていいじゃないか。
そのほうがずっと人間的だ。
教会だってそうだ。
頬を殴られたら反対の頬を差し出せと教えているが、あの枢機卿が誰かにいきなり殴られて相手を赦すとは思えない。
むしろ相手が破滅するまで追い込むんじゃないか?
そういうある種のガッツというか粘着質なところがないと、教会内の熾烈な権力闘争には勝ってこられなかったのかもしれないが。
だとしたら、ますます教会なんてろくな組織じゃない。
「その兄貴はいまでは勇者だ。人望は、追放前より劣らないどころか、むしろうなぎのぼりじゃないか。街では『ゼオン様の帰還はまだか』とほとんど救世主扱いだ。なんなんだ、あの人は……」
と、ため息をつく僕に、
「あなたはあなたで、開き直られてはいかがですかな。ゼオン様と旦那様を見返してやるというおつもりで己の道を歩まれればよいではありませんか」
トマスがそんなことを言ってくる。
僕はそのトマスをじろりと睨んで、
「見返すというなら、あんたこそだ、トマス」
「私、ですか? 私を見返す、とおっしゃられるので?」
「ああ。兄貴はともかく、親父の評価なんて他人に何か言われただけですぐにひっくり返るようないい加減なものだ。そんなもののために頑張るなんて馬鹿らしい」
自分が跡取りとして育ててきたゼオンをハズレギフトを授かったというだけで廃嫡した男だ。
僕に対する評価だって、いつどんなことで覆るかわかったもんじゃない。
不始末のあった僕が兄に続いて廃嫡されずに済んでるのは、単に僕より下に弟がいないからにほかならない。
「この家の……いや、クルゼオン伯爵領の実務を実際に回してるのはあんただろう」
他にも市政やギルド対応なんかをやってる行政官もいるが、貴族家としてのクルゼオン家を回してるのは目の前にいるトマスである。
裏の諜報活動なんかではトマスにしかわからないことが山ほどあるらしい。
「使用人である私の評価など、なおさらではありませぬか」
「いや、この家でいちばんもののわかってるのがあんただよ。あんたの評価が覆るってことは、僕が本当の意味でこの家を継ぐにふさわしい人間になったということだ」
「ふむ……」
初めて、トマスが僕に探るような目を向けてきた。
「たしかに、僕はやらかした。いろんな人に迷惑をかけた。その償いはできる範囲でするつもりだが、もちろん、消えない恨みだってあるだろう。だが、僕は過去を踏み越えたい」
「……ゼオン様にも申し上げておりますが、若いうちには失敗をするものです」
「と言ったって、兄さんは人の恨みを買うような失敗はしないだろうけどな」
「それはまあ、たしかに」
「ふん、そんな天才に僕のことがわかってたまるか。僕は努力の人間だ。積み重ねることでしか到れない境地もあるはずだ。失敗したことは、明日できるようになればいい。そのためには、失敗し、学ぶための環境が必要なんだ。だから僕はアイオロスに向かう。誰も僕を甘やかさない場所に行って、自分で自分を追い込むんだ」
僕の言葉を、トマスはしばし吟味しているようだった。
たっぷり数秒は経っただろうか、トマスは淡い笑みを浮かべて、
「なるほど、あなたの器はまだ小さい。しかし、大きくなる器だということですな」
何やら感慨深そうにそう言った。
「ふん、使用人の分際で上から言ってくれるな」
「ふふっ、お見返しになるのではなかったですかな」
「お見返しになるって……ははっ、そんな敬語があるものかよ。あははっ!」
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