102 対スルベロ・涙の勇者

 言葉にすることで、俺はようやく無数の涙から解き放たれた。


「マスター! 大丈夫なんですかぁ!?」

「ゼオンくん? 大丈夫!?」


「あ、ああ」


 詰め寄って心配してくるレミィとアカリにそう答える。


「いまのは一体……?」


「流された涙を感じ取ることができる……それだけの力。相手の涙を受け止めることで、少しだけ深く、相手のことが理解できる」


「それだけか?」


「それだけ。『水の勇者』のように水の大精霊を召喚することもできなければ、『清流の勇者』のように水を自在に操ることもできない。『怒涛』や『豪雨』みたいに水の力をおのれの力にできるわけでもない」


「その割には激烈な体験だったんだが」


「おかしい。勇者称号を与えられて死にかけた例なんて聞いたことがない」


「し、死にかけてたのか?」


「その妖精に感謝するべき。彼女が涙に溺れかけたあなたを助けてくれた。妖精の持つ精神干渉を跳ね除ける力で」


「ああ、ネゲイラの『魅了』を弾いた力か。助かった、レミィ。ありがとう」


「いえいえ、他ならぬマスターのためですから! それより、溺れかけたというのはどういうことなんですかぁ?」


「『涙の勇者』は他者の悲しみを感じ取ることができる。でも、すべての悲しみをおのれのことのように感じ取ってしまったら、一瞬にして精神が壊されてしまう。大きすぎる悲しみにはフィルターがかかるし、一定以下の悲しみや、遠すぎてかすかにしか感じれない悲しみは、意識に上らないようになっている。人間の目が、弱すぎる光を拾えないのと同じように」


 ウンディーネの説明を聞いて、ぴんときた。


「感じ取れる悲しみの強さの『下限』を突破したってことだろうな」


 感じ取った中には、「せっかく買った串焼きを落としてしまって悲しい」みたいな微弱な悲しみもあったからな。

 そういう取り立てて悲しむほどでもない悲しみは世界に無数に存在してる。

 そうした微弱な悲しみをすべて拾ってしまっては、肝心要の大きな悲しみが感じ取れなくなってしまう。

 さっきは目の前にスルベロという圧倒的に「悲しい」存在がいたことで、真っ先にそれが飛び込んできたんだけどな。

 その次に、ウンディーネ、レミィ、アカリ、リコリス、リコリナか。

 妖精として感情を常に表に出すレミィには心の奥に沈んだ悲しみはなかったが、大精霊としてこの世を見守ってきたウンディーネの中には深い悲しみがあった。

 部族を失い、の天使として教育されたリコリス、リコリナの心にも表に出せなかった悲しみが沈んでいる。

 一見明るく見えるアカリの心の奥底にも、呑み込まれた無数の涙が眠っている。

 勝手に心の中を覗いたようで引け目を感じるんだが……。


 ともあれ、「涙の勇者」の能力と俺の「下限突破」が妙なシナジーを発揮して、俺は世界に満ちるあらゆる悲しみの中に溺れかけたってことらしい。


「ちゃんと意識していれば溺れることはないみたいだな」


 俺はスルベロに視線を据える。

 七つの霊獣を合成したキメラであるスルベロは、涙という意味でも異様な存在だ。

 七つの頭がそれぞれに泣いている――だけじゃない。

 七つの頭がそれぞれに抱える悲しみが混線し、スルベロの中でひとつの塊になりかけている。

 肉体はキメラとして一体となったスルベロだが、精神の方はまだ合成される途中なのだろう。


「今ならまだ間に合うかもしれない」


 俺は持ち物リストから「凍蝕の魔剣シャフロゥヅ」を取り出し、装備する。


「下がっててくれ」


 と、皆に言いおいて、俺はスルベロに近づいていく。


 スルベロが俺に気づき、いちばん近くにあった鷲の頭が俺を向く。


 鷲の霊獣シュシュタリアンは風属性を得意とする霊獣だ。

 鷲の頭が生み出した数本の旋風つむじかぜが、俺を押し包むように迫ってくる。

 「水時計」ほどではないが、ガルナあたりでも余裕で呑み込みそうなサイズの旋風だ。

 いっそ小型の竜巻といったほうが正しいかもしれないな。


 俺は退くのではなく、前に踏み出すことで、旋風二つの隙間を抜けた。


 身体が自然に動いた。


 彼の涙を理解したことで、彼の狙いが読めたのだ。


 あれだけの旋風なら近づいただけで危険なはずだが、その風の流れすら見えていた。

 風を完全に掌握するシュシュタリアンの頭は、俺が風を避けそうになれば涙を流す。

 いや、実際に見えるほどの涙を流してるわけじゃない。ただ、落胆、失望、危険、そういった感情がごくわずかな「涙」を生み出すのだ。

 だから、「涙」の匂いのするほうへ動くだけで、自然に旋風の群れを抜けられた。


 スルベロ本体は、湖上にある「水時計」に身体を突っ込ませ、ウンディーネの司る精霊の大循環に割り込むことで、かろうじて不安定な存在を保っている。


 俺は魔剣に意識を集中する。

 湖の上に、まっすぐな氷の橋ができていく。

 橋はスルベロに近づくにつれて段差がつき、スルベロへとたどり着くための階段となる。

 魔剣は俺のイメージ通りの仕事をしてくれた。――代わりにごっそりMPを持ってかれたみたいだけどな。


 アッティラ、ドルパニア、キリセリオン、そして再びシュシュタリアン。

 いずれの攻撃も紙一重で見切りながら、俺は氷の階段を駆け上がる。


「す、すごっ!」

「さすマスですぅ!」


 背後でアカリとレミィの驚く声。


 だが俺は、それに浮かれる気にはなれなかった。


 スルベロの身体に巣食う悲しみの渦の中に、あきらかな異物があるのがわかる。

 七つの悲しみを橋渡ししているように見えるのに、その実、決して七つの涙と交わろうとしない、人造の異物だ。


 俺はスルベロの甲羅に飛び移った。

 天から降り注ぐ水の精霊たちが、俺のことを避けて湖面へと逃げていく。

 皮肉なことに、巨大な甲羅の上はほぼすべての頭にとって死角になっていた。

 四枚の鷲・鷹の翼のみが俺を落とそうと襲い来るが、これはあまりにぎこちない。翼は元々攻撃のためのものじゃないからな。


「ここだな」


 本来頭のあるべきでないところから頭を生やした甲羅には、あちこちにヒビが走っている。

 そのヒビのいちばん深いところの奥に、わずかに赤黒い球面が覗いていた。

 これが、アカリの言ってた融合魔核に違いない。


「破壊するんじゃダメなんだったな」


 あれに「魔紋刻印」を使って「分離」の魔紋を刻まないと。


 近くで見ると、甲羅のヒビは、人が一人そのまま潜り込めるほど大きかった。

 甲羅の中には正体不明の肉質が蠢き、謎の浸出液が溢れている。

 俺はその浸出液をシャフロゥヅで凍らせると、ヒビの中に飛び込んだ。

 ちょうど墓穴くらいの大きさの穴の底に着くと、俺の靴の底が魔核表面にぶつかって硬い音を立てた。


 俺は穴の底にしゃがみ込み、魔核表面を手探りでなぞる。


「『魔紋刻印』――『分離』!」

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