84(シオン視点)好き嫌い

 僕にとって――いや、ミレーユ以外の全員にとって衝撃的だった夕食会は終わった。

 交代した次期嫡男である僕をあわよくば王女の夫として売り込みたい父の必死のアピールを、ミレーユは涼しい顔でいなしていた。

 クルゼオン伯爵家と王家との縁を結ぶのなら、何もあのハズレギフトにこだわることはないではないか――父がおもわずこぼした言葉を、


「私は家名と結婚するわけではありませんので」


 その時だけは憤りを滲ませて、ミレーユはきっぱりと撥ねつけた。


 そのあいだ僕は、真っ白な頭のままで機械的に料理を口に運んでいただけだ。


 僕は火照った頭を冷やすべく、飛竜の繋がれた厩舎へとやってきた。


 ドラグディアは温厚でおとなしい性格なので繋いでおく必要はない。

 ただ、万一暴れられでもしたら危ないからと、主に屋敷の人間の安心のために繋がれている。

 もし僕がドラグディアの立場だったら不愉快極まりない話だと思うが、さいわいなことに当のドラグディアはまったく気にした様子がない。


 夕食会の前に与えた餌を完食し、ドラグディアは静かな寝息を立てて眠っている。

 その寝顔は安らかだ。

 眠る赤子を見守る母親はこんな気持ちになるのだろうか。


「ここにいらしたのね」


 不意にかけられた言葉に、僕ははっとして顔を上げる。


「ミレーユ……様」


「ミレーユで構いませんよ。昔のように」


「昔のようにはいきませんよ」


「そう……ですか」


 わずかに目を伏せて、ミレーユがつぶやく。

 憂いを帯びた瞳とそれを覆う長いまつげに息を呑む。


「本当は、もっと簡単なことだと思うんです。大人たちはみな、難しく考えてるだけなのだと」


「実際、世の中は難しいですよ」


「そうでしょうか? 三人集まれば派閥ができる、などと言いますが、それは結局、個人の好き嫌いの問題なのではないでしょうか。AさんはBさんよりCさんが好き、というような。それ以外のことは、すべて後付けの理屈です」


「好き嫌いでは済まない話もあります」


「嫌いであれ、協力せざるをえないことはありますね。でも、往々にして長続きはしないものです。遠からず、関係が壊れるか、逆に相互理解が進んで仲良くなるか」


「仲良くなるならよいのではないですか?」


「仲が悪いままで共存し続けるのは難しいということですよ。関係を壊すか、自分の気持ちを変えるか、ですね」


「気持ちか……そう簡単に変わるものじゃないですね」


 好きだと思うものを嫌うことも難しいが、嫌いだと思ったものを好きになることも難しい。

 そうした気持ちから距離を置いて冷静に物事に対処しようと思っても、必ずどこかで噴き出すものだ。

 そうして噴き出した好悪の感情が、往々にして厄介ごとを引き起こす。

 僕と兄の関係のように。


「そう。気持ちは簡単には変えられません。世故長けた老獪な政治家であっても、個人の好悪から自由になることはできません」


「そういう人たちはむしろ、感情のままに振る舞ってるようにも見えますがね」


「本人たちは必死なのですよ。自分の目的を果たすためにはどんな屈辱も耐え忍ぼう、そんなことを大真面目に考えているのです。その分、勝手気ままに振る舞える相手に対しては、自分の好悪を剥き出しにする、ということではないでしょうか」


「迷惑な話ですね」


 と、答えるが、同時にちくりと胸を刺される感触もあった。

 勝手気ままに振る舞える相手に対して、感情を剥き出しに対応する――まさに僕がやったようなことだ。


「水に落ちた犬は叩かねば損、と思う人は多いのです」


「……姫は僕に説教をしにきたのですか?」


「ふふっ。ふくれっ面は昔と変わりませんね。安心しました」


 僕の顔を覗き込んで笑うミレーユに、僕は憮然と黙り込む。


「ミレーユ様が兄――いえ、元兄の婚約者だというのは強弁がすぎるのではありませんか?」


「そうですね。幼い日の約束。ゼオンのことですから、今では忘れているのではないでしょうか」


 と言って、かすかに笑うミレーユ。

 その笑いは寂しさではなく、どこか嬉しそうに見えた。

 あの男の欠点すら愛おしい――ということか。

 だが、僕にはない。僕の欠点を誰かが優しく微笑んで受け入れてくれた経験ことなんて。


「……僕は覚えていますよ」


「えっ?」


「実は、聞いてしまったんですよ。盗み聞きしたわけじゃないんですが、たまたま声が聞こえてきて」


「そう……だったのですか。恥ずかしいですね」


「兄の側に婚約したという意識がない以上、あれを婚約とみなすのは無理があるのでは?」


「一国の王女を相手に、結婚すると約束したんです。私はどこまでも突っ張りますよ。幼い私を誑かした責任を取ってもらいます」


「ですが、その兄も今では身分を失い、平民になった。ミレーユ様の結婚相手としてとてもふさわしいとは言えません」


「ふさわしいって、なんでしょうね。王女の結婚相手は釣り合った身分の持ち主であるべきだ――なんていうのも、誰かが簡単なことを難しく考えた結果でしょう?」


「しかし、それで世の中が回っています」


「シオン。あなたは、架空世界仮説……という言葉をご存知?」


「あなたまでそれを口にするのですか」


 兄――ゼオンの口からさんざん聞かされた言葉だ。


「この世界は誰かが作り上げた架空の世界だという学説でしたね。学説としてはお粗末な根拠しかありませんが」


 なんのかんのと理屈をこねてはいるが、客観的な証拠は何もない。

 だいたい、そんなことを言い出したらなんでも言いたい放題になるではないか。

 この世界を古代人が作ったと主張するのなら、同じくらいの根拠でこの世界を作ったのは神だと言ってもいいはずだ。逆に、この世界は最初からこのような世界として存在していて、造物主などというものは存在しないと言ったっていい。なんなら、この世界を作ったのは僕だと主張しても、信憑性という意味では大差がない。

 兄だったあの男が持ち出すこの手の空想的な議論が、僕は本当に大嫌いだった。


「世界が誰かによって作られたものだとしたら……そんな世界に縛られるのは馬鹿らしいと思いませんか? 地位とか身分とか栄誉とか、まるっきり実感が湧かないんです。まるで、世界にたまたまこの役割を任されたような……下手な役者になったような気がしてならないんです」


「だとしたら、いいじゃないですか。この現実が芝居なのだとしたら、ミレーユ様の引き当てた役は主役級で、しかもはまり役だ」


「この立場に生まれたことに不満を言っているのではありません。ただ、信じきれないのです。この世界にはどうにも重みがない――と言いますか」


「誰かに作られたのだとしても、現に僕たちはここにいます。この現実の中で生きている。僕は自分やあなたの実在を疑ったことはありません。地位も身分も栄誉も、確かに存在するとしか思えない。疑うだけの根拠がありません」


「ふふっ、その顔。議論でムキになるとすぐあなたは――」


「やめてください。昔は昔、今は今だ。あなたにとって僕は弱くて守るべき弟のような存在だったかもしれないが、今は違う」


「そう、ですか……。それは失礼を申しました」


 ミレーユが寂しそうに首を振る。


 ミレーユが言外に言ってることは僕にもわかる。

 ミレーユは、僕たちが三人で過ごしたあの夏のことが忘れられないのだ。

 だから、僕にも、あの頃のままでいてほしい。


 彼女がもし、あの時から抜け出せなくなっているのだとしたら?

 世界があの時のままであってほしいと願うあまり、それ以外の世界を現実と認められなくなっているのだとしたら?

 誰かが彼女を益のない幻想から引っ張り出してあげる必要があるのではないか?


 そして、それが僕であってはなぜダメなのか?


 僕は、あの幼い夏の追憶よりも美しい思い出を、彼女と一緒に作りたい。

 作れるはずだ。

 あれが僕の――彼女の人生の「上限」だったなんて、僕は死んでも認めない。


「僕にとって、身分は大事なものです。たしかに、誰かの拵え上げた虚構なのかもしれない。そうじゃなかったとしても、国を一歩出れば、あるいは、この国が明日滅びでもしたら、シュナイゼン王国の貴族であることなど、なんの意味も持たなくなる。その意味ではたしかはかないものでしょう」


「それでもなお、あなたはそうしたものに価値を見出すと言うのですか?」


「当たり前です。僕には身分が必要なんだ。次期クルゼオン伯というだけではまだ足りない。僕をもっと特別なものにしてくれる何かが要る。それこそ、魔王を倒した勇者――というような、桁外れの栄誉が、僕は欲しい」


「どうして? シオンは十分恵まれた立場にあるではないですか。栄誉を求める道は危険で、苦しいものです。どうしてあなたは、あんなに仲の良かった兄を陥れてまで――」


 どうして。

 訊きたいのはこっちだ。

 どうしてこの人は、僕の気持ちをわかってくれないのか。

 いや、わかる以前に気づいてすらくれないのか。


 僕は苛立ちに突き動かされ、気づけば決定的な言葉を叫んでいた。


「そんなの、あなたを愛しているからに決まってる!」

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