68 幼いプロポーズ
別荘のバルコニー――この時間には誰かに話を聞かれるおそれのない静かな場所だ。
「この夏は……私にとって、宝物です」
ミレーユは言った。
「私はずっと、王宮で一人ぼっちでした。本当の意味で友達と呼べる人もいなくて」
ミレーユは満天の星空に目を向けている。
「ゼオンとシオンは、初めてのお友達です。こんなに楽しく遊べたのは生まれて始めて。ずっと、こんな日が続けばいいのに……」
寂しげなミレーユの横顔に、俺は何を言っていいかわからなかった。
「私は、この幸せを一時のものにしたくない。ゼオンとシオン、シラーと別れたくない」
「俺もだよ。でも、また会えるさ」
「そうでしょうか? ゼオンのお母様は私のお母様と遠縁でした。その縁のおかげで、この別荘でゼオンたちと出会うことができました。でも、ゼオンのお母様がお亡くなりになった以上、この先、王家とクルゼオン伯爵家の縁は薄らいでいく一方でしょう」
そんなことを、八歳の女の子が考えてるのは驚きだよな。
そこはやはり、王族としての教育を受けてきたということか。
あるいは、彼女本来の聡明さや人間観察力によるものなのかもしれない。
「あの、ですね。変なお願いをしてもいいですか?」
ミレーユが俺の方を向き、上目遣いになっておずおずと訊いてくる。
「俺にできることなら、なんでも」
「ふふっ、言いましたね? 実は、ですね。私と――結婚してほしいんです」
ミレーユの言葉に、俺の頭はフリーズした。
夢としてこれを見ている今の俺も、このセリフを再び聞いて、フリーズした。
八歳の女の子の思いつき――と考えるには、彼女の顔は真剣だった。
「どうせこのままだと、外国の王族か、国内の有力貴族の男子と結婚させられるに決まってます。そうなった時に、この夏のことを思い出しながら、かなわなかった人生を惜しみながら生きていくのはいやなんです」
今の俺なら、なんと言うだろう?
まだ、これから先もっと楽しいこともあるかもしれないじゃないか。
政略結婚とは言え、相手をまったく選べないわけではないのだから、中にはもっといい相手がいるかもしれないじゃないか。
成人の儀を終えて半分以上大人になった俺なら、そういうことも言えると思う。
でも、この時の俺はそうじゃなかった。
まだ性や婚姻のなんたるかもわかってないお年頃のガキだからな。
「ミレーユと結婚したら楽しいだろうな。シオンと一緒に三人で遊べるし、シラーも一緒だ」
この夏の楽しさがずっと続く――当時の俺は、そんなふうにしか考えられなかった。
完全に子どもの発想だ。ミレーユの言葉に込められた意味を、かけらも汲み取れていなかった。
でも、しかたないじゃないか? 少年と少女の違いを考えなくても、ミレーユは年齢以上に早熟だ。
王女なら、国内外の情勢次第で、ごく幼い年齢のうちに婚約者が決まったり、実際に嫁いだりすることもあるからな。
「ふふっ、今はそれでよしとします。約束、ですよ? 忘れないでくださいね」
「ああ」
八歳だった俺が安請け合いするのを見て、俺は頭を抱えそうになる。
この国の王女と婚約を交わす――これがどれほどの意味を持つか、当時の俺にはさっぱりわかってない。
と同時に、湖の方から風が吹く。
昼の熱をなだめるような涼やかな風だ。
八歳の俺と一体化していた俺は、その風に流されて、幽体離脱のように、少し離れた上空へと流された。
その上空からバルコニーを見下ろして、俺は気づく。
バルコニーの死角になる物陰に、八歳の俺と同じくらいの大きさの人影がある。
暗い顔で、唇を噛み締め、目には涙を浮かべ、それでもその場にうずくまって動けないでいる。
……シオン、か?
これは、夢なのか?
俺が作り出した妄想か?
それとも、本当にあの時シオンは俺とミレーユの会話を聞いていたのか?
ミレーユは、俺と結婚したいと言った。
この夏を終わりにしたくないのだと。
だが、それならば疑問が湧く。
なぜ、ミレーユはシオンではなく、俺を選んだのか。
夢の中で考え込んでいると、吹いていた夜風がいつのまにかやみ、俺は一面真っ黒な闇の中にいた。
闇の中にいて、俺はベッドに寝かされているようだった。
だが、両手両足が動かない。
両手はバンザイの形に上げられた上に、ベッドボードに丈夫なロープで繋がれている。
両足は、大きく広げられた上に、足首をベッドの脚に縛られている。
闇の中に、ぼうっと浮かび上がる人影があった。
「どうして、忘れてたんですか?」
闇の中から白く浮かび上がった顔は――年齢相応に美しくなった十五歳のミレーユだった。
純白のドレスを身にまとった彼女の手には、不釣り合いなものが握られている。
刃渡りの長い、両刃の鋭いナイフである。
「ミレー……ユ?」
「ゼオン様。私と結婚してくれるって、言いましたよね?」
言葉とともに、ミレーユが逆手に握ったナイフを振り下ろす。
ぶずっ、と肉を断つ音を立てて、ナイフが俺の脇腹に突き刺さった。
「ぐあああああっ!」
「なんで、約束を破ったんです?」
ざぐっ!
「がああああっ!」
「なんで、追放なんかされちゃったんですか⁉ 貴族じゃなくなったら、私と結婚できないじゃないですか! ゼオン様の嘘つき! 私、ずっと待ってたのに……待ってたのにぃぃぃぃ!」
ぐざっ!
「やめろ、俺が悪かったから……助けてくれええええ!」
がばっと布団を跳ね上げて、俺は起き上がる。
もう、夢の中じゃない。
現実だ。
だが、すぐに俺は、奇妙な感触に気がついた。
全身がべたべたに濡れている。
悪夢を見て汗をかいたのかと思ったが、違った。
月明かりの中でも、一目瞭然だ。
俺は、全身血まみれの状態で、宿のベッドの上にいた。
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