67 その夏のこと
夢を見ていた。
と、最初は思ったのだが、見ているうちにそのことも忘れ、俺は昔の出来事の中に没入している。
俺とシオンが八歳の時のことだ。
俺とシオンは母を亡くし、相当に落ち込んでいたらしい。
そのことを心配した王妃様が、国王陛下を通して、王家の別荘に俺たち一家を招いてくれた。
王女であるミレーユ殿下と出会ったのはその別荘でのことだ。
俺たちと同年齢のミレーユ殿下は、完ぺきな行儀作法とは裏腹に、優しく親しみやすい少女で、俺とシオンは瞬く間に魅入られた。
ミレーユにとっても、俺たちとこんなに馬が合うとは思ってなかったんじゃないだろうか。
小さな子ども特有の遠慮のなさで、俺とシオンとミレーユは、その夏、たしかに親友と呼べる存在になっていた。
年齢を考えれば幼馴染と言ったほうがいいのかもしれないが、俺とシオンとミレーユの関係は、ついにその夏だけで終わってしまったからな。
王家のものとしては質素な湖畔の別荘で過ごしたあの夏は、俺にとっていまだに忘れがたい思い出だ。
シオンやミレーユにとっても、そうであってほしいと思ってる。
湖畔での水遊び、釣り、キャンプやハイキング。
ミレーユと過ごす楽しい時間は、幼くして母親を失った俺とシオンの心の傷を癒やすには十分すぎた。
ミレーユは、美しい少女だった。
そのことは、当時わずか八歳で、性に目覚めてもいなかった俺にもはっきりとわかった。
とにかく、髪や目や肌の質感が違う。
超一流の画家でもここまでは描き込めないというほど、緻密に描きつくされた容姿なのだ。
もし十五歳になった今の彼女がふいに俺の目の前に現れたら、そのあまりの美しさに、俺はまともに目を合わせることすらできないかもな。
俺たちはある日、湖畔に迷い込んできた、大きな白い犬を保護することになった。
大人たちには黙って森のなかに小屋を作り、そこに白い犬を匿った。
犬は脚に大きな怪我をして、うまく歩けないようだった。
これは、異例なことだ。
そもそも、大抵の怪我は、HPが回復するとともに治っていく。
人間よりも動物やモンスターの方が治癒力が高く、手傷を追わせたはずのモンスターでも、取り逃がしてしまうと次に出会った時には手傷は大抵なくなっている。
角や牙が折れる、腕や足が切断される、といった大怪我なら、HPが回復しても怪我として残ることがあるけどな。
人間も同じことだ。怪我をしてもHPを回復すれば怪我は治る。ただし、怪我を長期間放置すると傷跡が残ってしまうこともある。
モンスターと同様、手足や指を切断されてしまったり、歯を折られてしまったりすると、HPが回復しても失われた部分がもとに戻ることはない。
まだ若そうな大きな犬は、生命力の点では人間をはるかに凌ぐように思えた。
にもかかわらず、怪我が治り切っていない。
こういう現象が起きる原因として考えられるのは、一部の特殊な武器やスキルの効果ではないか、ということだ。
一部の武器やスキルには、「相手に怪我を負わせる」ことを目的としたものがある。
「裂傷」、「重火傷」、「部位破壊」、「壊死」といった凶悪で治療困難な状態異常が、この世界にはいくつも存在する。
それ以上に酷い状態異常も、知られていないだけで存在するんだろう。
この白い大きな犬は、そうした状態異常を引き起こす武器ないしスキルで攻撃され、どこかから逃げてきたんだろう。
「かわいそうです」
とミレーユが言い出し、俺たちはこの犬を匿うことにした。
大人たちに秘密にしたのは、もしこの犬がモンスターだったら、大人たちはこの犬を殺すと思ったからだ。
今思えば、危ないことをしたものだ。
元気を取り戻した犬……型のモンスターが、僕ら三人の子どもをぺろりと平らげてしまうおそれもあったんだからな。
ミレーユは酷いかぎ裂きになった傷を、別荘のシーツを破って包帯にし、ぐるぐるに巻き付けて保護した。
俺とシオンは、別荘の食料庫にこっそりと忍び込み、犬にやるための食料を運び出した。
……ひょっとしたら、トマスあたりにはバレバレだったのかもしれないけどな。
ともあれ、俺たちは大人の目をかいくぐって白い犬の世話をした。
「お名前を付けたいですね」
とミレーユが言ったので、
「シロとか?」
何も考えずにそう答えると、
「毛の色だけで言ってません?」
ミレーユにジト目で睨まれてしまう。
「じゃあ……シラーとか」
「シラー、というのは?」
「古代人の詩人の名前」
「ゼオンは物知りですね」
と微笑むミレーユに、まさか「文学全集の背表紙で見ただけだ」とは言えなかった。
シラーは元気を取り戻した。
ミレーユがいつもそばにいて、包帯の上から優しく撫でていたのがよかったのか、どうか。
シラーはミレーユに懐くにつれて、急激に体毛の色艶が増し、目の光が明るく聡明そうになり、爪や牙が震えるほどに鋭利になった。
俺にはミレーユがシラーに何かを分け与えたようにも見えたんだが……ミレーユは俺たちと同じく当時八歳。ギフトもまだ持ってない年齢だ。
俺たちは元気になったシラーを見送ろうと思ったのだが、肝心のシラーがミレーユにつきまとって離れようとしない。
その様子は、お姫様を我が身に代えても守ろうとする白銀の騎士のようだった。
結局、大人たちに俺たちの秘密はバレた。
バレたが、どこか気品すら漂うになったシラーを見て、大人たちは問題なしと判断した。
ミレーユの「護衛」としては恰好ではないか、なんて言ってな。
国王陛下は、「ホワイトアヌビスを従える姫とは、まるで伝説のようではないか」とむしろ喜んでいたらしい。
その時になってようやく、シラーがホワイトアヌビスという上位モンスターであることに気づいた俺とシオンは、ぶるぶると震えることになったんだけどな。
俺とシオンとミレーユの三人だった仲間は、シラーを加えて四人(?)組になった。
湖の水辺を俺たちを背中に乗せて走るシラー。
夏の日差しは強かったが、うっすら汗ばんだ肌を風が撫でるのが快かった。
こんな日々が、いつまでも続けばいいと思ってた。
だが、俺たちはまだ子どもだ。
ここで一緒にいられる奇跡がいつまでも続くと無邪気にそう思っていたが、別れの日はやってきた。
母親を亡くした悲しみから立ち直った俺とシオンは、夏の終わりとともにクルゼオン伯爵領に戻ることになった。
クルゼオンには、最愛の妻を亡くしたばかりの父がいる。
父にも誰かの支えが必要なのは明らかだ。
もっとも、父の落ち込みの激しさを見かねて、王妃様が一時的に俺たち双子を預かろうと申し出てくれたのがこの夏のはじまりだった。
王妃様としては、気持ちの塞いでいる父に慣れない子どもの世話は負担になると思ってのことだったんだろう。
実際、俺とシオンは母親べったりで、厳格な父とはどこか距離を置いてるとこもあったからな。
とはいえ、子どもは子どもだ。
子どもが十分に元気を取り戻したのなら、その明るさは残された夫にとってなによりの慰みになるだろう――王妃様はきっとそう思ったんだろうな。
お別れの前日の夜に、俺はミレーユに呼び出された。
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