46 欺き
◆???視点
「どいつもこいつも……揃いも揃って無能ばかりかっ!」
そう叫び、クルゼオン伯爵が自身の執務机を拳で叩く。
机の上に積まれた書類の山が崩れ、インク瓶が倒れてその中身が飛び散った。
その一滴が私の頬に飛びついてくる。
私はハンカチを取り出し、その飛沫を慎重に拭い取った。
神聖な祭服にインクが付いたのではないかと思うと、この見苦しい豚を絞め殺し、生贄として祭壇に供えたい衝動に襲われる。
「……あなたの立場では歓迎すべきことなのではありませんかな?」
私の冷ややかな言葉に、伯爵が私をぎろりと睨みつける。
「どこが歓迎すべきだというのだ!?」
「ご子息の活躍により、甚大な被害をもたらしかねなかったスタンピードは、一人の死者も出さずに収拾された。しかも、スタンピードで力を合わせて戦ったことで、騎士団と冒険者のあいだの理解が深まった。素晴らしいことではありませんか?」
「何を馬鹿なことを……。活躍したのがシオンならばともかく、あのハズレギフトではどうしようもないわ」
「……さようですな」
伯爵の反応から、私は伯爵が現状に疑問を抱いていないことを確認できた。
少し揺さぶってはみたが、私の立場は伯爵の言い分に近いものだ。
ゴブリンキングを統率個体とするようなスタンピードが起きたのは、まったくの想定外だった。
だが、それはそれで悪くない。
スタンピードでこの街が大きな損害を被れば、必ずや人心が乱れる。
スタンピードを防げなかった冒険者への風当たりも強くなろうし、領民を守れなかった領主への不信も高まるだろう。
それは、新生教会にとってまたとない好機となったはずだ。
そもそも、人が宗教を求めるのはどのような時か?
避けがたい理不尽な苦難に襲われた時――だ。
この領都クルゼオンは、長らく新生教会にとって攻めにくい街だった。
冒険者ギルドが良好に機能しており、市民の冒険者への信頼もそれなりにある。
同時に、シュナイゼン王国の西側では経済が好調な部類の都市であり、領主への不満も他領に比べれば少なかった。
モンスターの脅威からは冒険者によって守られ、都市の経済もそれなりの水準で安定している。
人は、身の安全が確保され、食事がちゃんと取れるのであれば、あえて神を求めようとは思わない。
人に心から神を希求させるような切実な危険や窮乏が、この街にはさほどなかったのである。
そうした点を鑑みるに、この街を危険なスタンピードが襲うのは、私にとっては好都合な展開だった。
スタンピードで大きな被害が出れば、安全が脅かされたことで冒険者への信頼が失墜し、経済活動が停滞したことで領主への不満も高まるだろう。
近しい人がモンスターに殺されれば、この世の理不尽を恨んだり、悲嘆と喪失感によって生きる希望をなくしたりもするであろう。
そんな時に、新生教会が救いの手を差し伸べる。
神官兵を出してモンスターを倒し、回復魔法の使える神官を市民の救護に動員する。
食うに困った貧民には、鐘を鳴らしながら炊き出しの食事を配布する。
この世の理不尽を恨むものには神の教えを説き、悲嘆にくれるもののそばには根気強く寄り添う――
もちろん、多忙な私ではなく、暇と善意を持て余したシスター連中で十分だ。
この街の被る被害が大きければ大きいほど、この領都クルゼオンを転生教会の教圏に組み込むことが容易になる。
だが、教会にとって恵みの雨となるはずだったスタンピードは、極めて能率的に鎮圧されてしまった。
「『下限突破』のゼオン、か……」
私は苦虫を噛み潰すようにつぶやいた。
「下限突破」は、紛れもなくハズレギフトのはずだ。
一体どんな手品を使ったら、ハズレギフトでゴブリンキングを倒すことができるのか。
何度となく考えてみたものの、糸口すら掴めない。
「ふん、何が『下限突破』だ。神に祝福されざるギフトを授かったのだ。まぐれに決まっておる」
まぐれ……か。
そこまで簡単に割り切っていいものだろうか?
数少ないこの街の信徒に調べさせた限り、この家を追い出された十五歳の少年がスタンピード鎮圧の立役者であることは疑いえない。
たった一人でゴブリンキングに立ち向かった、などという噴飯ものの噂も流れているようだが、さすがにそれは尾ひれが付いたものだろう。
だが、さすがに根も葉もない噂ばかりではないはずだ。
「下限突破」のゼオンが一定の貢献をしたのは間違いのないところだと思われる。
民衆好みに誇張されているとしても、完全なまぐれではないだろう。
この頭の温い伯爵であっても、廃嫡した息子の活躍が耳に入れば、これまでの信念に揺らぎが生じかねない。
この屋敷にも、都市の中にも、優秀な跡継ぎと目されていた少年を未だに慕う声があるのだから。
となると、今回のことを「まぐれ」の一言で片付けるのは、長期的には拙いだろう。
実の息子を悪魔の使いと信じ込ませるのは容易なことではないからだ。
実はあの息子は優秀だったのではないか?――などと途中で「醒める」ことがあっては、せっかく固めた神への信仰が揺らいでしまう。
しばし考え、私は言った。
「まぐれではないかもしれませんよ?」
「なんだと? あの者の実力だとでも言うつもりか?」
あの者。
廃嫡したとは言え、自分の息子を名前で呼ぶことすら、今の伯爵は嫌悪する。
「とんでもない。ハズレギフトを授かるようなものに、実力などというものはありませぬ」
「ではなんだというのだ?」
「お忘れですか? ハズレギフトを授かるものは、悪魔の使いです。悪魔があの者に権力を与えるべく、魔界から助力したに違いありません」
「ぬう! なんという痴れ者だ! ハズレギフトを授かって私の顔に泥を塗った挙げ句、悪魔の力まで借りるとは! 許せん! 今すぐ成敗してくれる!」
「しかし、かの者が伯爵閣下の血を分けた息子であることもまた事実。実態はどうあれ、愚昧な民衆は、実の息子を殺した父親を好ましくは思わないことでしょう」
「あのような者など息子ではないわ!」
「あくまでも民衆目線での話ですよ。閣下の崇高なお志を理解できる者など滅多にいないのですから」
「ふん、そうであろうとも。だが、私は神の使徒であり続けるぞ。たとえ石もて迫害されようとも、ゴッドフィルド・フィン・クルゼオンがこの世にある限り、悪魔の好きなようには決してさせん!」
「素晴らしいご決意です、閣下」
私は内心でくつくつと笑う。
自分の権勢のことしか頭にない、こんな俗物が神の使徒だと?
失笑ものの言い分だ。
「だが、枢機卿。あ奴をこれ以上生かしておくのも我慢がならぬ。騎士団から信用の置けるものを選び出し、奴を追わせて――いや、駄目だ。トマスの奴が目を光らせておるからな……」
「思った以上に、悪魔の勢力はこの屋敷に食い込んでいるようですね」
「そのようだな。片っ端から吊るしてやりたいものだが、それをやっては領が回らぬ。反乱でも起こされれば、万が一がないとも限らない」
そういう判断ができるだけの理性は残っているらしい。
よい傾向だ。
信仰に熱心なあまり現実が見えないようでは役に立たない。
「そうおっしゃると思い、私のほうで用意しておきました」
「ほう?」
「新生教会には、外には明かせぬ聖務に就く、極秘の機関があるのですよ。『
「
「ええ。悪魔の使いの活動は巧妙ですからね。さも世のため人のためという体を取りながら、善良なる人々が築いた世界を
「……その程度のことは知っておる」
奮然と、わずかばかりの優越感を滲ませて、伯爵が言った。
これまた、失笑ものだ。
しかし、聖なる使命は存在する。
新生教会の教圏を拡大し、世界を信徒組織で覆い尽くすことだ。
そのための方便としてなら、このような偽りを言うことも許されている。
とはいえ、存在するはずのない悪魔の存在を「知っておる」伯爵閣下を前にすると、失笑を堪えるのが難しい。
私は、これも聖務と強く自分に言い聞かせる。
拳を握り、爪を肉に食い込ませることで、私は嗤い出したい衝動をやりすごす。
が、さすがに違和感があったのだろう、
「……どうしたのだ?」
「いえ……なんでもありませんよ」
不審げに訊いてくる伯爵になんとかそう返し、私は呼吸を整える。
「ともあれ、そうした悪魔の使いどもに対抗すべく、教会は
「おお、そのようなことをしてくれておったのか! ご厚情痛み入る……ゲオルグ枢機卿!」
「いえいえ、私の労力など、伯爵閣下のご心労に比べれば大したものではございません。悪魔の使いをおのれの子どもとして授かってしまった閣下の苦しさたるや、私の想像を絶しております。私は閣下に敬服致しますよ」
実際、本当に敬服する。
――実の息子を悪魔の使いと思い込み、自分の領地を教会に差し出してくれるのだから。
「大陸中で悪魔と戦っておられる教皇猊下のご苦労と比べれば、私などまだまだだ。して、
「ゼオン・フィン・クルゼオン――いえ、『下限突破』のゼオンを討つべく、刺客を差し向けることになっております」
「おお!」
「……しかし、閣下のご心中を思うと心苦しい。悪魔の使いとはいえ、実の息子を――」
くっ、ダメだ。嗤うな。
精一杯痛ましい表情を浮かべるのだ。
「卿がお気になさることはない。我が子が悪魔の使いであったのは、私の不徳の致すところ。これもまた私の魂の不浄を
本当に――本当にこの男は!
私を嗤い死にさせたいのだろうか。
ああ、言ってしまいたい! あの真実を……。
真実を知ったら、この男はどんな顔をするのだろう?
「伯爵閣下のご献身は、必ずや猊下にもお伝えします。死後のことについてはもはや恐れることはありません」
「おお、その言葉がお聞きしたかったのだ! 死後というもの、考えれば考えるほど恐ろしい。この世でどんなものを獲得しようとも、死んでしまえばそれまでだ。私はそれが何よりも怖いのだ」
「わかりますよ、閣下。人は皆、おのれの死のことを真面目に考えようとは致しません。その点、閣下は、いずれ死ぬというおのれの宿命から目を逸らされることがない」
この点だけは――本音だ。
私もまた、おのれの死後に何も残らないことを大いに憂う人間だ。
苦心惨憺の末に築き上げた地位が死によって奪われてしまうのだとしたら、私の忍んできた苦辱には何の意味もないことになってしまう。
ただ虐げられ、良い思いもできずに犬のように死んでいくしかないのだとすれば、この人生に生きる価値などあるだろうか?
青年時代、そんな煩悶に襲われ夜も眠れないでいた私を救ったのが、新生教会の教義である。
もっとも、当時の私は表面的な教義に惹かれたにすぎない。
熱に浮かされ、教会内で出世の梯子を昇るにつれて、私は教会の真実を知ることになった。
予約番号のことを知る者は、新生教会でもごく一部に限られる。
私と同じ枢機卿の地位にあるものですら、ほとんどはそのことを知らないのだ!
「うむ。この人生を次の人生に持ち越すためにも、悪魔は必ず滅さねばならぬ」
「ええ、まったくその通りです。悪魔は滅ぼすに限りますよ」
あのスタンピードを切り抜けたとはいえ、
そもそも、ゼオンという少年が持つギフトは、本来彼が授かるはずのものではなかったのだ。
「成人の儀」には、新生教会しか知らない数多くの秘密がある。
クルゼオン伯爵の優秀な後継ぎが手に入れるはずだったギフトは、その双子の弟が授かるはずだったギフトとすり替えられた。
優秀な兄にハズレギフトを押し付けるとともに、野心を秘めた弟に当たりギフトを与えたのだ。
もちろん、この安定したクルゼオン伯爵領を混乱させ、教圏に組み込むための計略だ。
兄が廃嫡され家を追い出されたところまでは、計算通りに行っていた。
その後、ダンジョン踏破やスタンピードという予期せぬ事態が起きたが、この程度の問題ならばどうとでもなる。
ハズレそのもののギフトを授かった十五歳の少年が、教会の生きた秘密兵器である
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