3番目

こうしてわたしの結婚生活がスタートしたのです。


太ったおじさんは数日後に釈放され、わたしのところへやってきました。

少し痩せたように見えましたが、太っているのには違いありません。


おじさんは相変わらず腐った卵のような臭いをさせていて、わたしは、できるだけ近づかないことを、同居の条件にしました。


「俺が臭いのは生まれつきなんだよ。風呂に入っても臭いは落ちない。俺の存在そのものが臭いんだ……」

元気なく太ったおじさんこと、わたしの夫は言います。


赤ちゃんの頃から臭くて親から愛されなかった。常に消臭スプレーを吹き掛けられた。友達もできず、恋人もできず、ずっと一人だった。社会への恨みを増幅させて殺人未遂で服役したこともある。


そんなことを、夫は悲しそうに、淡々と話していました。


わたしは鼻を摘まみ、顔を顰めながら、夫の前にご飯を置いていきます。

お母さんから教わったオムライスです。

もちろんケチャップで「音楽バンザイ」と書きました。


食卓には音楽を流しています。


今日は、プーランクの「2台ピアノのための協奏曲」です。

軽やかなメロディー。

わたしの好きな音楽のひとつでした。


ところが、夫はスプーンを手にすると、わたしに向かって言いました。

「おい、こんなもの食えるかよ! 俺はなあ、おまえみたいな貧乏人が食べるような飯なんて食いたくねえんだよ!」

そして、わたしが作った料理を床に投げつけました。

床に転がる食べ物たち。


「ちょっと……! 何をするんですか!?」

わたしの声など無視して、夫は部屋から出て行ってしまいました。

ひとり残されたわたし。

「せっかく作ったのに……。ひどい……」

涙が出そうになりました。


でも泣いてはいられません。

すぐに片づけてしまわなくては。

わたしは散らばったものを集めようとします。


そのとき、お皿の上に乗っていた黄色い物体が動き出しました。

『オナカガヘッタヨォ』

それは、わたしが作ったオムライスだったのです。


わたしは急いで近くのスーパーに行き、鶏肉を買って帰りました。


スーパーからの帰り道、電信柱の横にアップライトピアノが設置してありました。そこではオランウータンに酷似した、全裸の毛深い男性が、めちゃくちゃな演奏をしていました。


「ウギイ!ウギギイ!」醜悪な叫び声をあげています。


これは、わざと変なことをして、誰かの気を引きたいだけの人だ、と、わたしは判断した。


だから、無視してその場を立ち去り、家に帰りました。


それからキッチンに立つと、鶏肉をフライパンに入れ、炒め始めました。

火加減に注意しながら、焦げないように慎重に。

やがて肉の表面がこんがり焼きあがりました。

味付けは塩コショウだけ。


出来上がったチキンソテーを持って、夫のいる部屋に向かいます。

ノックをして中に入りました。


夫はテレビを見ながら、煙草を吸っていました。

何発もオナラをしています。そのオナラには殺虫剤の効果があり、あたりにはゴキブリの死骸がありました。

夫はそのことを利用して害虫駆除の仕事をしているようでした。

「あの……これ……」

恐る恐る、わたしはチキンを差し出しました。


夫は黙って受け取り、一口食べました。

そして一言、「まずい」と言い捨てると、残りのチキンをすべてゴミ箱の中に放り込みました。


「え……?」

呆然と立ち尽くすわたし。


夫はそのまま立ち上がり、オナラを一発して、部屋を出て行こうとします。

わたしは慌てて後を追いかけました。

「待ってください!」

腕を掴み、引き止めようとして、気づきました。

夫が着ている服からは、まだほんのりと湯気が立っていたのです。

「さっきシャワーを浴びたばかりなのに……」

その瞬間、頭の中に浮かび上がってきた言葉がありました。

――もしかしたらこの人は、すごくきれい好き? わたしの心臓が大きく跳ね上がりました。

どうしよう。

わたしは今まで、ずっと勘違いをしていたみたいです。

だって、こんなにも汚れた人なんだもの。それに常に臭い……。

きっとそうだわ。

でも今になって気づいたところでもう遅いでしょう。

夫はすでに出ていってしまったあとだからです。


「…………」

しばらくのあいだ、わたしは何も言えずに立ち尽くしていました。


すると突然、頭の中で声が響き渡りました。

『あなたが落としたのはこの金の斧ですか?』

いえ違います。

わたしが落としたのは銀の斧です。

そう答えようとしたとき、また別の声が聞こえてきました。

『それともこっちの普通のほうの斧でしょうか?』

それも違うと思います。

わたしが落としたのはただの木でできた斧です。

そう伝えようとする前に、今度はさらに大きな声で尋ねられました。

『それとも、もっと大きいサイズのものでしたか?』

はい。

わたしが落としたのは大きな木でできた斧で間違いありません。

わたしが答えると、不思議なことに、目の前に立派な金と銀に輝くふたつの斧が現れました。

そして次の瞬間、それが煙のように消えてしまったのです。

これは一体どういうことなのでしょう?


「お前は大嘘つきだ!斧など落していないくせに!」

大きな怒鳴り声がしました。


夫が、太ったおじさんが、戻ってきて、顔を真っ赤にして怒っているのでした。


「離婚だ!お前みたいな奴はいらん!でていけ!」


わたしと夫の新婚生活は1日で終わりを告げました。

まだ16歳なのにバツイチになるなんて……。


悲しくて。悲しくて。


わたしは慰めが欲しくてワイヤレスイヤホンを着用し、音楽を聴き始めました。

やはり音楽は素晴らしいのでした。


その時に聞いたのはプーランクの「クラリネットソナタ」。


そう、お兄ちゃんが得意にしていた曲です。

懐かしい気持ちが溢れてきました。


わたしはやはり、お兄ちゃんたちの脳みそが眠っている場所にお参りに行かねばならない。そう思いました。



(4番目に続く……)

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