4番目
住んでいた家は太ったおじさん(わたしの夫であった人物)に占領されていましたので、わたしに帰る場所はないです。
さみしくなった。わたしは大変にさみしくなりました。
それで、駅に行きました。
お金もないのですが、どうにかして、都内をでて、山奥にあるお寺に行き、お父さん、お母さん、お兄ちゃんのお墓をお参りしたい。
みんなに会いたいと願いました。
懐かしい記憶。近所の雑木林で、家族みんなで演奏したアルカンジェロ・コレルリの合奏協奏曲。美しい旋律と和声が溢れて。みんな笑顔で。
今はもう会えない人々。
涙がでてしまう。爆死した家族。肉片を拾い、みんなの脳みそにキスした日。
せめて、お墓に行きたい……。
そのことを、切実な口調で、顎の大きな、額に瘤のある駅員さんに言いました。
「ダメだ。それはあんたの個人的な事情で、俺たちには関係ないことだ。そんなことで特別扱いして電車に乗せるわけにはいかない」
頑固な駅員さんでした。腕まくりをしていて、その腕には凄い筋肉がついていて、びっしりと毛が生えていました。
わたしは失望しました。こんなにも人の優しさが欠如していていいのでしょうか。
わたしはそのことを顎の大きな駅員さんに言いました。
駅員さんは眉間に皺を寄せて、ムッとした顔をしました。
「俺はな、学生時代はボランティーアに良く参加していた。アカイハネ募金にも参加していたんだ。人間性の化身だ。お前にはそれがわからないのか。そういうお前こそが非人間的なのではないか」
なんという言い草でしょうか。わたしは呆れてしまいました。
その場を、足早に去りました。
これでは、お墓参りができない。
電車には、乗れません。
だから、線路沿いに歩いていきました。
どこまでも続く、暗い線路です。
その向こう側には何があるのかわかりません。
どこまで行っても、闇が広がっているだけです。
ああ……。
この線路はどこに行くのでしょうか? わたしの行くべきところは、どこにもなかったようです。
人生ってこういうものですね。
自分の力だけではどうしようもなく、ただ流されるだけなのですから……。
「どんぶらこ。どんぶらこの舟。なんの舟?臭い裸のおじさんのケツに生えた毛で出来ている舟。嫌だ。そんなの。どんぶらこの舟。嫌だと言っても仕方ない。臭い裸のおじさんたち。並んでる。みんなでケツを突き出して。早く毛を抜いてくれと。その抜いた毛で次々に舟を作らにゃならないと。どんぶらこの舟」
わたしはぶつぶつ言いながら歩いた。それは神話のような、昔話のような、民話のような独り言と化した。
その独り言が辺境のジャングル地帯の少年の耳に届きその少年が村の人たちの前で話し始め神の使いだと言われたら良い。
しばらく行くと踏切があり、その横にアップライトピアノが設置してありました。
そこで、オランウータンに酷似した、全裸の毛深い男性がめちゃくちゃな演奏をしていたのです。
「あの人はこないだからよく見かける。きっとわたしにかまってほしくて、声をかけてほしくて、わざとあんなことをしているのだわ」
わたしは無視しました。浅はかな「かまってちゃん」など、わたしの眼中にはない。
ほんとうに眼中にはないのです。
わたしは立ち尽くし、線路わきにいました。
しかしオランウータン男は演奏をやめません。
電車が通過するたびに、カンカンというけたたましい音にも負けず、狂ったように鍵盤を叩き続けるのです。
しかも耳障りな「ウギイ!ウギギイ!」という叫びをあげながら。
あまりにも執拗。
「もう! うるさい!」
わたしは思わず叫んでしまいました。
わたしはその場を動かず、じっと立ち尽くしていた。
すると彼はこちらを振り向き、ニタリと笑みを浮かべると、再び演奏を続けました。
「やっぱりわざとだ。わたしにかまってほしくてやっているんだ……」
それから毎日のように、オランウータン男は踏切でピアノを弾き続けました。
わたしは一旦引き上げました。線路を歩いて、左に曲がったところにある女性も泊まれるサウナ施設に入り、お金がないのでセックスしていいから宿泊させてくれと懇願しました。
そこの店員は筋肉質、褐色の肌をしたいかにも性欲の強そうな若い男でしたから快くOKしました。
わたしは全裸になり、彼も全裸になり、セックスをしました。
そのときにも、わたしの好きな音楽が流れていた。
モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」です。
それが流れている部屋。
そこでセックスをいたしました。濃厚で激しいセックスでした。
2人、全裸になります。
わたしはマンコを剥き出しにし、彼はチンポを剥き出しに。
彼の真っ黒いチンポが、わたしの褐色マンコにずぶずぶと入ります。
彼が「ンギモヂ」と叫びながら腰を激しく振りました。
わたしも「あんあんあん」と声をあげました。
間違いなくセックスでした。激しいセックスであり、彼はコンドームを着けていませんでした。
モーツァルトの音楽が流れる部屋に、パンッパンッパンッと、腰を打ち付ける音が、延々と響きました。
「気持ちよかった。だから宿泊してよい。しばらく宿泊してもよいぞ」
金髪で、褐色の肌で、異様に歯の白いその男は言いました。
わたしは彼の善意に感謝したのです。
人間、やはり思いやりの心が大事だと思います。
「そうだね。僕は昔ボーイスカウト、アカイハネ募金なんかに積極的なかかわりを見せていたものだ。それが僕の中の善意を育んだ。こんなに思いやりある男にさせたんだろう」
まったくそうでした。
もう一度わたしたちはセックスし、その後彼はわたしにご飯をご馳走してくれました。コンビニに売っている1番安いレトルトカレーでした。
「ボーイスカウト時代はやはりレトルトカレーを食べる機会が圧倒的に多かったよ。僕はカレーにケチャップを入れて食うんだ。やってみたまえ」
わたしたちは全裸で、白い壁の、殺風景な部屋で、レトルトカレーを食べたのでした。
その時にも、モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」が流れ続けていました。
わたしは朝になると、昼になると、夜になると、彼に毎回お礼(それだけでは済まなくてセックスをする場合もある)を言ってから、線路に向かい、あの踏切のところに立ち尽くしました。
もちろん、オランウータン男はいました。
そして、朝も昼も夜も関係なく、とにかくわたしが通るたび、彼は演奏するのです。
あまりにも執拗。
「ウギイ!ウギギイ!」
「もう! うるさい!」
わたしは思わず叫んでしまいました。
そしてついに我慢の限界に達したわたしは「ンゴラ!」と叫びながらジャンプし、彼の後頭部を思い切り蹴りつけました。
するとどうでしょう「えっ嘘」と呟いて、オランウータン男はそのまま線路に落ちていき、電車に轢かれて死んでしまったではありませんか。
ぐちゃぐちゃの状態。血がドババとその辺に飛び散り、潰された内臓や脳みそも飛び散りました。
「えっ、マジで?……」
さすがに罪悪感を覚えたわたしですが、すぐに思い直します。
「これでようやく静かになるわね」
そう言って家に帰った次の日。
なんと、オランウータン男が目の前に現れたのです。
しかも昨日の格好のまま、死んだときの姿で――。
「うそ……」
あまりの出来事に絶句するわたしに、オランウータン男は言います。
「お礼を言いたくて戻ってきたんだ。おかげでやっと成仏できそうだよ」
「そんな……ひどい……あんまりだわ……」
泣き崩れるわたし。
でも安心してください。このあと、わたしはオランウータン男と結ばれ、幸せになりましたから。わたしは離婚していましたし、彼と新たに結婚することについて、なんの問題も、ないのです。
披露宴は知らない人の庭にあがりこみ、豊かな芝生の上で、行いました。
わたしたち新婚夫婦はメンデルスゾーンの結婚行進曲をアカペラでほとんど絶叫に近い声で歌いました。
その庭の持ち主である人は、迷惑そうな顔をしていましたが、何も言ってきませんでした。黙ってみていました。その点は評価しても良いように思います。
しかしその新婚生活も、1日で破綻をしたのでした。
それは朝のことでした。
わたしがお母さんに教えてもらった卵ふわとろオムライスに「音楽バンザイ」といつも通りケチャップで文字を書いて、それをテーブルに並べ、オーディオのスイッチを入れました。
すると即座にアルカンジェロ・コレルリの合奏協奏曲が流れ出したのです。
バロック音楽の傑作です。数百年前の美しい音楽。流麗な旋律。ヴァイオリンの爽やかな和音。
そのことに、新しい夫であるオランウータン男(幽霊)は激怒したのです。
「俺はこんな古臭い音楽嫌いだ!」
夫は、明確なメロディー・リズム・和声のある音楽が大嫌いだったのです。
彼が求める音楽は、いわゆる現代音楽と呼ばれるものです。それは、作曲されたのがたとい50年も前であっても、今なお、斬新に響くという音楽です。今どき作曲されたものであっても、明確なメロディー、リズム、和声があるものは、彼に言わせれば「懐古主義の最悪な形」であるのだと言います。
「クセナキス!シュトックハウゼン!ペンデレツキ!ブーレーズ!」
流すべき音楽であると、彼が連呼します。
「エドガー・ヴァレーズ!」
そうして、わたしの2回目の結婚は終わりました。
離婚でした。
オランウータン男(幽霊)は、次の日にはいなくなっていました。
わたしは取り残されました。
そこは廃墟のような場所でした。
捨てられた木材と、捨てられたブリキの板が、偶然、小屋のように積み重なった場所。
わたしは妊娠していました。
前に書いたように、あの褐色の肌をした性欲の強そうな男と激しいセックスをしたとき、コンドームを使用していなかった。
廃墟のような場所で、暗くて寒い場所で、震えながら、わたしはひとり出産をしました。
「あーでるでる!あーでる!」
ケダモノのような絶叫でした。
自分でわかりました。
血が出ました。
「あーでる!ぶりぶりでる!あー!!」
誰も見ていない。
「ウギイ!ウギギイ!」
甲高い、赤ちゃんの産声。なぜでしょうか?
その声は、あのオランウータン男の声に、酷似している。
そうして、静かな朝を迎えた。
わたしは瓦礫のような、廃墟のようなその場所から出た。
腕には、毛深い、オランウータンに酷似した赤ん坊を抱いている。
空は灰色で、地面もコンクリート道路で、灰色をしていました。
ブラームスの子守歌……わたしは口ずさみながら、外を、裸足で歩いていた。もう衣服はボロボロだった。乳房が、露出していた。顔は泥だらけだった。
赤ん坊は、わたしの汚れた乳房を、吸っていた。
ふらふらと、歩いていく。
どこへ行くのでしょうか?
わたしは未だにお墓参りしないといけないと思っている。
でも、もう方向もわからない。
「うあー、うあー……」小さな声で、わたしは言っている。
いつの間にかたいそう年を取ってしまったようでした。
すれ違う若い男の人が、心配そうな顔をして「おばあちゃん大丈夫か?」と言いました。
でも、わたしはおばあちゃんではないのでした。16歳の女の子なのでした。だから、無視して歩きました。
「おばあちゃん大丈夫か?警察呼ぶか?」
お父さん…お母さん…お兄ちゃん……。
ふらふらと、歩いていく。
いつか見た黒い猫ちゃんが、目の前を横切って行く。
元気そうでよかった。
みんなが元気であることを願います。
「うあー、うあー……」制御できないです。声が漏れます。
わたしは白目を剥いて涎を垂らしながら歩いている。自覚はあまりないですが、疲れているようでした。
腕に抱いた赤ちゃんは、眠っている。毛深い赤ちゃん。オランウータンにしか見えない赤ちゃん……。
「うあー、うあー……」
わたしは、頭のなかでみんなで演奏した音楽を、何度も再生していました。
そのときわたしは幸せを感ずる。
わたしは自然な笑顔が、自分の顔面に浮かび上がって来るのを、実感した。
「うあー、うあー……」
多分、この声は歌なのでしょう。
わたしは音楽が好きでしたから。意識をしなくとも、音楽が口からでている状態なのでありましょう。
やがて全身から力が抜けていく。わたしは地面に倒れる。
痺れている。不思議と、不快感はなく、音楽が、体から溢れているのを感ずる。
今、今、わたしはすごく幸せ。
死んでしまった家族たちに、そのことを伝えるために、わたしは目を閉じて、成仏していくのでした。
(了)
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