(49)俺、危機一髪!③
アニは静かに目を閉じた。
手を湿らせる汗が引くよう、深く息を吐く。
ゆっくりと大きく呼吸を整え、精神を集中させる。
「……そうだ、その調子だ」
アニの脳裏に、話しかける声があった。
懐かしい声。
まだ幼いアニの手に逞しい手を添えて、その人は弓を引く仕草を彼女に教えた。
「弓使いに一番大事なのは、冷静さだ。心などいらない。周囲の情報に惑わされるな。ただ的だけ、矢を放つ一瞬だけを考えろ」
優しい人だった……お酒を呑んだ時だけ。
アニが拾われた山賊団にいたくらいだから、ロクでもない人だったには違いない。
頭の悪い乱暴者。
そう
でも、お酒にさらけ出されたその人の本性は、臆病で人の良い、ごく普通の青年。
アニは彼を、弓の師匠として、兄のように慕っていた。
ある日、アニが失敗をした。
怒った山賊団の首領は、使えない子供はいらないと、彼女を殺そうとした。
それを止めてくれたのは、彼だった。
「アニの弓の腕は確かだ。まだ小さいから、集中力がないだけなんだ。もう少し、もう少し鍛えさせてくれ!」
すると首領は、ニヤリとある提案をした。
――彼の頭にリンゴを置いて、アニに弓で射らせろ。
彼女の腕が本物なら、彼は生還できるが、彼の見立てが間違いであれば、それは死を意味する。
その時も、アニの手は汗まみれになった。
彼の顔面を射抜いてしまうイメージばかりが頭を巡り、逃げ出したい衝動で脚が震える。
そんなアニに、彼は厳しい口調でこう言った。
「何度言えば分かる? 周囲の情報に惑わされるな。的に集中しろ。――俺の認めた弟子なんだ。おまえならできる!」
大きく息を吐く。
深くゆっくりと呼吸をして、精神を集中させる。
的だけを見て、そこに繋がる矢の軌道をイメージする。
それ以外の事を考えない。
やがて呼吸すら忘れて、意識は矢と一体化する。
体は、弓そのものとなる。
そうして放たれた矢は、絶対に外れない――。
不意に思い出した、生きていた頃の記憶。
唯一と言っていい、アニにとっては幸せと呼べる記憶だ。
見事リンゴを射抜いたアニは、山賊団にその技能を認められた。
「よくやったな」
彼はアニを優しく褒め――山賊団から姿を消した。
狙撃手は、何人もいらない。
自分の居場所は、もうそこにはないと判断したのだと思う。
彼はきっと足を洗って、真っ当な人生を歩んでくれたはずだと、アニは今でも信じていた。
捕らえられ、死刑になどならずに。
……あの時の気持ちを思い出せ。
オレには、やれる。
深い呼吸が、アニを無にしていく。
気持ちが鏃に乗り移り、向かうべき軌道をイメージする。
風の向きと強さを読む。それを受けた矢羽根のブレと、軌道を維持するだけの速さ。
その速さを出すだけの、弓の威力。弓に力を与える、腕の筋肉の使い方……。
脚は根を張ったように地面を捕らえ、体幹は巨木のように微動だにせず、弓と一体化する。
ゆっくりと目を開けば、今日最後の光が、山影に消えるところだった。
訪れた闇は、静かに彼女を迎え入れる。
アニはおもむろに、左目の眼帯を外した。
――闇に慣れた目は、はっきりと、「的」を捕らえていた。
ルフはヘヴンをつつくのを諦め、眠る位置を確かめるよう、軽く首を伸ばした。
……いける!
アニの腕がサルンガを引き絞る。
「今だ!」
途端に、バルサが、ニーナが、エドが、マヤが、あらん限りの声を発した。
「わーーー!!」
驚いたルフがこちらに顔を向けた。
そして、
「ギィィー!」
と威嚇する声を上げた――瞬間。
矢は放たれた。
アニの意識は、鏃に乗って宙を翔ける。
計算された軌道を描き、大きく開いた
それが、致命傷となった。
ルフの巨体は、ビクリと痙攣すると、ゆっくりと巣の中に倒れた。
しばらく、誰も動かなかった。
唐突に訪れた静寂と、張り詰めた緊張の糸を解くタイミングに戸惑い、声も出せずにいた。
やがて、エドがボソリと呟いた。
「やった、の?」
アニは小さく答えた。
「あぁ」
喜びの声を上げる仲間たちの前で、アニは震える手を持て余していた。
……集中力が解けると、もし万一……と、悪い方向へ運命が転がったパターンを考えてしまい、恐怖に慄いてしまう。
そんなアニを気遣い、エドが肩を抱き寄せる。
「よくやったわね! あなたは彼の命の恩人よ」
「あ! 彼、ヘヴンは無事なの?」
ニーナに言われて、アニはようやくハッと自我を取り戻した。
対岸に目を凝らしてみるが、闇に慣れた左目でも、その様子は窺えない……むしろ、どうしてあの時、ルフの口の中が見えたのか、その方が不思議なくらいだ。
そこで、アニは大声を上げた。
「おーい! 生きてるかー!」
間延びした声が渓谷にこだまする。
すると少しして、対岸から返事があった。
「生きてるぞー!!」
再び歓声が湧く。
しかし、辺りはすっかり暗くなっている。この渓谷を渡るには危険すぎる。
ならば……。
「おまえ、下がってろ。雛を殺す」
アニは再び矢を番えた。
すると、ニーナが声を上げた。
「待って! ……雛は、殺さなきゃならないの?」
「親が殺されたんだ。ひとりじゃ生きていけない。それに、雛といってもあいつよりデカい。あいつが呑まれたら元も子もないだろ」
「でも……」
ニーナの気持ちを察したのか、バルサが前に出て、対岸に向かって声を飛ばした。
「おーい! 雛に食われそうかー!」
「多分大丈夫ー! まだ自分で食べられないくらい、小さな雛だよー!」
「……だそうだ」
バルサはアニの肩に手を置いた。
「それに、この暗さだ。あいつに当たる危険がある。そこまでリスクを犯す必要はないだろう。……一晩、待ってくれないか?」
アニは再び対岸を見た。
闇に隔たれて、ヘヴンの姿は見えない。バルサの判断の方が、正しいだろう。
アニはサルンガを下ろした。
……今日の成果に、満足しよう。
それよりも……
――明日、あいつにどんな顔を向ければいいのか。
一瞬、そんな事が頭をよぎって、アニの顔はまたカッと熱くなった。
闇に包まれた、夜で良かった。
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