Ⅲ章 インドラの杵編

(40)亡霊

 ――それは、奇妙な噂だった。


「あの山には亡霊がいる」


 黒い森の奥からお経が聞こえ、に出会ったら最後、誰も生きて戻らないという……。


「……だけど、変じゃね?」

 俺は容赦なくツッ込んだ。

「誰も生きて戻らないのに、どうして亡霊に会ったって分かるんだよ?」


「確かに」

 まともに反応を返したのはマヤだ。

「そもそも、私たちは一度死んでるんだから、言ってみれば、みんな亡霊ですよね」


 ――ヘルヘイムと呼ばれるこの世界は、死者が生き返るための試練を受けるべく転生する場所。

 この世界にいる人は全員、一度は死を経験しているのだ。


「亡霊が亡霊を怖がるってのも、おかしな話よね」

 エドが興味深げに顎を撫でる。

「ワタシ、ホラーが大好きなの。どんな亡霊なのか、会ってみたいわ」


「やめてよ、そういうの」

 珍しくファイが浮かない顔をする。

「――それらしいモノ、何度も見てるから」

 生前、長く病院で暮らしていたファイが言うと、説得力が半端ない。


 何となく会話が途切れたところに、言葉を挟んだのはバルサだ。

「しかし、本当に亡霊なのか? もしかしたら、略奪者の可能性もあるんじゃないか?」


 それには、みんな顔を見合わせた。

「まさか……」


 ――エインヘリアル。

 その名は決して忘れたりしない。

 みんなで暮らしたストランド村を、奪った奴らだから。

 そして……。

 俺は首に提げた、ヤクの歯のペンダントに手をやった。

 大事な仲間の、命を縮めた奴ら。


 ダーダル村でマヤと合流した俺たちは、大きな川に突き当たり、迂回路を探して川沿いを旅していた。

 古代文明がそうであったように、命の源である水に、人々は集まるらしい。

 川沿いに幾つもの村を見付け、森で採った果物や薬草と物々交換をしたり、情報を集めたりした。

 ……バルサとニーナは、赤ちゃんの転生者について聞いていたけれど、残念ながら、その噂は聞かなかった。


 けれども、最後に寄った村で聞いた話が妙なものだった。


「あの山を超えるのか?」

 村の老人は、川の上流にある黒々とした山を指した。

「上流まで行けば、さすがに川を渡れるだろう」

 バルサが答えると、別の老人が首を横に振った。

「やめておけ。――あの山は、呪われている」


 ……と、そんな噂で足を止める俺たちじゃない。

 何だかんだと亡霊の正体を推測しながら、いつものようにヤクが引く台車を押して歩いていた。


 川の上流に行くほど、当然ながら標高が高くなる。

 木の密度が上がってきて、ゴツゴツとした岩が増えてきた。

 こんな時は、アニとファルコンが頼もしくて、少し先回りをして、台車が通りやすい道を探してくれる。

 険しい道ながらも、俺たちは和気あいあいと旅を続けていたのだった。


 ――その夜。

 俺たちはいつも通り、チョーさんの料理で夕食を済ませると、焚き火を囲んで横になった。


 この頃になると、眠る場所は違えど、並びはだいたい決まっていた。

 バルサとニーナ夫妻の横に、ファイとマヤの小学生カップル、その横が、なぜか気が合うエドとチョーさん。

 で、残りの俺とアニが、いつも隣なのだ。

 ファルコンは、ヤクの大きな角が気に入ったようで、羽を休める時はいつもそこだ。


 雨の日には、マヤの植木鉢が生やす木に助けられるが、こんな月夜に雨宿りは必要ない。

 俺は定位置にヤクの毛皮を敷いて、木の葉の隙間から星空を見上げた。


 キラキラと瞬く天の川を眺めるのも、これで何度目だろう。

 生きている頃は、スマホとゲーム画面ばかり眺めていて、夜空を見上げる事なんてなかった。


 ……それに、夜の森は思ったよりうるさい。

 虫なのか鳥なのかがギーギーガーガーと一晩中鳴いていて、東京育ちの俺からしたら、夜中でも交通量がある幹線道路の近くで寝ているような気分だ。

 まぁ、慣れたが。


 と、目を閉じて間もなく。

 横腹をツンツンとつつかれ、俺は横に顔を向けた。

「何だよ、アニ」


 アニはシッと、口の前で指を立てた。

「なんか、変な声が聞こえねえか?」

「変な声?」


 俺は耳を澄ませてみたが、虫の声と、遠くに川のせせらぎがわずかに聞こえるだけだった。


「別に何も聞こえねえけど」

「……なら、いいや」


 アニはそう言いながらも、俺の方を向いて丸まっている。

 普段は粗野な乱暴者なのだが、時々可愛いところがあるから困る。

 俺はついニヤけた。


「あ、もしかして、亡霊が怖いのか?」


 ……思い切り膝蹴りを食らい、気絶するように眠りに就いたのは、言うまでもない。



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 ――翌朝。

 ファルコンの鳴き声に起こされると、それぞれが自分の仕事を始める。


 チョーさんは朝食の準備。それを、ニーナとマヤが手伝う。

 村にいる頃は、自分の仕事に手を出されるのを嫌がっていたチョーさんだが、最近はみんなの手伝いを受け入れている。

 野菜の切り方が少し雑でも、チョーさんの味付けは変わらず天下一品だ。


 エドは眠気まなこをこすりながら、これまで来た道のりを地図に描く。

 ファルコンがみんなを起こすのが、日の出から間もなく。この世界に季節はないから、時計はなくても、だいたい同じ時間というのは分かる。

 太陽の方角を基準に、森に川に村、特徴的な地形の位置を、目測で書き込んでいくのだ。


 そもそも、細かい地図など必要ないのだ。

 ……ストランド村へ戻るための道を覚えておきたい、そのための地図なのだから。


 地図は羊皮紙が継ぎ足され、巻物になってきた。

 絵のセンスは、エドはなかなかのものなのだが、方角と記憶力が怪しい。そこをファイが千里眼でカバーする。


 バルサはヤクの世話。

 水とエサをやり、毛の手入れをする。

 そして、荷物を整理して台車に積み、荷造りをする。


 そして、俺とアニ――とファルコンは、食材探しだ。俺は果物や山菜やキノコ、アニはファルコンと一緒に、水鳥やウサギなんかの狩りをする。


 こうしてみんなで腹ごしらえをしてから、また旅に出る。

 ――試練の終着地である、女神ヘルの宮殿・エリューズニルを目指して。

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