新しい担当者は、どこかで会ったことのある美女だった

春風秋雄

それは名刺交換から始まった

部屋に入ってきた女性がテーブルの向こう側に立って名刺を差し出した。俺も立ち上がって名刺入れを出し、名刺交換する。

「橘と申します。よろしくお願いしたします」

女性は丁寧に頭を下げた。

「西崎です。よろしくお願いします」

座って改めてその女性を見る。真っ黒なパンツスーツに身を固め、髪の毛はワックスで固めているのだろう、短めにしてオールバックにしている。まるで宝塚の男役のようなスタイルだ。

「西崎社長、この橘は、まだ社歴は浅いけど、うちの会社の中ではトップを争う優秀な営業社員だ。担当を橘に替えるということで、どうか、もう一度チャンスをもらえないだろうか」

伊藤社長が頭を下げる。それにならって橘という女性社員も頭を下げた。

「伊藤社長、私も御社とは長い付き合いですから、無下に取引を打ち切ろうという気はないですよ。今までの担当のような、ずさんな対応を改善して頂ければ、我が社としても取引を続けたいと思っています。それでなければ、わざわざ御社までこうやってお伺いすることはないですよ。取引打ち切りであれば電話1本で済むことですから」

「そう言って頂けたら助かります。この度は、本当に申し訳ありませんでした。それでは、あとは、橘と今後のことを打ち合わせしてください」


俺は西崎泰雅(たいが)。総合コンサルティングの会社を経営している。近年の売り上げの中心は、各企業に合わせた経理システム、人事システム、売上管理システムなどの、オーダーメイドのシステム構築の販売だ。自社でシステムのプログラミングをすることもあるが、大半は外注しており、伊藤社長の会社、イトー情報システム株式会社が一番の外注先だ。取引が始まって以来の窓口担当だった上野課長が昨年退職し、若い谷口という男性社員が後任の担当となったが、非常にミスが多かった。打ち合わせの日時を間違えるなどは、まだ可愛いもので、こちらが提示した仕様書とかけ離れたものが出来上がったり、何の連絡もなく納期が遅れたり、それまでの担当のときには起こらなかったことが続発した。さすがにこれでは取引は続けられないと抗議にきたというわけだ。若い頃の俺なら、即刻取引停止にしていたところだが、俺も今年で47歳だ。さすがに様々な経験を積み、辛抱がきくようになった。とりあえず新しい担当の様子を見て判断しようという気になった。


新任の橘さんとの細かい打ち合わせが終わり、ひと息ついたところで、改めて橘さんの顔を見た。年のころは30前後だろうか。整った綺麗な顔をしている。俺は、どこかで見た顔だと思った。しかし、名刺にある橘梨沙子という名前には記憶がない。

「橘さん、以前どこかでお会いしていませんか?」

「さあ、どうでしょう。狭い街ですので、どこかでお会いしているかもしれませんね」

あくまでも取引先の社員なので、それ以上のことは聞けなかった。


橘さんは伊藤社長が言っていたとおり、非常に優秀な営業社員だった。前任のような馬鹿げたミスはまったくなく、それどころか、入社してまだ3年目だというのに、こちら側が気づかなかった点をどんどん提案してくれた。それによって我が社の販売先からの信用もかなり高まってきた。新規開拓においても、積極的にサポートしてくれた。我が社の制作スタッフよりも商品知識は豊富で、顧客に合った提案を的確にアドバイスしてくれた。大きな取引になりそうな顧客への営業には橘さんに同行してもらうことも増えた。橘さんに担当が替わってまだ3か月も経ってないのに、その間の売り上げは前年度をはるかに上回っていた。

そんなおり、大口の新規顧客の話が舞い込んできた。長年取引してくれている会社からの紹介だった。ただ、その顧客からの要望はかなり高度な内容だった。橘さんに同行してもらわないと、俺や、うちの社員では太刀打ちできそうにない。問題はその会社が福岡にあることだ。同行してもらうとすれば2泊3日くらいの予定になる。女性の橘さんにそれをお願いしても良いのか判断がつかなかった。

俺は、まず伊藤社長に電話で事情を話し、橘さんは出張が可能かどうかを聞いた。

「大丈夫ですよ。福岡だろうが、北海道だろうが、遠慮なく連れていってください」

「3日も家を空けることになりますが、橘さんのプライベートの方は大丈夫ですか?」

「そんな心配はないと思いますよ。彼女は独身で、一人住まいのはずですから」

年齢的には結婚していて子供がいてもおかしくないと思っていたが、独身と聞いて、色々な意味で安心した。

伊藤社長に電話した後、橘さん本人に打診したところ、快く出張を引き受けてくれた。


福岡の会社へのプレゼンテーションはうまくいき、先方も契約に前向きな姿勢をみせてくれた。2日目の夜は先方の会社との懇親を兼ね、うちの接待で食事会をセッティングした。その席でも橘さんは活躍してくれた。とにかく話題が豊富で、相手を飽きさせない。話題を提供しては、相手の話すことの聞き役に徹する。また、場をよく見ていて、話題にちゃんと相槌うちながら、グラスが減っている人のお酒をマメに作っている。その所作はまるでプロのホステスのようだった。

上機嫌で引き上げた顧客を見送ったあと、俺は橘さんを2件目に誘った。

「もう1件行きましょうか?橘さんは全然食べてなかったでしょ?」

「誘っていただけるのですか?うれしいです。食べてはなかったですが、結構お酒は飲みましたから、静かな店がいいです」

そう言われれば、橘さんは勧められるお酒はビールでも焼酎でも関係なく、笑顔で飲み干していた。

静かな店と言われても、馴染みのない街でそんな店を知っているわけもなく、結局泊まっているホテルのラウンジで飲むことにした。カウンターに並んで座り、俺はバーボンの水割りを、橘さんは俺がよく知らないカクテルを注文した。

「橘さんは、プログラミングの知識が豊富ですね。今の会社では営業ですが、前の会社ではそういう仕事をしていたのですか?」

「前の会社ではシステムエンジニアの仕事をしていました。でも、根っから人と接することが好きなので、機械相手だけだとつまらなくなって、知識を生かした営業をしてみたくて今の会社に入ったんです」

「プログラミングは独学で勉強したのですか?」

俺がそう質問すると、橘さんは俺の顔を見た。しばらく俺の顔を見つめたあと、また正面に向き直り、静かに応えた。

「若かった頃に2年間、専門学校へ通いました。そのあとは、今の最新システムについていけるよう、情報誌や専門誌を買って独学で知識の上書きをしています」

「そうですか。今の仕事にそれが生かされていますね」

「ええ、専門学校へ行って、本当によかったと思っています」

「今回も福岡まで付き合って頂いて、大変助かりました。2泊3日の出張だと無理かなと思っていたのですが、伊藤社長に聞いたら独身なので大丈夫なのではと言うので、思い切って誘ってみたのです」

「私は独り身なので、自由はききます。今後もスケジュールさえ合えば出張は可能ですので遠慮なく言ってください」

「ご結婚の予定はないのですか?」

「全然ないです。この7~8年、お付き合いした男性もいないです」

「そうなんですか?とてもお綺麗ですので、その気になればいくらでも相手を見つけられると思いますけど」

「昔好きになった人が忘れられないのです。だから、他の男の人には全然関心が持てなくて」

「その人とは復縁はできないのですか?」

「復縁も何も、私の一方的な片思いでしたから」

「そうなんだ。思い切って橘さんの方から告白すれば、その恋は実っていたかもしれないのに」

「残念ながら、その人は既に結婚されている方だったので」

「そういうことですか」

「西崎社長は、ご家族に福岡でのお土産を買って帰られるのですか?」

「福岡に来たからには、明太子くらいは買って帰ろうと思っていますけど、家族にではなくて、自分で食べるためです。私は離婚して、今は独り身なんです」

「離婚されたのですか?いつ?」

「もう5年くらいになりますかね。昔の私は遊び人だったのですよ。毎日のように社員を連れてキャバクラやクラブで飲んでいましてね。家にもほとんど帰らなかったものですから、妻に愛想をつかされて、子供を連れて出ていきました」

「そうだったんですか。今は遊び人ではないのですか?」

「離婚してからは落ち着きましたね。今は取引先の接待でたまにクラブへ行くことはありますが、社員と飲むのは、もっぱら居酒屋ですね」

時計を見ると、いつの間にか11時を回っていた。明日もう一度先方へ出向かなければならないので、切り上げて部屋へあがることにした。


翌日、約束の時間に顧客先を訪れると、契約の意向を示してくれた。ただし、契約書に細かい事項を入れ込むことを要求された。社内の変革に伴うシステム上の不都合が生じた場合の修正プログラムの取り決めなどだ。2週間後に契約書を作成し、再度伺うことにして辞去した。

福岡空港へ向かう電車の中で、俺は橘さんに再度、出張の依頼をした。

「これだけ細かい内容を組み込むと、契約書の説明をする時に橘さんがいないと、とても俺では説明できないですよ。2週間後にもう一度一緒に来てもらえますか?」

「いいですよ。私も話を聞いていて、そうなるだろうなと思っていました」

「ありがとうございます。無理を言って申し訳ない。助かります」

「その代わり、お願いがあるのですけど、いいですか?」

「なんでしょう。出来る限りのことはしますよ」

「今度の出張は、日帰りで充分な出張ですが、あえて、その日は泊まりにしてもらえますか?そして、その日の夜は、私への慰労ということで御馳走してください」

「それぐらいお安い御用ですよ。わかりました。伊藤社長にも上手く言って1泊の出張にしましょう」


さすがに疲れていたのか、帰りの飛行機の中で二人とも寝てしまった。途中、ふと目を覚ますと、橘さんが俺の肩に頭を預けていた。かすかに良い香りがする。薄く香水をつけているようだ。この香水の香りには覚えがある。昔キャバクラやクラブへ通っていた頃、俺はこの香りが好きで、指名している女の子にこの香水をよくプレゼントしていた。何という名前の香水だっただろうか、そんなことを考えているうちに、その香りに誘われるように、俺はまた夢の中に入っていった。


福岡の会社との契約は無事締結できた。うちの会社としては大きな取引になった。それは伊藤社長の会社においても同じだろう。橘さんを2度も出張に引っ張り出したこともあり、成果を出せてホッとした。

約束通り、今日は橘さんの慰労のため、6時にホテルのレストランを予約してある。時計を見ると、まだ4時だった。

「まだ早いね。どうする?」

「じゃあ、部屋で少し休みましょうか。私も仕事ではないので、着替えたいし」

「着替え持ってきているのですか?」

「ええ。今日は持ってきました」

いつも見ている橘さんは、黒か濃紺を基調としたパンツスーツだったので、どんな服装でくるのか想像がつかなかった。


6時すこし前に部屋を出て、2階の日本料理の店に向かう。名前を伝えると、席に案内してくれた。橘さんはまだ来てないようだ。席について、5分もしないうちに橘さんが係りの女性に案内されて入ってきた。驚いた。まったくの別人だった。下はベージュのフレアースカートで、上はピンクのブラウスにカジュアルなオフホワイトのブレザーを羽織っていた。そして、髪型はオールバックではなく、軽くウエーブを効かせてサラリとおろしていた。

「お待たせしました」

と言って座るその笑顔をみたとき、俺はドキッとした。ダメだ、相手は取引先の社員だ。しかも、俺とは17歳くらい離れている。変な気を起こすなよと、自分に言い聞かせた。

食事は美味しく、橘さんの巧みな話術で、楽しい時間を過ごした。橘さんと二人きりで食事をするのは初めてなのに、以前にも橘さんと、こうやって食事をしていたような気がして、デジャヴをみているようだった。

8時過ぎに食事が終わり、これからどうしようかと思っていると、橘さんが「この前のバーで飲みたい」と言うので、1階のバーに移動した。


1杯目のカクテルを飲み干し、2杯目を注文した橘さんが、おもむろに語りだした。その口調は少し酔っているようだった。

「私ね、若かった頃、六本木のキャバクラで働いていたの」

「そうだったんだ。どうりでお酒の席の所作が堂に入っていると思った」

「うちは貧乏でね、父親が事業に失敗して借金があったから、その返済のために水商売をして返済に回してたんだけど、本当はコンピューター関連の専門学校に行きたかったの。父親の借金を返済して、自分の学校の資金を貯めるまで、何年かかるかわからないけど、それまでキャバクラで頑張るつもりだった」

水商売をしている女の子には、よくある話だ。親の借金の返済のためにキャバクラやクラブで働いている娘を俺は何人も見てきた。

「でも、いくらお金を送金しても、借金が全然減らないの。かなり高利のところからも借りていたみたいで」

橘さんから、良い香りが流れてくる。この前の香りと同じ香水だ。そうだ、シャネルのアリュールという名前の香水だ。

「これでは、自分の学校の資金はおろか、親の借金も終わらないまま年取っていくのかなと思っていたときに、まだ2回しか指名をもらってないお客さんから同伴に誘われたの」

話が少し変わってきた。いったいどういう展開になるのだ?

「とても話しやすいお客さんで、ついつい親の借金のことや、本当は専門学校へ行きたかったって話をしたら、親と君の人生は違うのだから、親のために自分のやりたいことを諦める必要はないと言うの。でも、親を放っておけないって言ったら、そしたら、明日店が終わったあとに食事に行こうと、アフターに誘われたの」

俺は、ただ、無言で話を聞いているしかなかった。

「翌日、アフターに行ったら、そのお客さん、目の前に封筒に入れた200万円を差し出したの。これで専門学校へ行きなさい。学校の資金で余ったお金は学校へ行っている間の生活費にしなさいと。そして親の借金は、顧問弁護士を紹介するから破産手続きをするようにしなさい。弁護士費用はすべて負担するからと言うの」

橘さんは、一旦話を切り、俺の方を見た。俺は黙って自分のグラスを見つめたまま動かなかった。その様子を見て橘さんは話を続けた。

「私は驚いた。この200万円をもらって専門学校へ行って、破産手続きで親の借金がなくなれば、本当に助かる。そう思った。でも、そのお金を受け取るということは、当然何らかの見返りを要求されると思ったから、ためらっていたら、そのお客さん、見返りに体を要求したり、愛人になれなんてことは一切言わない。お店もすぐに辞めなさい。弁護士の件以外で今後俺に連絡する必要もない。ただ、無事に専門学校に入学したら、その時に一報だけくれ、と言うの」

すでに俺の記憶はすべて蘇っていた。あの時の店の内装まで思い出していた。そうだ、俺はこの娘にもアリュールをプレゼントしていた。

「君はリコちゃんだったのか?」

「やっと思い出した?トラちゃん」

トラちゃんとは、俺がキャバクラやクラブへ通っていた時の俺の愛称だ。名前が泰雅なのでトラということだ。リコちゃんは通っていた六本木のキャバクラのひとつ、クラブ・ジョリフィールで俺が指名していたキャストだ。もう7~8年前になる。しかも指名したのは3回か4回で、その後すぐに店を辞めていたので、顔が思い出せなかった。

「いつから俺だと知っていたの?」

「今の会社に入ってすぐに、取引先の名前をみてびっくりした。トラちゃんの会社が取引先のトップに書いてあるんだもの。上野課長が退職したとき私が担当になりたかったんだけど、まだ実績もない私がなれるはずもないし、あきらめていたら、先輩の谷口さんがミスをしたと聞いて、伊藤社長に私が担当しますって立候補したの」

「そうだったんだ。最初から言ってくれればよかったのに」

「言えないですよ。谷口さんがミスしたあとなのに、水商売出身の女が担当だと知って、西崎社長がどう思うかわからないもん。だから、実績を出して、信用してもらってから言おうと思っていたの」

「うん、みごとに信用を勝ち取ってくれた」

「ねえ、聞いてもいいですか?」

「なんでしょうか?」

「どうして、あの時、まだ2~3回しか会ってない私に、あそこまでしてくれたの?」

「単なる気まぐれかな」

「気まぐれで200万円はださないでしょう?破産手続きだって、弁護士費用とか予納金で結構かかったと思うし」

確か、弁護士費用を含めて100万円以上かかったと思う。

「リコちゃんが初めて俺の席についたとき、この仕事でお金を稼ぎたいから、色々勉強していると言っていただろ?」

「そんなこと言ったかどうか、よく覚えてないけど、勉強をしていたのは確かだよ」

「うん、本屋でキャバクラの教科書みたいな本をみつけて、指名をとるコツとかメールや電話の仕方なんかを、一生懸命勉強しているって言ってた」

「そういえば、そんな本買ったなあ」

「そして、それをちゃんと実践していて、俺がそれまで指名していたどの娘よりも、まめにLINEメッセージを送ってくるし、その内容も定型文ではなくて、他の娘と違って、本当に気持ちがこもった内容だった。それを見て、この娘は好きでやっている仕事ではないのに、真剣に取り組んでいるんだなと感心したんだ。そしたら、この娘が本当にやりたいことをさせてあげたいな、本当にやりたい仕事なら、凄い力を発揮するだろうなって思ってね」

「そうだったんだ。ありがとう。でもそれだけ?本当は私が好きだったとか、そういうのはないの?」

すっかりリコちゃんに戻った橘さんは、半分からかうように俺を見た。

「ははは、そりゃあ、好きでなければ、あれだけのことはしないよ」

「本当?」

「まあ、ひとめぼれっていうか、俺の好みにドストライクだったのは確かだね」

「だったら、どうして見返りはいらないって言ったの?私、あの時、一瞬覚悟したのに」

「そうなの?あの時、ものすごく不安そうな顔してたから、そういうのは嫌なんだろうなと思った。それに、あの時、もしそういう関係になったら、間違いなく俺は妻子を捨てるだろうな、さすがに、それはまずいなと思って、先回りして見返りはいらないって言ったんだ」

「そうだったんだ」

それからは、橘さんの専門学校時代の出来事や、最初働いた会社で苦労したことなどを、とりとめもなく聞いた。俺の中ではもう、取引先の女性と話しているといった感覚はまったくなくなり、キャバクラ時代のリコちゃんと話している感覚だった。橘さんも、俺に対して取引先の社長といった意識はなくなり、トラちゃんとして話している。橘さんは飲むペースが速く、かなり酔ってきたようだ。

さすがに、これ以上飲ませると大変だと思い、チェックをしてバーを出た。

俺の部屋は7階で橘さんの部屋は5階だった。エレベーターに乗り、5と7のボタンを押す。エレベーターが動き出してすぐに、橘さんが口を開いた。

「私が結婚しないのは、昔好きになった人が忘れられないからだと言ったの覚えています?」

「覚えているよ」

「それ、トラちゃんのことだよ」

「うそでしょ?」

「専門学校に通い始めてから自分で気が付いた。私はトラちゃんのことが好きなんだって。だって、トラちゃん、カッコ良すぎたもん」

俺は何も言えなかった。何か言おうとしたとき、エレベーターが5階に止まり、ドアが開いた。すると橘さんは俺の手を引っ張って5階に俺を下して、俺の手を引きながら自分の部屋に向かって歩き出した。

「おいおい、どういうこと?」

「もう捨てる妻も子供もいないんでしょ?」

そう言われれば、そうだ。でも相手は取引先の社員だ。

「でも、これからも仕事上の関係は続くのだから、まずいだろ?」

橘さんは、カードキーで自分の部屋のロックを外し、振り返った。そして微笑みながら言った。

「これからは、昼も夜も打ち合わせができて、より親密な関係になるよ」

親密な関係という言葉があまりにも艶めかしく、俺は抗う力が抜け、ドアの向こうの世界へ足を踏み入れた。


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