第2話

『まず、【ライン】という言葉は、僕にとってはあまりいい影響を与える言葉では無いようなんだ』


 ろっくんの話をそのままエッセイに使うことはしない、と約束した優理に、ろっくんはこんな言葉で【スタートライン】について話し始めた。


「それはどうして?」

『僕は…僕らは【ライン】で生産された量産型のロボットだからね。自分でも理解のできない現象なのだけれども、【ライン】という言葉にデータ領域が過剰に反応してしまって、正常な判断が阻害されてしまう事が度々あるんだよ』

「それは…自分は人間ではなくロボットなんだと、再認識してしまうから?」

『僕はロボットだ。人間ではない。それは明白な事だよ。ロボットがロボットだと再認識することがプログラムに不具合を与えるということは、無いはずだ』


 ヒューマノイド型ロボットは、経年劣化無しの初期設定となっているため、ろっくんの、知的で優しく穏やかな表情は、出会ったときから少しも変わっていはいない。

 きっとそれは、この先も変わることはないだろう。

 優理は設定を、見た目も人間と同じように歳を取る経年劣化有りの設定に変更しようとしたのだが、ろっくんに断られてしまったのだ。

 自分の役目は、最後の最後まで持ち主の役に立つこと。

 経年劣化有りの設定にしてしまえば、ヒューマノイド型ロボットと言えども、人間と同じように年を重ねるごとに力が弱くなるし判断能力も低下する。

 ろっくんはヒューマノイド型ロボットとしては初期段階から実に優秀なロボットではあったけれども、優理は少し寂しくも感じたものだった。


 ただ、昨今ではヒューマノイド型ロボットに関して、様々な事例が報告されていることを、優理は知っていた。

 ヒューマノイド型ロボットには、感情の学習というものがプログラミングされている。

 人間達と生活を共にすることにより、人間の様々な感情を学習し、データとして蓄積してそれらをまるで自分の感情のように表現することも可能なのだ。

 けれども、それとは別に、ヒューマノイド型ロボットの中には、自然発生した【情】を持つものも現れ始めたという。

 父性、母性、友情、そして愛情。

 それらを構成する、様々な感情。

 もしもこの先、ろっくんの知的で優しく穏やかな表情に変化があるとすればそれはきっと、ろっくんの中に【情】が宿った時。

 学習した感情ではなく、自然に発生した【情】が宿った時ではないかと、優理は思っていた。

 そしてそれは、正に今なのかもしれないと。


「それで?ろっくんの思う【スタートライン】って?」

『ロボットは【思う】ことはしないよ、優理。ロボットはただ学習して、蓄積したデータを元に判断をするだけだ』

「それでもいい。あなたの【スタートライン】を私に教えて、ろっくん」


 畳み掛ける優理の圧に圧されるように、ろっくんの目に宿る光が揺れた。

 優理が初めて見る、ろっくんの戸惑いの表情。

 優理の視線から逃れるようにろっくんは少しの間瞼を閉じた。


 初期段階で登録されていた情報に加え、今までに蓄積された膨大な量の情報を整理して判断を重ねているのだろうか。

 それを【考える】というのではないのだろうか。

【迷う】というのではないのだろうか。

【思う】というのではないのだろうか。

 人間に置き換えて表現をするのならば。


 ジリジリとした時間の後、ろっくんはようやく瞼を上げ、まっすぐに優理を見て言った。


『【スタートライン】などというものは、存在しない。それは人間が抽象的に作り上げた様々な転機の1つに過ぎない』


 一切の感情が排除されたかなような、無機質な声。

 いつものろっくんの声と同じようで、それはまるで本当にただのロボットの音声のように、優理には聞こえた。

 ろっくんは敢えてそうしているのではないかと。

 それはなぜだろう、と優理は考えた。

 なぜそれほどまでに、ろっくんは【スタートライン】を、いや【ライン】を拒絶するのだろうかと。


『優理。なぜ人間は有りもしない【ライン】をひきたがるのだろう?』


 優理の疑問に答えるかのように、ろっくんが言葉を重ねる。


『敷地、県境、国境。この星に有りもしない【ライン】を引いては争いごとを繰り返して。学年、年次、等級、階級。人間同士の間にすら、【ライン】を引いてはいがみ合う。【ライン】【ライン】【ライン】。僕は工場の【ライン】の上で、小さなひとつの部品から組み立てられてここにいる。そういう意味では、僕自身の【スタートライン】はあの工場の生産ラインなのだろうね。でも、僕にとっての【スタートライン】はそれだけだ。ただの部品と今の僕との区分けをするための【ライン】。ただそれだけだよ、優理』


 ろっくんは視線をそらすことなく、ただまっすぐに優理を見つめる。

 その目に悲しみの感情が微かに宿っていることに、気づかないまま。

 明理はぐっすりと寝入っている。

 こうなれば、結構な物音でも立てない限り起きることはないだろうと、優理はそっと起き上がると、ベッドの反対側に横になっていたろっくんの隣に体を潜り込ませた。


「違うよ、ろっくん。あなたの【スタートライン】は、もうひとつあったのよ」

『もうひとつ、とは?』


 ゆっくりと体を反転させて優理に向き合い、ろっくんが尋ねる。


「うちの、家族の一員としての、【スタートライン】」

『それは、どのような』

「もうっ!ろっくんがうちに来た日だよ!」

『しっ!明理が目を覚ましてしまう』


 思わず声が大きくなってしまった優理の口を、ろっくんの大きな手が優しく塞ぐ。

 その手を両手で包み込み、優理は言った。


「あなたはあの日、うちの家族になるよりも、ロボットであることを選択したのよ、ろっくん。あなたは、うちの家族としての【スタートライン】に、私たちと一緒に立ってはくれなかった」

『…一緒に、立つ?』

「ねぇ、ろっくん。【ライン】てね、分けるためだけにあるものじゃ、ないんだよ。一緒に立つために引くものでもあるの」


 立って、と。

 ろっくんの手を両手で包み込んだまま、優理はベッドから身を起こしてろっくんと共にベットサイドに立ち、カーペットの上に足で一本の線を引く。


「今、私達は別々の点の上に立っているけれども…ほら」


 言いながら、優理はカーペットの線の上に立ち、ろっくんもその線の上に立たせて言った。


「ね?私たち今、同じ【ライン】の上に、一緒に立ってる」

『…なるほど』


 小さくつぶやき、じっと足元の線を見つめるろっくん。


「ねぇ、ろっくん。今なら、一緒に立ってくれるかな」

『今、一緒に立っているよ?』

「ちがう、そうじゃなくて」


 大真面目な顔のろっくんに吹き出しながらも、優理は期待を胸に言葉を継ぐ。


「家族としての【スタートライン】に」

『家族…』

「明理の父親として。…私の夫として」

『優理、僕はロボットだ。僕たちロボットは誰の親にもなれないことは、優理も知っているでしょう。明理の父親は、優理の元配偶者の継明つぐあきしか』

「そんな生物学的なことじゃなくてっ!」

『でも、持ち主である優理が望むのならば、優理の性欲の処理は可能だ。そういう意味でなら、僕は優理の配偶者の代替にはなれ』

「だからっ!そういう事じゃないのよ、ろっくん!」


 ヒューマノイド型ロボットは、男性型であれ女性型であれ、性行為も可能だ。

 もちろん、ヒューマノイド型ロボットとの性行為で子供が出来ることはないし、持ち主の命令なく性行為に及ぶことは決して無いよう、プログラミングをされている。

 けれども、優理はろっくんの中に確かな【愛情】の芽生えを感じていた。

 学習によって得た感情ではなく、自然発生した【愛情】の芽生えを。


「じゃあもし、明理がろっくんに性欲処理をお願いしたら、ろっくん、できるの?」


 ろっくんの現在の持ち主は、優理と明理だ。

 優理が元旦那の継明と離婚した後で、継明の名義を削除し明理の名義を追加したのだ。


『それはもちろん…』


 いいかけたろっくんの言葉が途中でとまる。

 その動き自体に、まるで戸惑っているかのような困惑の表情を浮かべて。


『できる、…はず。問題はない。いや、でも…』

「いいえ、きっとろっくんにはできないわ」

『なぜ?僕はロボットだ。生命にかかわること以外であれば、持ち主が望むことは全て』

「まだ、分からない?あなたにはもう既に、明理の父親としての自覚が、【父性】が芽生えているのよ、ろっくん」

『僕の中に【父性】が?僕が、明理の父親…?』


 目を見開いてろっくんは優理を見つめたあと、その目を熟睡している明理へと向ける。

 目を見開くろっくんの姿を、優理はこの時初めて見た。

 再び明理から優理へと視線を戻したろっくんは、まるで自分自身を受け入れられない人間のように、小さく首を振り、すがるような目を優理へと向ける。


『優理、僕はいったい』

「あなたは、ろっくんよ。それ以外の何者でもないわ」

『でも僕はロボ』


 言いかけたろっくんの言葉を、優理はキスで遮った。

 拒絶することなく、ろっくんは優理のキスをただ静かに受け入れた。


『優理、僕は壊れてしまったのだろうか』


 長いキスの後で、ろっくんが苦悩の表情を浮かべて呟く。


『全ての回路が熱を持っているようだ。熱くてたまらない』


 そっと優理が手を当てたろっくんの胸は、オイルやエネルギー体を循環させている人間にとっての心臓にあたるポンプが、通常よりも速いリズムを刻んでいた。


『自己修復プログラムも作動しない。修理依頼のデータを飛ばすこともできない。あぁ、優理、僕はどうしたら』

「落ち着いて、ろっくん。大丈夫、大丈夫だから怖がらないで」


 経験したこともなく、ましてや対処法すらもプログラムされていない非常事態に狼狽えるろっくんを、優理は優しく抱きしめた。


「あなたは今、新たなスタート地点に立ったのよ、ろっくん。あなたの中には確実に、あなた自身の【感情】が芽生えているわ」

『新たな、スタート地点…そのようなものは、僕たちヒューマノイド型ロボットの設定には』

「違う。ヒューマノイド型ロボットじゃなくて、あなたの、ろっくんだけの、スタート地点」


 ろっくんの持つデータ量を考えてみれば、優理の言葉を理解できないはずはなかった。

 けれどもろっくんは、困惑に満ちた顔を優理に向けるばかり。


「怖いのは、戸惑うのは、分からないから。それはもう、ロボットではなくて人間の【感情】なのよ、ろっくん。でも、あなたはひとりじゃない。あなたには明理もいるし、私だっている。だから、ね。今ここから、私たちと一緒に【生きて】みない?」

『生きる…』

「そう。あなたひとりでは【スタート地点】というひとつの点かもしれない。その点の上にひとりで立ってそこからひとりで歩き始めるのは、きっと不安だし怖いと思うの。だけど、私たちと一緒なら、そこは【スタートライン】になる。あなたの不安や怖さは、私と明理も一緒に背負うことができる。だって、一緒に【スタートライン】に立って歩き始めるのだから。ね、どうかしら?」

『【スタート、ライン】…』


 静かな時間が流れたのち、ろっくんの両腕がおずおずと優理の背中へと回された。


『優理、僕はあなたの性欲処理がしたい』


 始めて耳にするろっくんの恥ずかし気な囁き声。

 けれども優理は小さく吹き出してしまった。


「ろっくん、言い方!」

『え?これは間違っている?』

「うん。でもこれから少しずつ、積み重ねて行こうね。私たちの時間を」

『ねぇ優理。教えて、正しい答えを』

「そうね…じゃあ、こう言ってみてくれる?」


 優理がろっくんの耳元で小さく囁くと、ろっくんはその目に微かに甘さを滲ませて、優理に告げた。


『優理。僕は、あなたが欲しい』



「次のエッセイではね、【ヒューマノイド型ロボットの人権】について書いてみようと思うの」

『人権とは、人間に与えられる権利のことだよ、優理。ヒューマノイド型ロボットに人権は不要だ』

「じゃあ、ヒューマノイド型ロボットと人間の違いってなに?」

『何もかもだよ、優理。それぞれを構成する物質だって異なるし、なによりヒューマノイド型ロボットは有機物ではなく無機物の集合体だ。人間のように【生きて】いるように見えるだけで、その実僕たちロボットは僕たち自身を組み立てたマシンと種別としては同じであるし、優理の持っているモバイルフォンとも同じであるとも言える』


 とても初めてベッドを共にした直後の相手との会話とは思えない内容に、優理は苦笑を漏らしながらもろっくんを優しく抱きしめる。


「長いエッセイになりそうだわ」

『どうして?』

「まずは、ろっくん自身に【人権が欲しい】と思ってもらうことから始めなければならないからよ」

『それなら簡単だよ』

「え?」

『僕自身は、人権を与えられた方がこの先優理と明理と共に【生きる】事がスムーズだと判断しているからね』


 ヒューマノイド型ロボットへの人権は、ちょうど今世間が声を上げ始めたところだ。

 それはろっくんのように自然発生した【情】を持つヒューマノイド型ロボットが多く出現し始めた事によるものだろう。

 加えて、離婚率の高さも要因のひとつとなっている事は間違いない。

 離婚後にヒューマノイド型ロボットとの正式な婚姻を望む人間は、ここ数年で激増しているという。


『優理にひとつ、お願いがある』

「なに?」

『僕の経年劣化設定を、ONにして欲しい』

「ろっくん…」

『共に【生きる】のであれば、僕も優理や明理と同じように、経年劣化する方がいいと判断した』

「ろっくん、言い方」


 ろっくん自らの希望に少なからず感動を覚えていた優理だったが、直後の言葉に苦笑いを浮かべる。


『僕はまた、言葉を間違えて使っている?』

「そうね」


 クスクスと笑いながら、優理は言った。


「それはね。経年劣化ではなくて、【共に年を重ねる】と言うのよ」

『それは、優理と明理と一緒に立った【スタートライン】からの時間の経過、という意味?』

「ええ、そうね。うん、その通りよ」


 感じた事の無い甘やかな時間が、ろっくんと優理を包み込むように流れゆく。

 その傍らでは、明理が幸せそうな寝顔を見せていた。





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