変化するスタートライン(仮)

平 遊

第1話

『横一列に並んで


 ヨーイ、ドン!


 で皆一斉に真っ白なスタートラインに立ち、平等にスタートを切ることができるのは、よほど平和な国の人間たちか公なスポーツの世界だけだろう。

 それがどのようなものであれ、スタートラインというものは、時代によっても、場所によっても、人によってもそれぞれに異なるものだ。


 たとえば、そう。

 恋愛のスタートライン。

 一目惚れから始まるものもあるだろう。

 相手からのアプローチによって始まるものもあるだろう。

 知人の紹介から始まるものもあるだろう。

 今の時代であれば、ネットワーク上の繋がりから始まるものも多いようだ。

 遡った時代で言うところの文通とそう変わらない関係のようでもあるが。

 だが、これらは少なからず『自由』というものが保たれている世界での話。

 ひと昔ふた昔と遡れば、親同士家同士で決められた婚姻相手との恋愛も数多くあったようだ。中には決められた婚姻相手に恋をするという恋愛のスタートラインもあったようだが、大半の場合そこには恋愛のスタートラインなど存在しえなかった。

 さらに世界を見渡してみれば、恋愛という概念すら与えられていない自由の無い世界もあるだろう。もちろん、恋愛の概念の無い世界に、恋愛のスタートラインなどというものは存在しえない。

 恋愛とはあくまで『自由』あってのもの、なのだから。

 この世界には不当に『自由』を奪われ、恋愛の機会すら与えられない、すなわち恋愛のスタートラインすら奪われている人間だって多くいるのだ。

 幸いにして、今のあなたには『自由』が与えられている。どのようなスタートラインだろうが、自由に選択ができる。

 あなたはこの先どのような…


 反応が鈍いようだ。

 確かにまだ恋愛の何たるかを分かっていないあなたには、よく理解できないたとえだったかもしれない。

 あなたがこの先どのような恋愛のスタートラインに立つことになるのか、数えきれない程の可能性を想像する楽しさがあると判断したうえでのたとえなのだが。


 では、たとえを変えてみようか。

 出生。

 などはどうだろう。

 これならあなたも経験済みのこと。

 出生を経てあなたは今ここにいる。

 少しは興味を持ってくれるだろうか。

 あなたは両親のみならず、祖父母や親族、両親の友人達から多くの祝福を受けてこの世に生まれてきた。

 人は誰でもみな祝福を受けて生まれてくる。

 いや、人に限らず、全ての生命は祝福を受けてこの世に生まれてくる。

 出生すなわちこれ、命のスタートライン。

 いくらなんでもこのスタートラインはすべからく皆平等であるはずだ。


 と言う考えは、理想論としては上々であろうが、甘いと言わざるを得ない。


 この世に宿ってすぐ死に直面する、いや、死を与えられる命など、この世に掃いて捨てるほどある。

 人に限ったところで、とても少ないと言える数ではないだろう。

 運よくこの世に生まれ落ちたところで、祝福無く生を受ける命がどれほど多くあることか。

 今の時代にこの地域に生まれ育ち争いを知らずに生きている平和馴れした人間には、とても想像などできはしまい。

 いや。

 平和で安全の中に身を置いて自己の利のみを追求する優秀な人間であれば、想像は難くないだろうか。

 生まれ落ちる命をモノとして扱い、命を包む器たる体を他の人間の体の代替品として扱うような人間ならば。

 この命のスタートラインは、それでも『スタートライン』と言えるのだろうか。


 やはり反応が鈍いようだ。

 まだ、命のスタートラインに立って歩き始めて間もないあなたには難しかっただろうか。

 いずれ振り返った時に、あなた自身の非常に恵まれた幸せに満ちた輝かしいスタートラインを記憶に留めておくために必要だと判断したうえでのたとえなのだが。


 それでは、このたとえはどうだろう。

 あなたはもうすぐ学びのスタートラインに立つ。

 すなわち、就学だ。

 入学式用の洋服もランドセルも、両親や祖父母に用意して貰っている。

 よほどうれしいのだね、少し笑ったように見えるよ。

 新品のランドセルを背負って何度もその姿を鏡の前で確認していたことを、僕は知っている。

 あなたの住むこの地域ではおそらく、皆同程度の水準の生活をしているだろうから、最初は各々のスタートラインの違いに気づくことは難しいかもしれない。

 しかし、あなたの立つそのスタートラインが当たり前だと感じたのならば、それは間違いだと言わざるを得ない。

 この地域のみに限定してみても、時代を遡れば学びのスタートラインは大きな変化を経て今に至っているのだ。

 時が時であれば、学びのスタートラインすら用意されない者も多くいたのだから。

 それでは時を遡ってみようか。

 学びというものが人間の間に定着をしたの』



「ママー!」


 明理あかりは大声で母親を呼んだ。

 尋常ではない愛娘の声に、優理ゆうりは仕事の手を止め愛娘の寝室へと駆けつける。


「どうしたの、明理?!」

「ろっくんがうるさくて眠れないの」

「えぇっ?!」


 不満そうに眠たい目を擦りながらそう訴える娘の言葉に、優理は寝かしつけのために明理の隣で横になっているヒューマノイド型ロボットに目を向けた。

 今やどの家庭にも必ず1台は-いや、1人と言った方がいいだろうか-はいる、ロボットだ。

 家事全般はもとより、育児や介護、家庭教師もこなす万能ロボット。

 明理の妊娠と同時に結婚をした優理は、甲斐甲斐しく世話を焼く新妻や育児に奮闘する新米ママの姿に憧れがあり、当初はロボットの購入を渋っていたものの、出産後には想像をはるかに超えるあまりの過酷さに180度考えを改め、このヒューマノイド型ロボットを購入した。

 正式名称は、M-STTLN。

 迷った末に、優理は男性型のヒューマノイド型ロボットを購入した。

 M-STTLNはとても知的で優しく、穏やかな表情をしていていて、ほとんど一優理の目ぼれ。

 などということは、とても旦那には言えなかったが。

 そんな、優理の好みは明理にも遺伝したのだろうか。

 優理以外は、仕事で家を空けがちな旦那でさえ触るだけで泣きわめいていた赤ん坊の明理は、M-STTLNに抱かれるととたんに可愛らしい笑顔を見せたのだ。

 優理は安心して明理の世話をM-STTLNに任せ、仕事に専念した。

 結果、今この家には旦那はいない。

 家事も育児も日曜大工も力仕事も、M-STTLNは全てを文句一つ言うことなく、完璧にこなした。やがて旦那はこの家庭には自分の居場所は無いと告げ、離婚届と結婚指輪を残して出て行った。

 これもまた、今や多くの家庭で起こっている事象だ。

 男性型のヒューマノイド型ロボットを購入した家庭では旦那が家を出て行き、女性型のヒューマノイド型ロボットを購入した家庭では妻が出て行く。

 優理は仕事を持っていたため金銭的に困窮することは無かったものの、仮に無収入だったとしても、政府の援助が受けられるために生活に困ることはない。

 何一つ困ることはないのだ。

 優理には明理がいて、M-STTLNがいる。

 それはもはや、ごく普通の家庭のようだった。


 いつの間にか、明理はM-STTLNを「ろっくん」と名付けていた。

 幼い明理には「ロボットくん」が上手く言えずに「ろっくん」となったらしい。

 M-STTLNも「ろっくん」という名を自身の名として認識していた。身の危険だと判断しない限り、ロボットが持ち主である人間の言葉に逆らうことは無いものの、M-STTLNは正式名称よりも「ろっくん」という名の方を好んでいるように、優理には見えた。


 そういう訳だから、ろっくんは明理の寝かしつけもお手のもののはず。

 そのろっくんが、明理の入眠を妨害するとはとても思えず、優理は首を傾げてろっくんに尋ねた。


「ろっくん、うるさいって・・・・明理に子守歌でも歌っていたの?」

『歌ってはいない。明理はもう子守唄で寝かしつける年ではない』


 ろっくんが即答する。


「じゃあ、なにをしていたの?」

「【スタートライン】についての話をしていた」

「【スタートライン】?・・・・あぁ!」


 理由に思い至った優理は、己の額を平手でピシャリと叩く。


『優理、自分自身を痛めつけてはいけない』

「ああ、大丈夫よこれくらい。全然痛くないから。ただ、活を入れただけ」

『それは何故』

「今度の仕事のテーマなのよー!【変化するスタートライン】が!」

『エッセイの仕事だね』


 優理の仕事は、ざっくり言えば【物書き】。

 今やAIや様々なプログラムがいとも簡単に完璧な文章を作り上げるこの時代、少しくらいの雑さや粗が見える拙い生身の人間が書き上げる文章も、マニアの間では意外に需要が有るという。

 お陰で優理は時間がいくらあっても足りないような状況で、明理やろっくんと過ごす僅かなひとときは優理にとってのこの上ない癒やしの時間となっている。


「そうなのよ。もう、ぜんっぜん書けなくて…きっと、知らないうちにブツブツ口に出していたのを明理が聞いていたのね」

『子供というのは、大人が思う以上に様々な情報を吸収するものだから』

「そうねぇ…」


 明理を挟んで、ろっくんと反対側に体を横たえると、優理は母親の笑みを浮かべて明理を見つめる。

 優理がろっくんと話をしている間に眠ってしまったようで、明理は小さな寝息を立てていた。

 そっと起き上がろうとするろっくんの腕を抑え、優理は言った。


「ねぇ、ろっくん。私にも、【スタートライン】のお話、聞かせて」

『だめだよ、優理。エッセイは自分で書かないと』


 ヒューマノイド型ロボットの言葉遣いは、設定で変えることができる。

 初期設定は敬語。

 優理はろっくんがこの家に入ったその日に設定を変えた。そのため、ろっくんが敬語を使ったことは一度もない。

 敬語は使わないが、汚い言葉や相手を傷つけるような言葉は決して使うことはない。

 そうプログラムされているのだということは分かっていながら、優理は心のどこかで、これはろっくん自身が持つ優しさなのではないかとも思っていた。


「大丈夫よ。エッセイはちゃんと自分で考えて書くから。でも、ろっくんの考える【スタートライン】がどんなものなのか知りたいの」

『優理、僕はロボットだよ』


 優しさの中に僅かばかり見える呆れたような表情。

 ヒューマノイド型ロボットには初期設定では感情のプログラミングはされていないが、人間の中で生活することによって学習するようにセットされているらしい。

 ということは。


「呆れる、ということは学習済みということよね」


 と、優理は苦笑を浮かべた。

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