第13話 空下さんは友達である

 幼馴染を見送ってすぐ、空下さんが駆け足でやってきた。ぱたぱたと軽い足音と共に目の前で立ち止まる。


「すみません、お待たせしてしまって」

「……ううん、大丈夫だよ。全然待ってないし」


 普段の声を意識して、なんとかいつものように振る舞う。薄く口角を上げて、動作をゆっくりにして。

 まだ抜け切らない明奈との時間のせいで、上手く振る舞えているか不安だ。


 なぜか空下さんは無言のままじっとこっちを見つめてくる。淡墨色の瞳に俺の姿が映る。


「……どうかした?」

「……いえ、なんでもないです」


 ゆっくりと首を横に振る空下さん。髪がさらさらと何度も揺れる。

 とりあえず言いたいことはないようなので、早速リュックから目的の物を取り出す。


「はい、これ。空下さんのハンカチで合ってるよね?」

「あ、そうです。ありがとうございます」


 空下さんは丁寧な手つきで受け取ると、ほっと優しく息を吐いた。

 柔らかい表情で手元のハンカチを見つめる。細められた目がやけに印象に残る。大事そうに畳んでポケットにしまった。


「すみません、わざわざ次の日にしてもらって」

「今日も午後から授業あるからそのついでだし。気にしないで」

「どこで拾いました?」

「ほら、昨日連れ出してくれた空き教室のところ。空下さんが出ていった後落ちてたから、その時落としたんじゃないかな」

「あの時でしたか。教えてくれるまで全然気付きませんでした。本当に拾ってくれてありがとうございます」


 深々とお辞儀する空下さん。ただ拾っただけなのにそこまで感謝されるのは申し訳ない。

 頭を上げるようにお願いをして、そこで会話が途切れた。


 静まる空気。一度黙ると、またさっきまでのことが脳裏に蘇ってくる。

 明奈の表情、仕草、声。繰り広げられた会話がまだ鮮明に残っている。突きつけられた現実の傷を隠すのには、まだ時間が足りない。

 振り返ったところで何も変わらないのだけれど、勝手に脳内で再生されてしまう。


「……はぁ」


 あまりにやるせなくてため息まで出てしまった。

 そこまで大きく吐いたつもりはなかったけれど、空下さんは気付いたようで真っ直ぐにこっちを見た。


「……あの、要くん」

「うん?」

「まだ授業まで時間ありますよね? どこかカフェにでも行きませんか? 拾ってくれたお礼に奢ります」

「え、いや、いいよ」


 慌てて首を振るけど、空下さんは有無を言わさない気迫で見つめてくる。

 

「ダメです。私の気が済みませんので。前のカフェでいいですか?」

「う、うん。それで大丈夫」


 あまりに真剣な表情なので、思わず頷いてしまった。

 空下さんも頷き返してくると、「では、行きましょう」と先を歩き出す。

 意外と強引な部分もあるらしい。もう少し大人しい人だと思っていたんだけど。戸惑いつつも空下さんの背中を追いかけた。


 慣れているようで迷うことなくカフェには到着した。


 1週間ぶりのカフェだ。まさかあの時と同じく、空下さんとここに来ることになるとは。空下さんは机に広げられたメニュー表を眺めている。


「要くんも好きな物を選んでください」

「本当に奢ってくれるの?」

「もちろんです。ほら、このジャンボBIG巨大パスタなんてどうです?」

「それはちょっと遠慮したいかな」


 写真が載っていないので分からないけれど、明らかに一般人が手を出してはいけない料理ということだけは分かる。『大きい』アピールが物凄い。


 空下さんは若干トーンを落として「そうですか」と呟いていた。空下さんから俺はどんな存在に見えているのか一度聞いておきたい。


「では、普通にコーヒーでいいですか?」

「うん、ホットで」

「分かりました」


 店員を呼んでさらさらと注文を終える。店員がいなくなり、静かになった。

 凛とした空気。周りのお客さんの会話がやけに大きく聞こえる。空下さんは目の前に置かれたコップの水をこくりと一口飲んで、机に置く。カランッと氷が鳴る。

 コップを見つめ、それからゆっくり視線を上げた。


「……要くん、なにかありました?」

「え?」

「あまり元気がないように見えたので」

「いや、別になにも……」


 自分の未練がましい気持ちのせいで、勝手に落ち込んでいるだけなのだ。

 適当に惚けてみたけど、空下さんは見透かすように見つめ、誤魔化すことを許してくれなかった。


「小鳥遊さんのこと、ですよね?」

「……見てたの?」

「別れる直前の二人が話しているのを少しだけ」

「そっか。だからか」


 半ば無理やり連れ出してくれたのは、俺が落ち込んでいるのを察していたからみたいだ。優しい空下さんらしい。


「私でよければ話ぐらい聞きますよ。力になれるかは分かりませんけど」

「……ううん。ただちょっと落ち込んでただけだから。大丈夫」


 確かに全ての事情を知っているのは駿を除けば空下さんくらいしかいない。

 だけど、空下さんにとって自分は好きだった人なわけで。


 空下さんに明奈のことを話すのは、それはさっき自分がされたことと同じではないだろうか?

 その苦しさ、辛さは十分に理解している。

 

 空下さんの立場を考えてしまって言い淀むと、空下さんは薄く口角を上げて微笑む。


「……別に遠慮なんてしなくて大丈夫ですよ」 

「え?」

「私が好きなのは以前の要くんですから。安心してください」

 

 目を細めると優しく包み込むように呟く。


「気を遣って下さるのは嬉しいですけど、話せば楽になることもありますよ?」

「いや、でも」


 空下さんは平気だと言っているけれど、それは多分自分に気を遣ってくれているだけだろう。そんなことは俺でも分かる。


 空下さんは優しい人だ。だからこそ、その優しさに甘えるわけにはいかない。


 首を振ると、空下さんは僅かに眉をへにゃりと下げる。


「もしかして迷惑でしたか?」

「そんなことないよ。凄く気持ちはありがたいし」

「だったら聞かせてください。そんな辛そうな顔しているのに放っておけるわけないじゃないですか」


 悲しげに空下さんの瞳が揺れて、その表情に思わずぐっと喉が詰まる。


「少しは力にならせてください」

「……分かったよ」


 乞うような視線に小さく息を吐いて頷いた。


 肩の力を抜くと、貼り付けていた仮面が剥がれていく。不思議なことに空下さんが相手だと本音が流れるように出てしまう。


 促されるまま、さっきあったことを振り返った。

 

 再会した明奈が大人っぽくなっていたこと。

 でも、中身は全然変わってなかったこと。

 駿と付き合っていることを改めて実感してショックを受けたこと。

 やっぱり明奈の笑顔は可愛かったこと。


 話せば話すほどに止まらなくなる。ついさっきのことなので、思い出すのに苦労はしない。鮮明に思い出すたびに自分の心が揺れ動いてしまう。


 空下さんは淡々と頷いているだけで、それが何よりありがたかった。


「本当に小鳥遊さんのことが大好きなんですね」

「10年以上だからね。未練がましいのは重々承知だけど」


 本当にいつまで引き摺ればいいのか。不毛な感情なんて消してしまいたい。自分で自分が嫌になる。


「……だから勝手にショックを受けて落ち込んでたってだけ。女々しくてドン引きした?」


 こんな情けない姿、引いてもおかしくないと思ったが、空下さんは気にも止めず優しく微笑んでいる。


「しませんよ。それだけ想ってくれるなんて、とても羨ましいです」

「諦めきれてないだけだよ」

「そんなの、好きになっちゃったなら仕方ないですか。すぐに忘れるなんて無理に決まってます」


 空下さんは凛とした声を響かせた。


「……そう、かな?」

「当たり前です。大事な人ならなおさら。大好きだったんですよね?」

「うん」

「なら、仕方ないですよ。時間がかかるのは」

「……じゃあ仕方ない、か」


 自分が女々しいだけな気がしていたから、空下さんにそう言ってもらえると、少しは気持ちが軽くなる。


「……はい。好きになっちゃったものは仕方ないです」


 空下さんは、言い聞かせるように小さく呟いていた。

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