第8話 空下千冬視点②

 ゆっくり寝ていると、何かが地面に落ちる音が聞こえた。どうやら要くんがベッドから落ちたらしかった。

 眠い目を擦って、落ちた方に視線を向けると、要くんは怯えた表情でこっちを見ていた。


「……誰?」

「なにふざけてるんですか? 眠いんですから、そういうのは朝にしてください」

「いや、本当に分からないんだけど。てか、ここどこ?」


 要くんは、周りをきょろきょろと慌ただしく見渡して、急に立ち上がると、床に置いておいた服を急いで着始めた。


 様子がおかしい。そう思って起き上がり、要くんに手を伸ばす。要くんの腕に触れる直前、怯んだような顔を見せて私の手を避けた。


 そのことで、じくりと嫌な予感が湧き始める。


 要くんは服を全部着て、急に帰ると言い始めて、玄関へといってしまった。


(え、待って……!)


 慌てて追いかけて、要くんの腕を掴んだ。要くんはこっちを振り返る。


 何か言わなきゃ、そう思ったけれど何も出て来ない。言葉を探している間に、要くんに冷たく「離してくれ」と告げられた。

 それ以上何も言い残さず出ていってしまった。


 赤の他人を見るような要くんの顔がずっと脳裏に残っている。怖くて、動揺して、身体が縛り付けられたように動かなかった。


 頭が真っ白のまま呆然と立ち尽くして、どのくらい経っただろう。


(うそ、ですよね……)


 一人部屋に残されて、嫌な予感がどんどん湧き上がった。そして、その予感はほぼ確信に変わり始めた。

 信じたくなかった。でも、それ以外にはあり得なかった。


 以前、要くんに「記憶が戻ったらどうなるんですか?」と聞いたことがある。

 お医者さん曰く、そのままこの三年間の記憶は残っているかもしれないし、残っていないかもしれない。とのことだった。


 記憶喪失は医学的に分かっていないことが多い。なんとも言えないのは仕方のないことだと思う。

 その時は軽く聞き流していたし、気にもしなかった。けれど、もし、お医者さんの言葉が本当だとするのなら。


(そんなこと……いや、です)


 メッセージを送っても返信は返って来なくて、要くんが一人暮らししている家に行っても、誰も出て来なくて。

 時間が経てば経つほどに、じっとりとした不安はどんどん確信に変わっていく。


 そして要くんと連絡が取れなくなって二日が経ち、意を決してもう一度メッセージを送った。


『明日、会えませんか?』


 心臓が落ち着かない。うるさくいつまでの鳴いていて、呼吸すら浅い。1秒、2秒、と針が進むたびに、指が震える。


 返事が貰えるかは分からない。既に二日もメッセージが無視されているんだから、返って来ない可能性は十分ある。


 すぐに返って来ないこともあり得るのに、待てなくてひたすらスマホを見つめ続けた。


 来て欲しいような来て欲しくないような。自分でも気持ちが曖昧だ。


 彼が私の知ってる要くんのままなら、それが一番嬉しいけれど、その望みは多分……。


(私はどうしたらいいんでしょうか……?)

 

 もし私の想像が当たっているとするなら、要くんにとって、私は全く知らない人になっている。

 そんな人が彼女だと言われても困らせてしまうに違いない。


 それに昔の要くんに好きな人がいたことも、聞いたことがある。だとするなら……。


(……考えたくない)


 スマホを持つ手に力が籠る。


 いやだけど、絶対想像の通りになんてなって欲しくないけど。でも覚悟はしておかないと。


----私は要くんに返しきれないほどの恩がある。命を救ってくれた恩が。


 だから。


 スマホの通知が鳴った。急いで見ると、そこには了承の文字があった。場所は大学近くのカフェ。


 じわりと口の中に広がる苦味を飲み込んだ。

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